エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




一年ほど前から寝言がひどくなった。
眠りについてしばらくすると、別の人格が目覚めたかのように喋り始める。そしてそれが小休止をはさみながら朝まで続くのだ。
ところが私は独身で、同居者は妻子どころか猫もいない。幸か不幸か寝言を聞いてくれる相手がいないから、私は自分にそんな厄介な癖があることにまったく気がつかないでいるのだ。このままでは死ぬまで気がつかないだろう。

この間、近場に一泊で旅行をした。泊まったのが安旅館で、その部屋の壁が薄く、隣で食事をしている客の、箸先が皿に当たるかちかちという小さな音まで聞こえるくらいだった。
当然、夜中に、私の寝言で隣の客を起こしてしまうことになった。客が、うるさいから部屋を替えてくれと、目をしょぼしょぼさせながらフロントに訴えに行くと、入れ替わりにフロント係の年輩の女が険しい顔つきでその部屋にやってきて、腕組みをしながら私の寝言に耳を傾けていたが、しばらくするとその表情がゆるみ始め、口の角には意地の悪そうな笑いが浮かんだ。彼女は喜んでいた。ここで聞いたことを同僚たちに話して大いに盛り上がっているところを想像し、うきうきしていた。

フロント係をうきうきさせた私の寝言の内容というのは、中年になっても結婚できずにいること、なのに性欲は青年なみで、いまだに最低週3回は自慰をしていること、勤め先で、隣の席にいる女子社員の、大きく開いたシャツの襟の中を、椅子から立ち上がりながら横目でそっと覗きこんだら、それ以来、その女子社員が襟の開いた服を着てこなくなったのは、私の視線に気づいたからなのか、それが気になって仕方がないことなど、要するに、そっちの方面のことばかりだった。もし、そんな、誰にも話せないような恥部を他人が知っていることが分ったら、私は多分、自殺しただろう。

結局、旅館から寝言については何も聞かされないまま、翌朝発った。だから、ひと晩じゅう自分の恥部を語り続けたことを私はいまだに知らない。まるで、ズボンのファスナーを開けっ放しで、性器をのぞかせたまま、それを知らずに往来にぼんやり立っているような間抜け振りだ。
旅館が何も言わなかったのは、旅行中に厭な思いをさせたくないという心遣いがあったからだが、おかげで私はまたどこかで恥をかくことになるのだ。


この話が、単に、三人称であるべきところを一人称にしただけの似非実験小説なのか、それとも何かの寓意を含んでいるのか、それは歴史の判断に委ねるほかはあるまい。

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