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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

にしすがも大都映画撮影所

2009-01-25 | 読書
 集英社新書の今月の新刊、本庄慧一郎著「幻のB級!大都映画がゆく」を読んだ。
 大都映画は、昭和2年に土建業界の雄といわれた河合徳三郎によって設立された映画配給会社河合商会、同年、映画製作会社として発足した河合映画会社にはじまり、昭和8年、大都映画へと発展拡充して改名、昭和17年に国策によって日活、新興と合併を余儀なくされ大映となるまで、1200本以上の映画作品を量産した映画会社である。
 とはいえ、今では日本映画の研究書でもその詳細は語られることがなく、当時先行のメジャー会社や関係業界からは常に「B級三流」というレッテルを貼られ、空襲による火災などでフィルムが散逸し、今ではごく一部の作品しか見ることができないのだが、徹底した大衆娯楽路線によって当時のつましく貧しい庶民からは絶大な支持を得て活況を呈していたと言われる。
 著者の本庄氏は、母方の叔父4人が大都映画で脚本家、カメラマン、助監督を務めていた縁があるとのことで、平成18年11月22日から12月6日まで、東京・恵比寿でテアトル・エコーが上演した「大都映画撮影所物語」の作者でもある。
 
 本庄氏が「拙著は、日本映画史上の傑物である河合徳三郎へのオマージュである」と書いているように、本書の半分近くがこの魅力的な人物についてのエピソードに満ちている。
 この人物のことをこれまで知らなかったことが残念だが、下級武士の子として生まれ育った河合徳三郎が青雲の志を抱いて名古屋から新天地をめざして旅立ったのが14、5歳の頃。過酷なもっこ担ぎという土木の現場仕事から這い上がり、30歳の頃には河合組を興し頭領となって独立している。
 やがて、右翼の大立者頭山満らを顧問に迎え「大日本国粋会」の組織化に活躍、その後、同会を離脱すると今度は「大和民労会」を組織化、労使協調を唱導して労働社会大学を創設したり、無産階級のための慈善病院を建設する一方、民権新聞社の社主として活動しながら、貧しい人たちのために毎日300人分の炊き出しを行っている。
 そうした活動や事業が関東大震災によって灰燼に帰したのちも、震災後の建築ブームに乗ってたちまち蘇生、その勢いで直営の映画館を何件も確保したことが映画製作にのめり込んで行くきっかけとなるのである。
 後藤新平の知遇も得て、東京府会議員を2期8年務め上げたという経歴も彼の人生の振幅の大きさを示しているが、反面裏世界とも通じ、全身に彫り物があったという話や、いつも護身用の十手を離さなかったということ、撮影所内に愛人の家を作って住まわせていたり、自分の娘たちを何人も自身の作る映画の看板スター女優に仕立て上げているエピソードなど興趣は尽きない。
 河合徳三郎は昭和12年12月3日、67歳でその人生の幕を下ろすことになったが、自己資金、健全経営を貫き、大衆娯楽に徹するという信念によって映画界を席巻したその生き様は昭和史のなかでもっと語られるべきではないかと思う。

 さて、この本には大都映画を彩った女優や男優、監督たちの姿が当時のスチール写真とともに紹介されていて楽しいが、なかでも私にとって忘れられないのが当時の少年たちの憧れのスター、アクションヒーローのハヤフサヒデトである。
 
 大都映画巣鴨撮影所の跡地はその後豊島区立の中学校となり、そこが閉校となってからは学校跡施設をそのまま転用した芸術創造拠点「にしすがも創造舎」としてNPO法人によって運営されている。
 以下、本書にも記述されているが、平成17年2月5日、「にしすがも創造舎」で活動するNPO法人「芸術家と子どもたち」が企画したプロジェクトとして、現代美術家の岩井成昭氏が子どもたちとともにハヤフサヒデトの後を追い、資料を調べたり、当時の様子を知る地元のお年寄りや関係者にインタビューしたりする過程を作品にしたドキュメンタリー映画が上映された。
 当日は、大都映画制作のハヤフサヒデト作品として唯一フィルムが残っている「争闘阿修羅街」(監督・主演ハヤフサヒデト。昭和13年作品)も同時上映され、会場は往年のファンばかりか、多くの若者も詰め掛けて超満員となった。
 私も当日会場でその場に立ち会っていたのだが、撮影所跡地という場のDNAが立ち上がってくるような稀有な瞬間を目撃しているのだと興奮したものだ。
 
 そんな瞬間のことも併せて思い出す楽しく貴重な時間を本書は与えてくれた。


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