長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

権太なひと

2010年05月03日 17時00分03秒 | キラめく言葉
 大阪では、やんちゃで道理の通用しない、どうにも手に負えない乱暴者を「ごんたな人」と呼ぶ、と、二十年ほど以前、当時、懇意にして下さった上方の噺家さんから伺ったことがあった。
 へぇ~~っと、わたしは大層感銘を受けた。CX系の人気番組が誕生するはるか以前のことなので、何へぇだか、点数をつける機転も発想もなかったが、とにかく、感動した。
 というのも、それは明らかに歌舞伎の『義経千本桜』のいがみの権太からきているものだろうからだ。この芝居は文楽がもともとのオリジナルであるから、大坂では昔から、本当に身近なキャラクターだったのだろう。
 こんたなひとになっちまっただぁ…というような東北系の訛りではなく、大阪弁だったのだ。

 「いがみの権太」は要するに、性格が歪んでしまったヤンキーな人のことである。
 芝居の役名は簡潔にして明確。すばらしく分かりやすい。
 このすし屋の権太は、最期に表返る複雑な含みを必要とする役なので、恰幅のいい脂の乗り切った座長クラスの大役者が演じるのが常だった。瞼の裏に浮かぶのは先代松緑と幸四郎の、鮓桶を抱えて、両のまみえを寄せた立派なお姿。平成ひとケタ世代には当代の幸四郎や菊五郎。松嶋屋も演った。勘九郎だったころの当代勘三郎の権太は、コチコチがよろしゅうございましょう…のセリフがウケた。
 だから昨年、当代の海老蔵が、すし屋を演ると聞いて、えっ、まだ早いんじゃー…とか思ったが、観てみると、いかにも不良で放蕩息子の味が出ていて、案外ハマっていて驚いた。…そうか、実年齢でいけば、権太はそのくらいの年齢だ。こういうのもアリなのかも。
 しかし、権太は終盤で初めて明らかになる、性根を入れ替える役だから、ナマな不良では、木に竹を接いだような突拍子のなさというか、違和感が生じてしまうのだ。
 分別のあるところを見せられる実事の役者が演じると、観客としては、実は作りたわけ者だった、という受け止め方もできて、権太の心根を見せるところでは、本当はカシコイひとだったんや~という納得ができるのだが。
 たぶんヤンキーな人は、愛憎が人一倍強く、感受性の鋭い人なので、他人との関わり合いにおいて、情よりそろばん勘定が勝る冷淡な常識人だったら見切ってしまう領域に、自らを追い込んでしまうのだろう。…というところで、思い込んだら命がけの、権太の忠義心を、どちらの論法で観客が納得するかは、こりゃもう、役者の技量による。

 ところで、五十代のころの談志は、「二階ぞめき」とか、無茶苦茶な人を演らせると天下一品の面白さだった。二十代だった私は、憧れというよりも、ひょっとすると、そういう破天荒な人に、成りたかったのかもしれない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする