エッセイでも小説でもルポでも嘘でもなんでも書きます
無名藝人




 熟(つくづく)思うのだが、私は医者との出合いには本当に恵まれなかった。スカばかりが当たった。よくこれまで生きて来れたものだと思う。

 もう20年以上も前のことになる。ある日、両眼に圧迫されるような痛みを感じたので、眼科に行った。眼底検査までしたのだが、担当した若い医師は、原因がわからないと言う。ただ、ベテランらしい看護婦が「これ風疹じゃないかしら」と、独り言のような、医者に助言するような、曖昧なスタンスで言ったのを憶えている。
 帰宅してからしばらくは、訳のわからない薬を飲んで寝ていたのだが、そのうち高熱を発するようになり、これは看護婦の言った通り風疹なんじゃないかと、内科で診てもらったら、そうです、これはあーた正真正銘、風疹ですよ、と断言された。目の痛みもその影響だったらしい。若い眼科医よりも、ベテランの看護婦の見立ての方が正しかったわけだ。

 また、これもずいぶん前の話だが、首の付け根から後頭部にかけて執拗な痛みがなくならないので不安になって、とりあえず外科で診てもらった。レントゲン写真をみながら、中年の医者が「ここに少し骨がつき出てるでしょ。多分これが刺激してるんでしょうね」と言う。そこで首筋に電気を流す治療をして、また訳のわからない薬をもらって、その後も何度か医者へ感電しに通ったが、一向に痛みが和らぐ様子がなかった。
 たまたま、知人にそのことを話すと、それただの「凝り」ちゃうんかいなと、マッサージ師を紹介されて揉んでもらったら、二日後には痛みが完全に消えた。最高学府で専門教育を受けた、国家資格を持った外科医より、近所のおばちゃんの見立ての方が正しかったわけだ。

 もっとひどい話もある。小学校の時、かかとの骨の軽度の炎症を骨髄炎と誤診されて、しばらく松葉杖の生活を強いられた……が、もうその話はいい。遠い昔のことだ。その間はタクシーで登下校をしなければならなかった……が、もうそれはいい。名古屋市北区の総合病院だった……が、もういい。

 おいおい、ミネソタじゅう歩いたってこんな馬鹿げた話は聞けねえぜ、ドク、あんた、そうは思わねえかい的な誤診ばかりで、殆(ほとほと)呆れるが、今になってみれば、要するに「ハズレ」を引いてしまった私の不運だったのだと考えることができる。つまり、自分の身に起きた災難を、すべて「当たり外れ」の問題にすり替えるのだ。困難と真っ正面から闘えない弱者には、この対処法が有効であると、私は自信を持って言うことができる。



「当たり外れ」がつきものの商品がある。楽器や衣服、自動車など。小説や映画なんかもそういう言い方ができるだろう。しかし野菜類や魚介類、ペットのような「生モノ」は特にその傾向にある。いかに霊長類の長、人間といえども、しかもその中でも選りすぐりのインテリげんちゃん、お医者様といえども、生モノなのだから、楽器よりもハズレが多いのは当然。

 結婚生活の破綻は、運悪くハズレの相手を選んでしまったことが原因だ。また、共同経営を持ちかけてきた相手の大風呂敷に虎の子をつぎ込んだ結果、失敗して文無しになったとすれば、それは運悪くハズレのビジネスパートナーを選んでしまったからだ。
 夜中に路上で酔っ払いに殴られたとすれば、それはハズレの通行人と遭遇してしまったからだが、ハズレの道を歩いたからだとも考えられるし、ハズレの時間にそこにいたからだとも考えられる。
 会社の昼休みに、近くの公園内の、海が見渡せる眺めのいいベンチで昼食を食べようと思って行ったら、そのベンチがすでに熱々のカップルに占領されていたとすると、それはハズレのカップルのいるハズレの公園を選んでしまったからだ。アタリのカップルなら、抑(そもそも)誰かの昼食時に、公園にいるなどあり得ない。



「くそ、このハズレが!」と私は叫んでオレの右の頬を私の右手で、力いっぱいぶん殴った。というのは、オレがまた、終電がなくなるまで飲み屋にいて、大金を使ってタクシーで帰ってきたからだ。しかも、私の気に入っていた傘をオレが店に忘れてきたとあっては、私ももうオレに甘い顔を見せるわけにはいかないのだ。
 しかし、私がうっかりして、オレが眼鏡をかけたまま殴ったので、眼鏡の蔓に拳が当たって、蔓がひん曲がってしまった。ほらほらまたカネの要ることしやがって。私は当分、酒抜きだ。眼鏡を買い替えるカネが貯まるまで酒抜きだ。オレもしばらくは、この歪んだ眼鏡をかけてなくちゃならなくなっちまった。
 タクシーや傘や眼鏡だけの問題じゃない。私の生活と人格を破綻させたのは、僕の責任だ。私が僕というハズレ引いてしまったせいだ。僕があのとき多美代と結婚していたら教師を辞めることもなかっただろうから、今頃は、松山中学で教頭くらいにはなって、髭のひとつも生やしていたかもしれない。
 吾輩ハ僕デアル。名前は私だ。倩(つらつら)思ふに、此れは仕方の無いことなのだ。吾輩のやうなハヅレを引いた小生が不運だつたとしか云ひやうが無いのである。哀れ也、吾輩の人生は、小生と云ふハヅレを引いた時より凋落の道を辿り始めたのである。
 うん、そういえば、僕の髪の毛はクセがあって、ちょっとカールしてるんだ。だから髪が伸びると、普通の人なら重力に従って下方向に長くなるんだけど、私の場合、水平方向に膨張するような形態をとるので、昔のドイツ軍の鉄兜のようになる。頭髪もハズレだった。
 ああ、だからだから。実の母親から莫大な金額のお小遣いをもらったことすら憶えていることができないようなハズレの政治家を選んでしまったのは、日本人の、政治家を見る眼がハズレだったからだ。ここはひとつ、クジ運がなかったものとすっぱり諦めて、日本が崩壊するのを眺めているとしよう。この世界はハズレだった。来世に希望を託そう。厭離穢土欣求浄土。(合掌)

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 何かの拍子にふと思い出したのだが、私はもともと絵描きだったのである。
 いやいや「だった」なんて言わずに、これからもせいぜい描いてくださいよ、旦那様。ようござんすか、絵描きなんてもなぁ、四十五十は洟垂れ小僧、ほんとうの仕事ができるのは、六十からってえじゃねえですか、とは私の親父の代から店で奉公してくれている番頭の辰三。尾形光琳とジミー大西の違いも判らないくせに、むやみに激励してくれるのだが、私としてはどうにもモーティベーションが上がらない。
 私の絵描き人生のなかで、最もモーティベーションが上がった年のひとつが、2004年。48歳にして初めての個展。大阪市の谷町というところにある、K庵というカフェで行なったのを手始めに、その年の間に大阪と東京で合わせて4回も個展を行なった。しかし、売れっ子ならば知らぬこと、新参者の身で年に4回も個展をなさるとは、ご乱心の噂も立ちかねませぬ。そうなれば御家の瑕瑾ともなりましょう、という家老、高村仁左衛門の諫言にも耳を貸さずに行なった余が愚かじゃった。将来を期待できるような反応も得られないまま、東海道個展行脚は終った。

 それはもういい。昔の話だ。それにもう絵は描かないと決めたのだから。しかし先日、何年振りかも思い出せないほど不義理をしていた、初個展の会場であるK庵に行ってきた。私のことはすっかり忘れられているだろう、店のドアを開けたら、いらっしゃいませ、どうぞ空いてる席に、なんて他人行儀な挨拶をされるだろうと思っていたら、店主のWさんが私を見て、おいおい永吉さんやんか、久しぶりやなあ、何してたんや、たまには顔出さんかい、ボケカス、二度と来るな、この私生児と、口を極めて歓迎してくれた。
 なのに、こっちが余計な遠慮をして、テーブル席でジョッキに入った生ビールをちびちび飲んでいると、なんやその水飲み鳥みたいな飲み方は、カウンターにおいでえなと、Wさんが声をかけてくれたので、やっと、かつてのような打ち解けた気分になれて、個展をした当時の思い出話を、ひとつひとつ箱から取り出すように楽しむことができた。



 夕方、K庵に着いたときは、客は私しかいなかったが、カウンター席でWさんと暫く話しているうちに、背後に賑やかな気配を感じた。振り返ると、いつの間にか、10脚以上あるテーブルがすべて埋まっていた。やはり金曜は客が多い。私はもうびっくりしてしまった。

 Wさんが、またウチで個展やってくれ、と言ってくれた。本来ならこっちからお願いするところを、先方から依頼されるなんて恐悦至極なのだが、なにしろこっちにその気がない。いやもう、まったくない。絵なんて、ちっとも描きたいと思わない。ん~最近どうも気分が乗らないのよねぇ、なんて生易しいもんじゃない。摂食中枢を切除されて、まったく空腹を感じなくなってしまった実験動物のようなものだ。彼らは死ぬまで腹が減らないだろう。私も死ぬまで、絵を描きたいとは思わないだろう。そんな気がするのだ。

 Wさんの申し出を無下に断るのもアレだしなあと、私は頭を掻き掻き、何気なしに後ろを振り返ると、テーブル席はさらに賑わっていた。いつの間にかテーブルの上には、この店のメニューが全部出てるんじゃないかと思えるくらい、たくさんの料理や酒が載っていて、私はもうびっくりしてしまった。

 私は、申し出を断るというよりも、悩める芸術家の告白といった体裁で、Wさんに言った。個展をする気はあるのだが、ぜんぜん描けない。なにも浮かんでこない。僕はもう搾りカスだ、空砲だ、ピンのなくなったホッチキスだ、停電のときの回転寿司屋だと、文学の香り馥郁たる譬喩を総動員して、自分の落魄ぶりをアピールしたのだが、Wさんは呵々と笑って、芸術家っちゅうのはそういうもんや、しばらく作品ができんと、もう一生あかんような気になってまう。それに耐えきれん奴が道を反れたり、命を断ったりするんや、と言った。

 なるほど、こういうことは芸術家本人よりも、芸術家を側面から見てきた人の方が、よく解るのかもしれないと感心した。そのときふと振り返ると、テーブル席はますます賑わっていた。客はさらに増えていて、椅子がなくて立って飲み食いをしている客が10人はいる。テーブルの上には、コップひとつ立てる隙間もないほど食器が置かれていて、どれが誰の注文した料理なのか判らないほど雑然としていた。私はもうびっくりしてしまった。

 いつごろから、絵を描くことへの熱意が薄らいできたのかを考えてみるに、やはり、2004年の東海道個展行脚以降ということになりそうだ。ここまでやってもダメか、これだけカネと時間と労力をつぎ込んでもダメか、これほどいい作品を出してもダメか、という失望感である。ダメというのは要するに、反応がなかったということ。悪評がない代りに好評もなかった。ブーイングも拍手もしない観客の前で芝居をしている役者のようなものだ。

 もし、誰かに何かを言ってもらわなければ絵が描けないということなら、やはり描くのをやめた方がいい。頭を切り替えようと後ろを振り返ると、テーブル席はいよいよ賑わっていた。客が目立って増えている。テーブル席といっても立っている客の方が多くなっていた。立っているのに疲れたのか、床に坐り込んでいる客もいた。なのに、後から後から客が店に入ってくる。しかも帰る客はひとりもいない。私はもうびっくりしてしまった。

 いや、原因は別のところにありそうだ。欲しかった反応というのは、自分の才能に対する反応ではなくて、その作品に商業的価値があるかどうかという反応だったのではないのか。つまり自分の絵がカネになりそうだという手応えが欲しかったのだ。「色彩が美しいわ」「可愛いキャラクターだな」「リアリティがあるね」。そんなものは、私にとっては賛辞でもなんでもない。「これは、ゼニになりまっせ、大将」。これ以外に賛辞なんてものはないのだ。
 これで、何もかもはっきりした。私が絵を描く情熱を失ったのは「俺の絵はゼニにならへん」と観念したからだ。しかし逆に、ゼニをやるから、これこれこんな絵を描けと言われたら、そらあんた、描きまっせ。ゼニになるんやったら、猥褻図画でも何でも描かせてもらいまひょ。わてのモーティベーションが上がるも下がるも、ゼニ次第でんがな。

 Wさんから、ヤケになりなやと言われた。冗談冗談、といいながら、後ろを振り返ると、テーブル席がとんでもなく賑わっていた。店の入り口が混んでいたので、窓や通風口から入り込んでくる客もいた。すぐにフロアが人でいっぱいになり、溢れた客は厨房になだれ込んで、自分たちで料理を作り、あまつさえ新しいメニューを作り出していた(K庵の料理のメニューの半分は、このような、厨房へと追いやられた人びとによって作られたのである)。そして彼らは、会計を済ませ、閉店時刻になると、店の隅々までを掃除し、戸締まりをして帰って行った。私はWさんとその一部始終をずっと眺めていた。みんな素敵な人たちだった。

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 一昨年のことだ。失業中で、ひどい腰痛が何週間も続き、まともに歩くこともできないところに、トラブルに巻き込まれて大金を失うという事態が重なり、こうなったら乞食に身を落として、神様にあてこすりをしてやろうと、やけくそで思ったことがある。
 しかし近年、乞食というものを見なくなっていたので、手本がなかった。乞食をするのに手本などと思われるかもしれないが、通行人に、恵んでやろうという気を起こさせなければならないのだから、やはり芸は要る。生きた手本がないのなら、記憶のなかの乞食を手本にするしかないわけだが、最後に見たのが、もう30年以上も前のことだった。

 頭は薄いが真っ白なヒゲは伸ばし放題。晩年のトルストイを彷彿させる風貌をもった年輩の男性が、戎橋(例のグリコの巨大電飾のそばにある橋)の上で往来を睥睨していた。背後の欄干には、彼の主張らしきものを大書した紙が張ってあった。主張の内容はよく覚えていないが、戦争(だったか事故だったか)で負傷して働けない体になったのに、国はろくな補償もしてくれないんだよ、国のために身体を張った代償がこれかよ、というようなことだったと思う。たしかに、不自由そうな片脚を投げ出して座っていた。
 しかしこの、民衆の共感を誘うスタイルは採用できなかった。私には、そんなプロテストをする対象がなかったからだ。私が乞食までしようと思ったのは、誰のせいでもない。偏に私に甲斐性がないからである。

 乞食の手本としては、もうひとり心当たりがあった。トルストイと出会う以前のことで、別の場所で見たのだが、こちらの方がよく覚えていた。もし真の乞食というものがあるとするなら、彼こそがそれだろうと思えた。名を仮にゴーリキーとしておこう。
 ゴーリキーも年輩の男性で、施しを頂戴する空き缶を前に置き、往来に向かって、土下座をしたまま置物のように動かなかった。それが彼の「主張」の全てだった。しかし、まさにそれが、巧まざる主張、言葉なき主張、そして無芸の芸となっていたのである。私の耳には彼の言葉が聞こえた。

 わたしには、お金を恵んでいただいてお見せできるような芸はございません。ただただ、このように伏してお願いするだけでございます。惨めな奴だ、汚い奴だと蔑んでください。わたしは皆さまのお情けに縋って生きるしかないのでございます。哀れだと思って、どうか、お金をください。

 物乞いに対する姿勢という点で、ゴーリキーとトルストイとで明らかな違いがあることは身なりで判る。トルストイが、上半身は垢だらけの裸。下は油染みのついたジャージに裸足という、典型といってもいい格好であるのに対して、ゴーリキーは、鮮やかなピンクの地にキャラクターの入った、女子中学生が着るような可愛いデザインのTシャツに、下はジャージに革靴という、トータリティを度外視した格好だった。
 Tシャツだけが、やけにきれいで、他はボロボロという、このアンバランスなコーディネイトが、言葉よりもよほど雄弁に彼の境涯を語っていた。たまたまどこかで拾ったか、もらったか、それとも盗んだか、可愛いTシャツ。それしか着るものがなかったのだ。彼の一張羅だったのだ。もし通行人の同情を集めようという意図があるのなら、そんなものを着ようとは考えないだろう。

 このように、躰以外の何もかもを失った男が、乞食という惨めな立場に身を落としても、なんとか生きて行こうとしている姿を思い出すと、気に入らないTシャツは着なくてもいい身分の私には、乞食はできないと思った。



 昨年、メールマガジンのライター仲間を交えての飲み会が道頓堀界隈であった。その待ち合わせ場所に向かう途中、私はふと、ゴーリキーがいつも土下座をしていた場所に寄ってみようという気になって、30数年前の記憶を頼りに、見覚えのある橋にたどりついた。道頓堀川が東横堀川と名前を変える辺りにあるその橋の上で、ゴーリキーは相変わらず土下座をしていた。
 Tシャツはピンクではなく紫色で薄汚れていた。少なくとも可愛くはない。また、伏せた顔を近くからよく見ると、皺もなく、思っていたよりもかなり若い。四十前後に見えた。そして、痩身だと思っていたが、背中や腹に触ってみると、指先に贅肉のぶよぶよした抵抗感がある。食べるものには困っていないらしい。とにかく記憶のなかのゴーリキーとは印象がずいぶん違っていた。

 私は知らないうちに、記憶を脚色していたのである。「真の乞食」という偽善的な理想型を勝手に作って、そのなかに無理矢理ゴーリキーを嵌め込んで、したり顔をしていたのだ。
 彼が土下座をしている姿を見ても、特に感慨はなかった。彼を始めて見たとき、万策尽きた人間が居直ったときの境地を目の当たりにしたような感慨をもったものだが、それもやはり脚色で、そんな感慨などなかったのかもしれない。


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高校生の娘が学校から帰ってくる。
ダイニングルームに入ってくる。
食卓の椅子に腰かけて、コーラを一口飲んで大きな溜め息を吐く。
それは何の溜め息か、と母親が訊く。
同じクラスに宇宙人の男子が転向してきて、その非常識な言動のせいで授業がたびたび中断する、腹が立つと言う。
娘の学校にいる宇宙人の生徒はみなどこか変だと言う。制服がないものだから、男子はモーニングを着たり、女子は和服にサンダルを履いたりすると言う。

父親が仕事から帰ってくる。
3人は食卓に着く。
娘は父親と会話するのを嫌っている。目を合わせようともしない。父親も自分が娘に嫌われているのを知っているから、話しかけようとはしない。母親もそれをよく分っているから、宇宙人の一件が夕食の話題に上ることはない。
父親を避ける理由を訊いても、娘はいつもあいまいな返答しかしないが、母親にはおおよその見当がついている。


■相談/梶元智美(17歳)

中学生の時でした。家のお風呂場は玄関を入ったすぐの所にあるんですけど、わたしが、お風呂を済ませて、下はショーツで上はタンクトップという格好で、脱衣場のドアを開けると同時に玄関のドアが開いて、お父さんが入ってきたんです。お父さんの帰りはいつももう少し遅いので、鉢合わせするなんて思ってませんでした。びっくりしたなあと言って、お父さんは笑いながらわたしの顔を見てたんですけど、急に何かに気づいたような堅い表情になって、視線がわたしの首から下に移っていくのを見て、何て言うか、恥ずかしいというより、お父さんの眼つきが、お父さんじゃなくて、別の男の人みたいで、それがすごくいやらしく感じたんです。
そんな経験はそのときの一回きりなのに、それからは、お父さんのいるところでは、肌の露出の多い服は着られなくなってしまいました。おはよう、と肩を軽く叩かれただけでぞっとして、つい「やめてよ」とつっけんどんに言ってしまったことも何度かあります。高校生になった今でも、それは変りません。お父さんとはめったに口をききません。話しかけられても、おざなりに返事をして、さっさと離れます。ひとり娘に冷たくされて、お父さんも淋しいとは思います。でも、この嫌悪感はどうしようもないんです。どうしたら、元のいい関係に戻れるでしょうか。

■回答/梶元喜美子(45歳)

同じ女性として、智美さんの気持はよく分ります。しかし子を持つ親としては、お父さんの気持も分る気がします。子供だとばかり思っていた娘が、いつの間にか女らしい体つきになっているのに気づいて、すこし驚いたんですね。決していやらしい気持で見たんじゃないと思います。こんなことって、父親と思春期の娘の間にはよくあるんです。いずれ時間が解決してくれます。お父さんは、いつかあなたと親子らしい会話ができるようになる日を、根気よく待っていてくれますよ。


夕飯が終って後片付けをしながら、母親は娘とそんな問答をしているところを想像する。しかし時間が解決すると回答したものの、いつまでも夫と娘の板挟みになるのはかなわないと思う。
娘は自分の使った食器だけを洗って、自室に引き揚げようとする。
父親は、居間のソファに寝転がって、NHKのニュースを見ている。

是非もない、と母親は思う。
ねえお父さん、智美の学校にね……
ダイニングルームを出ようとした娘が肩越しに母親の方を振り向く。眉根を寄せて頭を左右にこまかく振り、無言の抗議を送る。
変な生徒がいるんだって……

お母さん、もういいのよそれは!

娘は大きな声を上げる。
床を踏み鳴らしながら自室に戻る。
父親はソファから上体を起こしてそれを見送る。
声を低くして妻に聞き返す。
変な生徒?
妻は宇宙人のことを話す。
困った顔で夫は言う。学校の方でなんとかしてくれなきゃなあ……


翌日、娘のクラスの担任から電話が入る。
娘が、例の宇宙人の生徒を、3階の窓から突き落としたと言う。
授業中に宇宙人が、突然、教室の窓を開けて、落下防止用の手摺の上に立ったのを見て、娘がその背中を押したと言う。
宇宙人なら、3階から落ちたくらいでは、ケガをすることもないと知っての行動らしいのだが、もし落ちたところに地球人がいたら大変なことになった、厳重に注意をしておいたと言う。普段は真面目な生徒なので、今回は停学処分にはしないが、親御さんの方からも、よく言い聞かせてほしいと言う。
父親が、俺のせいか、と母親に訊く。

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先週の金曜か去年の憲法記念日だったと思うが、伍代夏子だかベルリンフィルだかのコンサートに妻か娘のどちらかを連れて観に行った。
会場はたしか東京国際フォーラムだったと記憶しているが、寝屋川市市民体育館だったかもしれない。

開演前に腹ごしらえしておこうと、渋谷だったか、道頓堀だったかで食事をすることになった。そこで妻か娘がお気に入りのパスタ専門店に入ったわけだが、実は私はこのパスタというやつが、想像しただけでウシのように涎がだらだら出るほど大好きか、誰かが「パスタ」と口にしただけで、その人間に襲いかかりたくなるほど大嫌いかのどちらかなのだ。

ともかく食事をすませて会場に入った。
座席は、出演者が笑ったときに歯茎の色まで判るほどステージに近かったか、ゾウガメが楽器を弾いていても判らないほど後ろの方だったか、よく思い出せないが、いずれにせよ私は、コンサートなんだから音楽さえよく聴こえればそれでいいという主義か、華やかなステージの様子を見ることもコンサートの醍醐味のひとつだという主義のどちらかなのだ。

ともかく、私のいちばん好きな曲でコンサートが始まって、いい気分で聴いていたのだが、満腹になっていたのが災いしたか、すぐに眠気に襲われて、結局コンサート終了まで眠ってしまった。
私は、横に座っていながら起こしてくれなかった妻か娘を、今でもヘビのように執念深く恨んでいるか、そんなこともあったっけ、とよく思い出せないかのどちらかだと思っている。

まあ、そんなことがあったコンサートを観に行ったわけだが、そんなコンサートは観に行かなかったような気もする。

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