エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 何かの拍子にふと思い出したのだが、私はもともと絵描きだったのである。
 いやいや「だった」なんて言わずに、これからもせいぜい描いてくださいよ、旦那様。ようござんすか、絵描きなんてもなぁ、四十五十は洟垂れ小僧、ほんとうの仕事ができるのは、六十からってえじゃねえですか、とは私の親父の代から店で奉公してくれている番頭の辰三。尾形光琳とジミー大西の違いも判らないくせに、むやみに激励してくれるのだが、私としてはどうにもモーティベーションが上がらない。
 私の絵描き人生のなかで、最もモーティベーションが上がった年のひとつが、2004年。48歳にして初めての個展。大阪市の谷町というところにある、K庵というカフェで行なったのを手始めに、その年の間に大阪と東京で合わせて4回も個展を行なった。しかし、売れっ子ならば知らぬこと、新参者の身で年に4回も個展をなさるとは、ご乱心の噂も立ちかねませぬ。そうなれば御家の瑕瑾ともなりましょう、という家老、高村仁左衛門の諫言にも耳を貸さずに行なった余が愚かじゃった。将来を期待できるような反応も得られないまま、東海道個展行脚は終った。

 それはもういい。昔の話だ。それにもう絵は描かないと決めたのだから。しかし先日、何年振りかも思い出せないほど不義理をしていた、初個展の会場であるK庵に行ってきた。私のことはすっかり忘れられているだろう、店のドアを開けたら、いらっしゃいませ、どうぞ空いてる席に、なんて他人行儀な挨拶をされるだろうと思っていたら、店主のWさんが私を見て、おいおい永吉さんやんか、久しぶりやなあ、何してたんや、たまには顔出さんかい、ボケカス、二度と来るな、この私生児と、口を極めて歓迎してくれた。
 なのに、こっちが余計な遠慮をして、テーブル席でジョッキに入った生ビールをちびちび飲んでいると、なんやその水飲み鳥みたいな飲み方は、カウンターにおいでえなと、Wさんが声をかけてくれたので、やっと、かつてのような打ち解けた気分になれて、個展をした当時の思い出話を、ひとつひとつ箱から取り出すように楽しむことができた。



 夕方、K庵に着いたときは、客は私しかいなかったが、カウンター席でWさんと暫く話しているうちに、背後に賑やかな気配を感じた。振り返ると、いつの間にか、10脚以上あるテーブルがすべて埋まっていた。やはり金曜は客が多い。私はもうびっくりしてしまった。

 Wさんが、またウチで個展やってくれ、と言ってくれた。本来ならこっちからお願いするところを、先方から依頼されるなんて恐悦至極なのだが、なにしろこっちにその気がない。いやもう、まったくない。絵なんて、ちっとも描きたいと思わない。ん~最近どうも気分が乗らないのよねぇ、なんて生易しいもんじゃない。摂食中枢を切除されて、まったく空腹を感じなくなってしまった実験動物のようなものだ。彼らは死ぬまで腹が減らないだろう。私も死ぬまで、絵を描きたいとは思わないだろう。そんな気がするのだ。

 Wさんの申し出を無下に断るのもアレだしなあと、私は頭を掻き掻き、何気なしに後ろを振り返ると、テーブル席はさらに賑わっていた。いつの間にかテーブルの上には、この店のメニューが全部出てるんじゃないかと思えるくらい、たくさんの料理や酒が載っていて、私はもうびっくりしてしまった。

 私は、申し出を断るというよりも、悩める芸術家の告白といった体裁で、Wさんに言った。個展をする気はあるのだが、ぜんぜん描けない。なにも浮かんでこない。僕はもう搾りカスだ、空砲だ、ピンのなくなったホッチキスだ、停電のときの回転寿司屋だと、文学の香り馥郁たる譬喩を総動員して、自分の落魄ぶりをアピールしたのだが、Wさんは呵々と笑って、芸術家っちゅうのはそういうもんや、しばらく作品ができんと、もう一生あかんような気になってまう。それに耐えきれん奴が道を反れたり、命を断ったりするんや、と言った。

 なるほど、こういうことは芸術家本人よりも、芸術家を側面から見てきた人の方が、よく解るのかもしれないと感心した。そのときふと振り返ると、テーブル席はますます賑わっていた。客はさらに増えていて、椅子がなくて立って飲み食いをしている客が10人はいる。テーブルの上には、コップひとつ立てる隙間もないほど食器が置かれていて、どれが誰の注文した料理なのか判らないほど雑然としていた。私はもうびっくりしてしまった。

 いつごろから、絵を描くことへの熱意が薄らいできたのかを考えてみるに、やはり、2004年の東海道個展行脚以降ということになりそうだ。ここまでやってもダメか、これだけカネと時間と労力をつぎ込んでもダメか、これほどいい作品を出してもダメか、という失望感である。ダメというのは要するに、反応がなかったということ。悪評がない代りに好評もなかった。ブーイングも拍手もしない観客の前で芝居をしている役者のようなものだ。

 もし、誰かに何かを言ってもらわなければ絵が描けないということなら、やはり描くのをやめた方がいい。頭を切り替えようと後ろを振り返ると、テーブル席はいよいよ賑わっていた。客が目立って増えている。テーブル席といっても立っている客の方が多くなっていた。立っているのに疲れたのか、床に坐り込んでいる客もいた。なのに、後から後から客が店に入ってくる。しかも帰る客はひとりもいない。私はもうびっくりしてしまった。

 いや、原因は別のところにありそうだ。欲しかった反応というのは、自分の才能に対する反応ではなくて、その作品に商業的価値があるかどうかという反応だったのではないのか。つまり自分の絵がカネになりそうだという手応えが欲しかったのだ。「色彩が美しいわ」「可愛いキャラクターだな」「リアリティがあるね」。そんなものは、私にとっては賛辞でもなんでもない。「これは、ゼニになりまっせ、大将」。これ以外に賛辞なんてものはないのだ。
 これで、何もかもはっきりした。私が絵を描く情熱を失ったのは「俺の絵はゼニにならへん」と観念したからだ。しかし逆に、ゼニをやるから、これこれこんな絵を描けと言われたら、そらあんた、描きまっせ。ゼニになるんやったら、猥褻図画でも何でも描かせてもらいまひょ。わてのモーティベーションが上がるも下がるも、ゼニ次第でんがな。

 Wさんから、ヤケになりなやと言われた。冗談冗談、といいながら、後ろを振り返ると、テーブル席がとんでもなく賑わっていた。店の入り口が混んでいたので、窓や通風口から入り込んでくる客もいた。すぐにフロアが人でいっぱいになり、溢れた客は厨房になだれ込んで、自分たちで料理を作り、あまつさえ新しいメニューを作り出していた(K庵の料理のメニューの半分は、このような、厨房へと追いやられた人びとによって作られたのである)。そして彼らは、会計を済ませ、閉店時刻になると、店の隅々までを掃除し、戸締まりをして帰って行った。私はWさんとその一部始終をずっと眺めていた。みんな素敵な人たちだった。

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