seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

世論調査の「怪」と「解」

2022-06-28 | 日記
友情を失いたくなければ政治の話をするな。
小説のなかで政治の話をするのは音楽会へいって演奏を聞いてるさいちゅうに耳もとでいきなりピストルを射たれるようなものだ。
以上は開高健の小説「夏の闇」のなかに出てくる言葉だが、政治と生活が直結したものである以上、これを避けて通ることは出来ないだろう。
ということで、友情にひびが入らないよう気をつけながら少しばかり政治寄りの話をしたい。

選挙投票日が近づくこのタイミングで新聞・テレビなど各報道機関が行った世論調査の結果が報じられている。
一体この世論調査なるものにどれほどの信憑性があるのだろうとずっと前から気になっていた。加えて言うならば、それを報道することにいかほどの価値があるのだろう、といつも考えてしまう。
まさに世論調査の「怪」なのである。

世論調査の目的は何だろうと考えてみるのだが、一般的には、多くの人々=国民が何を求め、何に期待しているかを調査によって明らかにし、その時点における人々の考えを知る、ということだろうか。それによって、より多くの人々が選挙や政治課題を深く考えるきっかけにしたい、ということも含まれるかも知れない。

しかしながら世論調査はあくまで調査した時点の状態を知るということなのであって、いわば過去のものでしかない。
調査によって未来は予測できないのではないかという疑問が湧く。そこからいかなる結論を導き出そうが、それは幻想を語るようなもので、その後いかようにも変容し得るものなのである。

現に、世論調査の結果と実際の選挙結果は一致しないことが多い。
選挙に行く、あるいは必ず行く、と回答した人の割合に比べて、実際の投票率がそれを大きく下回ることの多いのがその端的な例である。
また、各政党の支持率が、実際の得票率と一致しないことは必ずと言ってよいほどだ。

これは投票日に行われる出口調査なるものとの大きな違いである。
出口調査はかなりの精度を有しているようなのだが、それにしても開票作業の始まる午後9時とほぼ同時に《当確》が出て、万歳三唱する候補者の姿をテレビ画面で見ることほど呆気にとられ、味気ないことはない。茶番を見るようである。

しかし、こうした事象は、事前の世論調査と出口調査との違いを際立たせているとも言えるだろう。
出口調査が、その直前の投票行為に関するアンケートであり、あくまで投票した人が対象である。
これに対し、世論調査はより漠然とした状態で問いかけた人々の願望を数値化したものなのだ。(当然、そこには実際には投票に行かない人の声も多数含まれている)

そうしたなか、調査結果として、一方の勢力が過半数を獲得する勢いだとか、もう一方の勢力は苦戦を強いられている、といった情報が見出しとなって流されるわけだが、これによって実際の投票に影響が及ぶことは容易に想像できるだろう。
もう大勢がはっきりしているなら今さら投票に行っても仕方がないと思うか、それでは頑張ってひと踏ん張りしなければと奮い立つのか、人によっても立場によっても違うだろうが、報道やニュースの見出しは大きな影響力を持つものなのだ。
また、一定期間行われる選挙運動の間に生じた事件や社会情勢もまた微妙に変化し、人々の幻想の揺らぎとなって影響を与えるだろう。
現に昨日あたりから、政権与党の中心にいる政治家の発言によって、年金や高齢者医療の問題が選挙の争点として浮上してきたと言われている。

多くの人々が常に確たる考えを保持し続けているわけではない。
ニュースの切り取り方や、SNSで発信されるフェイクもどきの情報にも敏感に反応しながら、投票用紙に記入する直前まで人々の感情や社会の空気はブレまくるのである。
実に曖昧模糊とした捉えどころのないものによって投票結果は左右されると言ってよいのだろう。

いつも思うのだが、そうしたあやふやなものをもっと具体的で目に見えるものとして明らかにすることは出来ないものだろうか。

分かりやすい例として言うならば、各政党が示す「公約」をもっと精密に分析することは出来ないだろうか。
素人目には、現状の「公約」なるものの多くは具体性を欠き、かつ、出血している傷口に貼る止血絆創膏のような応急処置的なものばかりではないかと感じられて仕方がないのだ。
現下の物価高に対して、低所得者や年金受給者に給付金や補助金を支給するというのは重要な観点ではあるけれど、あくまで傷口をふさぐ程度の効果しかないだろう。
最低賃金や労働者の給与をアップさせるため、さらには雇用状況や就労環境を改善するための根本的な問題分析やそれに基づく具体的な政策こそが求められているはずなのだ。

このように「公約」を実現度、財源、費用対効果等の観点から分析し、それが今の日本が抱える問題の抜本的な解決にどの程度貢献するかを示したうえで人々に問いかけることは出来ないのだろうか。

さらに言うならば、過去の選挙戦で示された各党、各候補者の「公約」が、その後どの程度実現したか、あるいは反古同然の扱いになっていないか、といった成績表のようなものは作れないものだろうか。
各政党や候補者が選挙の際に示し、約束したものがその後どうなったのかを批判的に分析し、明確にして問いかけるのはジャーナリストの重要な仕事であるはずなのだ。

もう一つ、これは政治家や行政機関の役割なのかも知れないが、調査によって得られる人々の要望、ニーズを、漠然としたものからブラッシュアップし、より具体的な政策レベルあるいは施策レベルにまで磨き上げるにはどうすればよいのだろうか。

単に人々が関心を持つ政治課題が、第1には経済問題である、第2には防衛・安全保障問題である、と大括りにしたところで何も見えては来ない。
経済問題にしても、賃金なのか、雇用の安定なのか、捉え方は一人ひとり違っているはずなのだ。
年金問題といっても、今現在受給している高齢者と、将来本当に年金は給付されるのだろうかと不安に思っている現役世代では捉え方に違いがあるのは当然なのだ。

限られた資源をいかに有効に使うのか、答えはその人の立場によってさまざまである。誰もが喜ぶ方法などないのかも知れない。しかし、そうしたなかでも最大多数の最大幸福をめざして時には苦い水を飲んでもらうよう人々を説得するのが政治なのだろう。

近代マーケティングの父といわれるフィリップ・コトラーが、心理学者G・D・ウィーヴの問いかけを紹介している。
「……なぜ石鹸を売るように人類愛を売ることができないのか」

社会全体がより良く、好ましいものとする政治を行わせるために、マーケティングをどのように活用すべきかという問いかけである。
平和、人類愛、戦争のない世界、貧困の撲滅、飢餓に苦しむ人々のいない世界、暴力のない世界、希望にあふれた世界……、それらを実現するためにマーケティングの手法をいかに活用すべきなのか、ということだ。

必要なのは、調査によって得られたビッグデータを顧客一人ひとりの目線で読み解き、本当に解決して欲しい問題を発見・抽出し、解決方法を見つけ出していくことである。
そこにマーケティングの手法が活用できるのではないかとコトラーは言うのだ。
そのために時間はかかるけれど、個々の政治家が、あるいは行政に携わる人たちが、愚直に人々の声に耳を傾け、ともに意見を交わし、より最適な解に一歩ずつでも近づこうとする不断の努力が求められるのだろう。

世論調査の「怪」ではなく、「解」を導き出すための努力である。

最後に一つ、自動車産業の生みの親ヘンリー・フォードの言葉をメモしておきたい。
「……人々の要望ばかり聞いていたら、私は速い馬を探しにいっていただろう」

後年の自動車社会が本当に社会に幸福をもたらしたかどうかと問われるといささか首を傾げざるを得ないのだが、フォードのこの言葉は、星の王子様の「本当に大切なものは目に見えないんだよ」という言葉とともに時折思い出しては噛みしめたくなる一節である。

人々のニーズを追うだけでは本当に必要なものは見つからない。
要望や願望の上っ面からは、人々が求める根本のところは分からない。
本当に必要なものは何なのか。それを見出し、本当の問題を解決するためにどうすれば良いのか。
答えは私たち一人ひとりがより深く考え、行動することにかかっていると言えそうだ。


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