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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

旅する王~「未必のマクベス」

2022-06-15 | 読書
早瀬耕の小説「未必のマクベス」を読み終わる。
本作は2014年に刊行された氏の22年ぶりの長編第2作とのことだが、私はこれを2年ほど前に文庫本で買ったまま、600ページを超える分量に気後れして未読のままにしていたのだった。

最近になって本を読むしか楽しみのない境遇になってようやく読み始めたのだったが、結果として、素晴らしい読みごたえと読後の充実感だった。
いわゆるエンターテイメント小説だが、ジャンルとしては異色の犯罪小説にして、痛切な恋愛小説と表紙に紹介されているとおりだ。そのほかにも、サスペンス、ハードボイルド、経済小説、企業を舞台にしたミステリー等々、さまざまな形容が可能であるように、多面的な光彩を放つ作品なのだ。
シェイクスピア好きにもたまらない要素が存分に仕掛けられている。小説の世界観を好きになると、いつまでもその中で浸っていたいと思わせる得難い魅力に満ちた作品でもある。
事実、読み終わった途端にまた冒頭からもう一度読み返したいという誘惑に駆られてしまうだろう。これは初恋の思い出がいつまでも新鮮なまま、胸打つ感情を保ち続けるのと似ているようでもある。

「未必のマクベス」は王となって旅を続けることを宿命づけられた男の話である。そこにシェイクスピアの「マクベス」の筋立てがオーバーラップして彼を底深い落とし穴に誘い込むのである。
マクベスが魔女の予言に唆されて予期しなかった王冠の簒奪に手を汚し破滅していくように、本作の主人公もまた、いつでも引き返せたはずの旅の路程に自ら身を投げ出していく。それは見たこともない世界を旅する誘惑に抗しきれなかったからなのか。

冒頭、次のような言葉があって、旅の意味合いについて考えさせられる。

 「……『旅慣れた人』は、旅などしていない。大半の『旅慣れた人』は、旅に似た移動を繰り返しているだけだ。飛行機が離陸するとき、旅先での出来事を想像して心躍らせることも、帰国したときにほっとすることもなくなる。それは旅ではなく、ただの移動に変わってしまっている。それでも『旅慣れている』と評される人がいるならば、彼は、その移動が終わったときから旅を始めるのだろう。……」

この言葉に何とも言えず共感するのは、私たちの人生がまさに旅そのものだからなのだろう。旅慣れた人の移動が味気ないように、世慣れた人の人生も随分つまらないものではないかと思うのは、こちらがいつまでも人生のさまざまな場面で躓いてばかりいるからだろうか。
芝居の世界で言えば、舞台慣れした俳優や、場数ばかり踏んで舞台に立つことに何の感動も覚えなくなった役者の演技がつまらないのと同様なのだ。観客が求めているのは、初めての旅に向かう時のワクワク感であり、発見なのである。


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