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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

理性の策略と鉄球

2009-01-11 | 演劇
 「ウルリーケ メアリー スチュアート」(エルフリーデ・イェリネク/作、川村毅/台本・演出)を観た。出演は大沼百合子、濱崎茜、石村みか、植野葉子、小林勝也(手塚とおるとダブルキャスト)ほか。公演は1月10日まで。
 ベニサン・ピットという数々の名舞台を生みだしてきた劇場でのTPTの最終公演である。
 
 エルフリーデ・イェリネク(2004年度ノーベル賞受賞)の作品「ウルリーケ・メアリー・スチュアート」は、シラーの悲劇「メアリー・スチュアート」でのスコットランド女王メアリー・スチュアートvsイギリス女王エリザベスⅠ世という構図が、ドイツ赤軍派の主要メンバー、ウルリーケ・マインホーフvsグードルン・エンスリーンという構図に重ね合わされたもの。
 川村毅の創り出した舞台は、この原作を援用あるいは換骨奪胎しながら、日本の連合赤軍による1971年から翌年にかけての「山岳ベース事件」や「あさま山荘事件」を絡めて再構成したものだ。
 これらの陰惨な事件については、おそらく40歳台半ば以上の人であれば、それぞれの立場で感想や意見は異なるにせよ、強烈かつ痛切な記憶を刻み込んだ事件であるに違いない。

 この舞台で川村毅が目論んだのは、この極めて特異な事件に対する多様な視点の導入と徹底的な客観化の試みだと私は読んだ。
 読んだ、と言うのは誤読ということをあらかじめ自認してのことであるが、そうしないと芝居の文脈が読み取れないという意味でもある。理解できないのだ。
 「山岳ベース事件」の再現と思われるシーンで、女兵士が自ら総括することを求められ、自分自身を殴打する、あるいは回りの兵士が総括補助する。その演技の児戯めいた迫力のなさ、リアリティの欠如は演出上の処置なのか。もちろんそんなことはないはずなのだが、結果としてそう見えることが逆にこの事件に対する批評性を獲得していると見えなくはない、ということが私にはむしろ面白かったのだ。
 舞台上で提示されるリアリティとは何だろう、ということに私はいつも思い悩んでいるのだけれど、まともに演じてしまうことで失われる現実感というのが確かにあって、殺人シーンやセックス、殴り合いの場面など、真実の行為ではないという諒解のもとに目の前でいくら大真面目に演技されたところで、それはただ白けるばかりの話なのだ。
 そのうえであえて白日の下に晒すかのように置かれたこのシーンは、歴史のなかで蠢く人間の卑小さを露わにしてやまない。

 その意味では、別のシーンで元赤軍の人間や映画監督を模した登場人物がパネルディスカッションする場面では、バラエティ仕立てでルーシー・ショーまがいの観客の笑い声まで入れながら徹底的に彼らの発言を矮小化する仕掛けが用いられている。

 こうした仕掛けを幾重にも導入することで、川村毅はヘーゲルの「個人は、一般理念のための犠牲者となる。理念は、存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱をもって支払いにあてる」(歴史哲学講義)という、理性の狡知あるいは策略を端的に焙り出そうとしたのかも知れない。

 最後、あさま山荘を破砕したとおぼしき鉄球が、舞台の中空に現れる。それは舞台の空気を切り裂き、それまで構築された劇世界ばかりか劇場をも破壊し、ご破算にするような禍禍しいばかりの実在感をもって揺れ動く。
 その鉄球を操っているのが、小林勝也演じるホームレスだったのか、あるいは「ヒロヒト」だったのか、私はもう覚えていない。


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