seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

下妻物語に魅せられて

2009-01-03 | 映画
 中島哲也監督の映画「下妻物語」(2004年製作)を観た。ここでいう映画とは映画館で観た作品に限ることを基本にしたいのだが、私はこれを年末の深夜、テレビで見て、あまりの面白さにぶっとんだ挙句、DVDを借りてもう一度観た。ファンの皆様には本当に申し訳ないが、これまでご縁のなかったことを詫びつつ、少しばかりふれておきたい。
 とは言え、私は本作の重要な素材であるロリータ・ファッションにもヤンキーにも興味はなく、造詣もない。それなのにこれほど興奮してしまうのは、この作品に満ちている映画的快感のためだろう。そこには中島監督の感性とそれを形にする才能と力量が横溢しているのだ。
 全体を通じて感じるのがリズム感の心地よさである。それはなにも奇を衒ったものではない。もちろん展開の意外性は以下に示す原則にしたがって随所に散りばめられているのだが、それ自体がリズムを刻むように精神の躍動を伝えるのだ。それは古来、能楽にいう序破急のリズムである。
(もちろん2年後の作品「嫌われ松子の一生」にも同様に見られるのだが、「下妻物語」において典型的に表わされていると感じる。)

問。能に、序破急をば、何とか定むべきや。
答。これ、易き定め也。一切の事に序破急あれば、申楽もこれ同じ。能の風情をもて、定むべし。

 全編の構成はもとより、1つのシークエンス、1つのシーンにもこの序破急のリズムは満ちており、それは時にずらし、反復し、緩急の差をつけながら増幅される。
 凡百の映画においていかにこのリズムを無視した結果、退屈をもたらす作品の多いことか。

 さらに感じるのが、人を惹きつけるための工夫が原則どおりに展開され、作品のなかで発展していることだ。このことは中島監督が長年CMフィルムの世界でしのぎを削ってきたことと無縁ではないだろう。
 私はたまたま「アイデアのちから」という、スタンフォード大学教授チップ・ハースと経営コンサルタントで編集者のダン・ハースという兄弟の書いたビジネス書を読んでいるのだが、人の興味を引きつけ、記憶に焼きつかせることをテーマとしたこの本では以下の原則が示されている。

1.単純明快であること
2.意外性があること
3.具体的であること
4.信頼性があること
5.感情に訴えること
6.物語性があること
 その一つひとつを詳細に立証したい誘惑に駆られるが、大まかにこの映画からは以下の特徴を示すことができるだろう。

 ロリータ・ファッションに身を包んだ桃子とヤンキーガールであるイチコの友情物語という単純明快さ。
 桃子はその外見に似合わず自己中心的であり、信念を曲げない。一方イチコは友情に篤く涙もろい育ちのよい面があるという性格設定、さらに、二人の育った生活環境といまの姿のギャップは意外性に満ちている。
 二人を結びつけるのは、刺繍である。ロリータ・ファッションと特攻服への刺繍には具体的かつ組み合わせの意外性がある。
 下妻や代官山という地名、ロリータや暴走族はイメージとして具体的であると同時に、ある種ブランド的な信頼性を有している。
 二人の友情は滑稽でありながら感情を揺り動かす。
 映画はラスト近くで東映の仁侠映画のような物語性を発揮するとともに、ところどころ挿入されるアニメによって語られる伝説の暴走クイーンのような、いわゆる都市伝説が映画を通低する物語として魅力を放っている。

 こうしたツボを外さない作劇術のうえに立って、ビッグ・フィッシュ的な語り口が観る者を惹きつけるとともに、主役の深田恭子、土屋アンナという魅力的なことこのうえない二人の女優がその物語を豊かに肉付けする。
 この映画はそうした原則に忠実であるがゆえに、必然的に成功したのである。

ポニョとオフィーリア

2009-01-03 | アート
 海に棲む女性像をイメージするにあたって、宮崎駿はイギリスのテート・ギャラリーでジョン・エヴァレット・ミレイの描いた「オフィーリア」を観ている。
 その同じ絵をロンドン留学中の夏目漱石も観ているというのが、ポニョにかかわる話としてとても面白い。漱石は小説「草枕」のなかで、主人公の画家の言葉をかりてその印象を語っている。
 その「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」が昨年Bnkamuraザ・ミュージアムで開催されていた。10月26日までの会期だったから、私が観たのはもう3ヵ月近くも前のことなのかと驚いてしまうけれど。

 この「オフィーリア」の背景を描くため、ミレイは1851年の7月から11月にかけてロンドン南西、サリー州ユーウェルに滞在し、ホッグズミル川沿いで写生に没頭したとある。
 写生期間が数ヶ月にわたったため、画面には異なる季節の花が混在しているらしいのだが、植物の名前にとんと疎い私には分からない。そうした話の一方で、それぞれの植物には意味が込められていて、オフィーリアの人格や運命を象徴しているという話もある。
 パンジーは「物思い、かなわぬ恋」を表し、ノバラは「苦悩」、スミレは「誠実、純潔、若い死」、柳は「見捨てられた愛、愛の悲しみ」というように・・・。興趣は尽きない。

 さて、ミレイは5ヶ月かけて風景を描きこんだ後、ロンドンに戻ってモデルをバスタブに入れてスケッチしたらしい。モデルになったのは、当時、ラファエル前派の画家たちのニューズ的存在だった女性で、のちにダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妻となったエリザベス・シダルである。
 ミレイはこの絵のためにロケ地を選び、衣装を購入し、キャストを考え、彼女の表情を演出したのだ。「現代に生きていたら非常にすぐれた映画監督になっていたでしょうね」という学芸員の話が紹介されていたが、これはアニメーションにも通じる手法ではないかと思うと興味深い。100年の時を隔てて日英のアニメ作家が出会ったのだ。

 この絵の制作にあたってはもう一つ面白い話がある。シダルは真冬にお湯がたっぷり入った浴槽のなかで長時間ポーズをとらされた。制作に夢中になっていたミレイはお湯をあたためるランプが途中で消えていたことに気がつかず、シダルはひどい風邪をひいてしまった。彼女の父が激怒してミレイに治療費を請求したという逸話が残っているそうだ。
 さて、この恍惚の表情を浮かべ水面を漂うオフィーリアは「草枕」の主人公をも魅了したが、そんな逸話を聞いた後でこの絵を見直すと、何だかバスタブに漬かりすぎて湯あたりしたシダルのことを思い浮かべて笑ってしまう。彼女には気の毒だけれど。

 展覧会場では、この「オフィーリア」のまわりに黒山の人だかりができてゆっくり鑑賞することもかなわない。
 私が魅かれたのは晩年の風景画「露にぬれたハリエニシダ」だった。タイトルはビクトリア朝を代表する詩人テニスンの詩「イン・メモリアム」の一節を引用したもの。テニスンはこの詩を書いたとき、無二の親友と死別し、失意の底にあったという。
 この絵に人の姿はなく、ただ、細密に描かれた森の木々の向こうから朝日が射し込んでいる。それは絶望のなかで誰にもさしのべられる大自然=神の光明のように思える。

ポニョと漱石

2009-01-03 | 映画
 「崖の上のポニョ」を製作中の宮崎駿氏が夏目漱石を読んでいたことはよく知られている。私の行きつけの書店では、ポニョ人気にあてこんで、漱石の文庫本を並べ、特に「門」のところには書店員の書いたと思われる「崖の下の宗助と千代の物語」なんていうポップが踊っていたりしたものだ。
 それにしても「ポニョ」がこれほど国民的人気をさらった理由は何なのだろう。観客動員は1200万人を超えたとかで、日本人の10人に1人がこの作品を観たということになるのだが、自分の事を棚に上げて言えば、たしかにこの数字はいささか多すぎるような気もする。
 大衆の志向性が偏りすぎるのは危険な兆候であるといわれるが、しかしこれは政治ではない、アニメの話である。
 人々はポニョの世界に何を観たがっているのだろう。それはこの何ものをも信じきれない時代にあって、ひたすら「ポニョ、宗介が大好き!」を貫くピュアな姿だろうか。
 宮崎駿によれば、これは「海に棲むさかなの子のポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我侭をつらぬき通す物語」なのである。
 そして、ポニョが宗介と一緒に生きるためには人間にならなければならず、そのために必要なのは、ポニョに対する宗介の純粋な愛情だけなのだ。

 一方、漱石の「門」は、主人公の宗助が、親友の妻だった御米と不倫の恋をし、親友を破滅させた挙句、世間から逃れるようにひっそりと生きる物語である。「崖の下」の家は、陰気で、ひっそりとして、雨が降ると雨漏りがするというように、世間に背いた二人の未来のない生活感覚を暗示するものとして描かれる。
 あまりに対照的な崖の上と下の二つの世界。

 ポニョと生きるために宗介は永遠の愛を誓う。それは幼児の何気ない愛情表現であって、そのことが引き起こす将来の問題を彼が認識しているわけではもちろんないだろう。未来にどんな世界が待ち受けているのか、何も知らないまま重い運命を背負ってしまった男の子の悲哀や、それゆえの戸惑いをそのふとした表情に感じて、私は宗介がいとおしくなる。
 それに対し、ポニョの愛はひたすら我侭であり、それゆえに、強い。そのために津波が起ころうが、月が墜落しようが、世界全体が引っくり返ろうが、海に沈もうが、かまいはしない。ひたすら「宗介、大好き!」を貫きとおす。そうした強い愛に私も呑み込まれたくなる。

 漱石は宗助のことを次のように描く。
 「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」
 閉塞感の充満するこの世界にあって、ポジティブに門を突き破ることの素晴らしさを、嵐の海を突っ切って走るその姿をとおして、ポニョは私たちに教えているようである。
 しかし、それは危ういバランスのうえに立った決断でもある。その愛と引き換えにポニョは人間にならなければならず、魔法の力を失わなければならない。その後の運命を引き受けるのも、切り開くのも「人間」となった彼女自身なのだから。