seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

何も決めないという決定

2022-06-18 | 日記
昨日通院した時の話をして、主治医がはっきりしたことを言ってくれない、まるで禅問答のようだと書いたのだったが、それは何も医師を批判しようという意図によるものではない。おそらくそれは医師として正しい態度なのである。

分かり得ないものの前で人は沈黙しなければならない、というのは有名な哲学者の言葉だが、あらゆる判断の要素があり、そのどれもが正しく、そのどれもが間違っている可能性のあるときに判断を一旦留保するというのは、おそらく望ましい対処なのだ。
もちろん何らかの処置をしなければ目の前の患者が危機的状況になるという場合には異なる対処方法があるのは当然のことだ。

一方で、痛みに耐えかねているような時には、何らかの決定を下して欲しいというのも患者の側からの心理的要請としてあり得ることなのである。
たとえその判断が間違っていたとしても、自分に対して毅然とした裁定を下してくれる医師を頼もしいと感じる心理である。
おそらくこれは、不景気が続いて貧困や格差が広がり、国が経済破綻に陥って行き詰まった場合などに、独裁者が自分たち迷える国民を引っ張って行ってくれることを求める人々の心理とどこかつながっているのかも知れない。

「何も決定を行わないという代替案は、常に存在する」と言ったのはドラッカーである。「意思決定は本当に必要か」を自問せよということだ。
「意思決定は外科手術である。システムに対する干渉であり、ショックを与えるリスクを伴う。よい外科医が不要な手術を行わないように、不要な決定を行ってはならない」のである。

ここでドラッカーは、「2000年も前に、ローマ法は、為政者は些事に執着するべからずといっている」ということを紹介しているのだが、現実には、無能な組織のリーダーに限ってどうでもよいような些事に拘り、改革の名のもとに組織体制や人事を必要以上にいじくりたがるものだ。このことは身の回りの、少し見知った組織(企業や団体)の様子を観察すれば腑に落ちるだろう。

無能な独裁的リーダーほど、どんな些細なことでも自分の耳に入れたがり、どんな細かなことも自分で決定しなければ納得しない。その反面、人の意見には懐疑的で自分の考えに同調しないものを徹底的に排除しようとする。
彼はコミュニケーションなど歯牙にもかけず、自分に異論を唱えるものは容赦なく粛清し、組織を自分好みの体制に作り上げようと、改革という名目で不要な手入れを繰り返す。
その結果得られるものは、泥沼のような組織の弱体化でしかない。

必要なのは情報開示(公開)と観察、徹底的なコミュニケーションに基づくネットワークの構築であり、その結果得られる集合知をもとにした冷静な判断と決定ではないだろうか。

病気の話をしながら、いささか強引に組織改革の話にしてしまったけれど、いずれも組織細胞の病変にかかわることだとすると、これらはどこかで深くつながっているように感じられてならないのだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿