seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

よき言葉をこそ

2010-04-04 | 言葉
 宙に浮く、主を失った言葉は、やはり――恐ろしい。  (北村薫「街の灯」)

 何も手につかないまま、気晴らしに読む、と言えばミステリーに如くものはないだろう。といっても私は別にミステリー・マニアでも何でもないのだけれど、北村薫は「空飛ぶ馬」以来のファンである。
 最近、気持ちの萎えた時のカンフル剤にと、直木賞を受賞した「鷺と雪」のシリーズ第1作にあたる「街の灯」を文庫本で読んでいて冒頭の一節に出くわした。
 これだから軽い読み物などと侮ってはいけない。彼の小説は多少衒学的なくさみがないとは言えないのだが、多くの書物や芸術など人類の知的財産の豊かさを源泉としていて、むしろそれこそが堪らない魅力とも言える。
 で、その一節である。正直、ドキリとする。あまりにその時の気分にぴったりだったから。幾度か反芻しつつ、言葉を胸に飲み込んだ。

 2日ほど前だったか、テレビでウーピー・ゴールドバーク主演の映画「天使にラブソングを2」を放映していた。
 すでに何度も観たウェルメイドな他愛のない娯楽作品なのだが、私は結構好きだ。
 シドニー・ポアチエが出演した「暴力教室」や「いつも心に太陽を」といった映画作品のほか、ジェイムス・ブラウンの有名なパフォーマンス、さらにはいくつかのミュージカル作品等々へのオマージュに溢れ、これもまたアメリカにおけるエンターテインメント芸術の豊かさや厚みを土壌とした作品なのだと感じさせられる。
 そのなかで、ローリン・ヒル演じるツッパリ女子高生にウーピー演じる修道女(実はクラブの歌手)が語りかけるシーンがある。
 その女子高生は仲間たちとともに聖歌隊で歌を唄いたいのだが、かつて歌手を夢見て破れた夫を持つ母親に強く反対されて悩んでいる。

 そこでウーピーの持ち出したのがリルケの「若き詩人への手紙」の一節なのだ。
 たしか、自分は詩人に向いているのだろうかと悩める若者に対し、リルケは、詩を書かなければ生きてはいけないのかどうかを自分の心に深く問いかけよと語りかけるのである。
 もし、本当に詩がなければ、それを書かなければ生きてはいけないと心から思えるのなら、あなたはもう詩人なのだ。
 「だから、アンタが本当に歌が好きなのなら、歌わなくっちゃいけないのよ」とウーピーは言うのである。
 思わずにやりとしながらも、胸が熱くなってしまった。

 敢えてここでは引用しない。一人ページをめくりながら、静かに味わうことにしたい。
 よき言葉は人を勇気づけ、鼓舞するものだ。

国際母語デー

2010-02-21 | 言葉
 今朝早く、私は池袋西口の公園にいた。
 今日、2月21日はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が1999年11月17日に制定した「国際母語デー」なのである。
 言語と文化の多様性、多言語の使用、そしてそれぞれの母語を尊重することの推進を目的としている。
 これは、1952年のこの日、バングラデシュ(当時はパキスタンの一部)のダッカで、ベンガル語を公用語として認めるように求めるデモ隊に警官隊が発砲し、4人の死者が出たことに因んでいるとのことだ。
 バングラデシュでは、独立運動の中の重要な事件の一つとしてこの日を「言語運動記念日」としていたのである。
 
 さて、その母語の日の恒久的記念碑である殉難者顕彰碑ショヒド・ミナールが池袋の西口公園に建立されていることはあまり知られてはいないだろう。
 今日は朝の8時前から150人ほどの在日バングラデシュの人々が集まり、駐日バングラデシュ大使も出席しての記念碑への献花式が行われ、私も縁あって一緒に参列したのだった。
 足元から寒さのしみ込んでくるこの真冬の早朝にも関わらず、歌を唄い、プラカードを持ち、花束を掲げ持った人々を見ていると、自分たちの母語を守りぬくことに誇りを持つことの素晴らしさ、力強さを感じないわけにはいかない。

 ふと、作家アゴタ・クリストフの言葉を思い出す。
 「悪童日記」ほかの作品で世界的に著名になった彼女だが、1956年、ハンガリー動乱の折、乳飲み子を抱えて夫とともに祖国を脱出、難民としてスイスに亡命した。その後、時計工場で働きながらフランス語を習得し、小説を書き始めたのである。
 アゴタ・クリストフは「母語と敵語」というエッセイのなかで次のように書いている。

 「わたしはフランス語を30年以上前から話している。20年前から書いている。けれども、未だにこの言語に習熟してはいない。話せば語法を間違えるし、書くためにはどうしても辞書をたびたび参照しなければならない。
 そんな理由から、わたしはフランス語をもまた敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由のほうが深刻だ。すなわち、この言語が、私のなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。」

 私たちは果たして日本語というものをどれだけ大切に思っているだろう。当たり前のように日本語を読み、書き、話すことの奇跡のような素晴らしさ、不思議さを改めて思わないわけにはいかない。

総理という俳優

2009-11-17 | 言葉
 俳優・鳩山由紀夫氏を評して「筋がいい」と言うのは、内閣官房参与の劇作家・平田オリザ氏である。
 初の所信表明演説にあたって演出(助言)した感想は、「指摘したことは全部できる。本番にも強い。駄目な役者は動揺すると声が高ぶるが、音の高さが一定していて、ぶれない」と絶賛である。
 そんな記事が何日か前の新聞各紙に出ていた。
 夫人が宝塚出身で、自らミュージカルやファッションショーに出演し、お茶目なフリを見せる総理のことだから、もともと芝居ごころが豊富なのだろう。

 これはよいことだと私は思う。
 以前、オバマ大統領就任の頃にも書いたことがあるのだが、これからの政治家にとって「演劇」は必須科目といってよいのではないかと思うのである。
 何も人前で「よい人」を演じろとか、朗々とした台詞回しで演説しろとか言うのではない。
 より「自分らしい」自分を人々の前に提示するために、演劇を学ぶことは必須ではないかと思うのだ。

 演劇を学ぶということが、誰か自分以外の何者かに成りすまして人の目を欺こうとか、本当の自分を押し隠して他人の心に取り入ろうとしたりするのでないことは当然のことだ。
 平田氏は、自分をより自分らしく見せるのにも技術がいると言っているのであり、そのために演劇が応用できるということを実証しようとしているのだろう。
 自分らしいと思う自分をそのまま表現することほど難しいことはないのであって、その目測を誤ったがゆえに人はしばしば余計な誤解を受けてしまう。
 自分はオタクたちの理解者であると自認し、アニメやマンガに詳しいことをひけらかそうとして軽薄さを露呈したり、ざっくばらんな人柄を演出しようとして、かえって人を見下したような物言いが反発を招いたりした誰かさんは、結局自分らしさを表現する技術を持ち合わせていなかったということに尽きるのではないだろうか。
 そもそも「自分」とは何か、ということが大問題である。これこそが自分であるという自分はおおむね誤謬に基づいた認識であることが多いのだから。

 何かを表現しようとする時、私たちはあまりに余計なものを身に纏いすぎるのである。
 優れた演技とは、そうした余計な衣服を脱ぎ捨て、裸になった自分をさらけ出す行為にほかならない。そのため、演技者には、自分をとことん客体化し、不必要な衣服と必要な衣装を選別する眼が求められる。
 演出者は、より客観的な立場で、演技者に対して余計なものを身に纏っていることを気づかせる役割なのだ。
 それらは「自分とは何か」ということを徹底的に突き詰めて考える作業にほかならない。

 平田氏という日本を代表する劇作家・演出家をブレーンとして、鳩山氏はどんな総理を演じるのか。
 本当に自分らしい声で台詞が言えればよいのだけれど、最近どうも違ったところからヘンな声が聞こえてくるようで気になってしかたがない。

誕生日のガラスペン

2009-09-28 | 言葉
 誕生日のお祝いに佐瀬工業所製のガラスペンをいただいた。
 透明なガラスと紺色のガラスのねじりペンである。

 この繊細な、美しいペン先からどんな色のインクが流れ出し、どんな形の文字が書きつけられるのか。

 昨日のわたしはわざとのように、挑発するだけのためにみにくい言葉を使った。みにくい心で言葉をねじ曲げた。
 哀しくなった。みにくい言葉は何も生み出さない。

 今日、誕生日のわたしはガラスペンをいただいたので、とても幸せだ。
 ただ風にそよいでいるような静かな心で、そっとやさしく文字を書きたいと思う。

 インクを含んだガラスのペン先からこぼれるのはつよい言葉だ。
 なにものにも負けないやさしい言葉だ。
 けっしてねじ曲がることのないまっすぐな言葉だ。

 そんな言葉で、あなたとともに語りあうことを私は夢見る。

退屈な話

2009-09-26 | 言葉
 チェーホフは私にとってなくてはならない存在の作家である。
 どうしようもなく気分の落ち込んだ時や何もかもがうまくいかないような不運の時にもそっと寄り添い慰めてくれる。

 私たちが否応なく社会的な関係のなかで生きるしかない以上、コミュニケーションは何よりも必要不可欠なものである。
 コミュニケーション不全はそのまま組織や機能の不全につながりかねないし、友情や恋愛をはじめ、人間関係そのものも成り立たない。

 コミュニケーションの手段としてもっともオーソドックスなものが手紙である。
 チェーホフは、恋人でのちに妻となるオリガ・クニッペルに430通を超える書簡を残しているが、二人は、チェーホフの健康上の理由とオリガの舞台女優としての仕事の関係から、何百キロも離れたヤルタとモスクワに離れて暮らすことを余儀なくされた。
 当時の郵便事情は現在とは比較できないほど劣悪で、届くのに何週間もかかったり、数日分が一度に届いたり、相互のやりとりもタイムラグのなかで行き違いも多々あったことが容易に想像できる。
 チェーホフの書きぶりからもその苛立ちが伝わってくる。

 「これはまたどうしたんです?あなたはどこにいます?あなたは私どもが全く推測に迷うほど強情に自分のことを知らせてよこしませんね。だからもう、あなたは私どもを忘れてコーカサスへお嫁にいったのだと思われかけていますよ」

 「女優よ、手紙をください、後生です。でないと私は退屈です。私は牢獄にいるようです。そしてじりじりし、いらいらしています」

 「きみからはもう久しく一行の手紙も来ない。これはよくないよ、可愛いひと」

 「残忍酷薄な女、きみから手紙が来なくなってから百年もたった。これはどういうことだね?今は手紙も正確に私の手許に届けられる。だから、私が手紙を受けとらないとすれば、そのことで悪いのはきみ一人だけだ。私の不実者よ」

 メールを送ってその日に返信がないだけでやきもきするような現代の恋愛事情からは想像もできない状況のなかではぐくんだ二人の愛情を、私たちはこれらの書簡を読むことで垣間見ることができる。
 それらは私に共感と賛嘆とは別に羨望の思いをも抱かせる。
 私たちはあまりに忙しく、優雅さや相手を思いやる心のゆとりを失ってしまっているのだ。

 さて、これまでにも何度か話題にした短編「中二階のある家」に出てくるリーダとミシュスという姉妹はそれぞれに異なる魅力を持っているが、一人の女性の二面性を分けて描いたという見方もできるのではないかと私は思っている。
 妹のミシュスはどこまでも優しくはかなげで主人公の私を慕ってくれるが、姉の言いつけに背いてまで私のもとに飛び込む勇気を持たない。
 一方、姉のリーダは自立性に富んだ美しい女性だが、私とは思想や考え方で折り合いが悪く、私をかたくなに拒否したまま受け入れようとしない。

 どの女性にもこうした二面性があり、私は様々な場面で様々な彼女たちと向き合うことになるのだが、一旦生じた決定的なコミュニケーション不全の状態や拒絶の前に男はただ立ちすくむしかない。

 「やがて、暗いモミの並木道になり、倒れた生垣が見えた……あの当時ライ麦が花をつけ、ウズラが鳴きしきっていたあの野原に、今では牝牛や、足をつながれた馬が放牧されていた。丘のそこかしこに、冬麦が眼のさめるような緑に映えていた。きまじめな、索漠とした気分がわたしを捉え、ウォルチャニーノワ家で話したすべてのことが気恥ずかしく思われ、生きて行くことがまた以前のように退屈になってきた。家にかえるなり、わたしは荷造りをして、その晩のうちにペテルブルグに向った。」(原卓也訳)

 最後の場面、主人公の私は、孤独が胸をかみ、淋しくてならないような時、おぼろげに昔を思い返しているうちに、向こうでもわたしを思いだし、待っていてくれ、そのうちにまた会えるに違いない、という気がしてくることさえある・・・というのだが、そんな日ははたしてやってくるのだろうか・・・。

 「ミシュス、君は今どこにいるのだ?」

進化と変化

2009-09-20 | 言葉
 ビジネスの現場でよく聞かれる言葉に次のようなものがある。
 「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」と、あの進化論のダーウィンは言っているというものだ。
 だからこそ変革は不断に行われなければならないし、イノベーションこそが企業や組織の発展には必要だという論法である。

 ところが、13日付毎日新聞の書評欄で中村桂子氏が取り上げている松永俊男著「チャールズ・ダーウィンの生涯」によれば、「ダーウィンの著書や稿本のどこにもこんな言葉はない。これも変革を正当化するために、勝手にダーウィンの名を利用しているにすぎない」のだそうだ。
 著者は、1960年以降に翻刻されたダーウィンの草稿や自伝などをていねいに確認したうえでの指摘だそうだから、おそらく正しい指摘なのだろう。

 だとすればこれは誰が言い出したことなのだろうという疑念が当然のことながら浮かび上がって来る。
 それは分からないが、《ダーウィン=進化論》というブランドイメージを錦の御旗として自己の主張を展開しているのに違いはない。
 ダーウィンの名言というだけで、疑いもせずに真に受ける愚というものを私たちは反省しなくてはならないのではないだろうか。

 しかしながら、である。
 上述のことは、松永俊男氏の指摘を100%信じるならばという留保つきの論旨にほかならない。
 私自身がダーウィンの著書や稿本の全てに目を通して確認していない以上、その指摘を孫引きしてエラソウナことをいうこと自体が意味のないことだと言うほかないのである。

 結局、すべては疑ってかかれという教訓に行き着いてしまうのだろうか。

 昨年来、「チェンジ」「変化」といったキーワードがひとつの流れをつくったということは確かなことである。
 「政権交代」は果たしてどのような変化と進化をこの社会にもたらすだろうか。
 このブログでも何度も取り上げた例の「国立メディア総合センター」構想は見直しが必須のようだが、ではそのことで何が変わるだろうか。
 「国営マンガ喫茶」などという言葉がひとり歩きし、揶揄の対象となったが、そのことでクリエーターの現場の大変な実態がクローズアップされるという利点はあったと思われる。
 無駄なハコモノというだけでばっさり廃案にするのではなく、メディア文化を国策と捉える視点が少しでもあるのならば、その予算を現場の製作者たちを応援することに使ってほしいと願わずにはいられない。
 そうではなく、結局何も変わらないのであれば、あの大騒ぎの時、現場の立場からセンター設置に異を唱えた人たちの声はそれこそ政争の具として使われたに過ぎなかったということになってしまう。
 幸い新しい大臣は単純な凍結論ではなく、多くの人の声に耳を傾けてみたいというスタンスのようだ。
 今後の動向を注視したい。

詩人の言葉

2009-07-28 | 言葉
 陶芸家の友人から詩集が届いた。毎年1回、仲間3人で編んだ詩集を送ってくれるのである。第8号とあるから、もう8年も続いているわけだ。頭が下がる。
 発行間際には締切りに間に合わせるために慌てて帳尻を合わせるなんてこともたまにはあるのかも知れないけれど、生活の中に詩を書くという営みがしっかりと根付いていることを感じさせる作品ばかりである。
 私は極めて散文的な人間だから、詩について論じることなど出来ないのだが、それでも20歳そこそこの頃には真似事のように自分なりの詩をノートに書きつけたことがある。
 あれらの言葉はいま何処で眠っているのだろう。

 詩集に所収の作品も良いけれど、今回、友人が書き付けた巻末の後書きにぐっときた。
 1970年の高校の文化祭の話である。三島由紀夫が割腹自殺を遂げたあの年のことだ。
 17歳の友人は弓道部とのかけ持ちで、ロック喫茶ならぬロック部屋を有志数人とつくったのだ。
 教室に暗幕を張り、大音量で音楽を流す。当然教師たちの目に止まり、難癖をつけられたり、喫煙を疑われ、エンマ帳で頭をパーンとやられたり・・・。
 「あの頃のことは、CSN&Yの『デジャ・ヴ』のジャケットのようなセピア色にはまだなっていない」と彼は書くのである。

 17歳は特別な年齢である。アルチュール・ランボーも「一番高い塔の歌」のなかで書いている。
 「真面目一途は無理な話だ。17なんだよ・・・」

 詩は一瞬の感情や光景を形にしてとどめようと詩人が言葉と格闘した結晶のようなものではないだろうか。
 言葉を語る瞬間の詩人と、印刷された詩集を手にする彼は、同じ彼ではあるが彼ではないだろう。
 あの時17歳だった私は、同じ私ではあるけれど、今は私に夢見られる私でしかない。あの時の私は一体どこに行ってしまったのだろう。

 詩人の鈴木志郎康が26日付の日経新聞に書いている。
 自身の詩集成に収録された未刊の詩について書いた部分である。
 「未刊の詩群は、読み返して見ると、二十代の詩人が愛の不毛を当時の心情に合わせて誠実に語っている詩だった。
 それらの未刊の詩に現在のわたしは手を入れることができない。書いた詩人は、わたしだけれどわたしではなく、既に不在となったわたしなのだ。」

 むかし愛を語り合った恋人たちも、いまはいなくなってしまった。言葉は残るけれど、中空に虚しくリフレインするばかりでこの手に摑むことはできない。
 その言葉を語った私は、私ではあるが私ではなく、既に不在となった私なのだ。

 私の言葉は永遠に届かないのだろうか。

エチュード

2009-07-21 | 言葉
 体育館に嬌声が響き渡る。小学生チームとママさんチームに分かれた選手たちがボールを追いかけ、床に身を投げ出しながらレシーブしようとする。元オリンピック選手の中田久美さんや吉原知子さんを招いたバレーボール教室の一コマだ。
 私はスポーツ観戦よりも薄暗い劇場で陰気な芝居を観ているのが好きな性質(たち)だからこれまであまり縁がなかったのだが、身近に見る二人のアスリートの体形は想像を超えた次元でシャープに鍛えられたものだった。
 すでに解説者やコーチに転進した人たちだから、現役ばりばりの全盛期の頃はいかばかりであったかと、その頃のナマの姿を見る機会のなかったことを今更のように悔やんでいた。

 ママさんバレーとバカにしてはいけない。自分がコートに立てば自ずと分かるけれど、相当なレベルにあるのは確かだ。そうした彼女たちを軽くあしらう元オリンピアンの技術と体力は想像の埒外にあると言っても過言ではない。
 芸術的プレーという表現があるけれど、それはまさにそうした高いレベルの技量を持った選手たちが真剣に競い合う一瞬に奇跡のように現れるアートのようなものなのだろう。

 小学生たちの一見単調な繰り返しの反復練習を見ながら、こうした長い時間の積み重なりの結果として常人を超えた身体的特徴が顕現するのかと考えていた。

 さて、辻井伸行氏にお会いしたことは先日も書いたが、その時、一日の練習時間はどれくらいですかと訊ねてみた。
 単純に一流のピアニストになるためにはどれくらい長時間の練習を重ねているのか聞きたかっただけなのだ。
 ところが、伸行氏もお母様のいつ子さんも少しばかりきまり悪そうにもじもじしていて、ようやく「最近は学校もあるのであまり練習をしていない。コンクールの前は8時間くらい。今は一日3時間くらいかなあ」と答えてくださった。
 素人の私にはなるほどさもありなん、さすがと思うほどの練習時間なのだったが、実はこの時間数はピアニストとしては決して長いほうではないのだそうである。
 あとで知ったのだが、伸行氏はあまり長時間練習するタイプではなく、むしろ短時間集中型なのであるらしい。もしかしたら、元来、長い時間練習するのはあまり好きではないのかも知れない。

 辻井いつ子さんの著書「のぶカンタービレ!」の中に私の好きなエピソードがある。
 伸行氏が14歳の頃、横山幸雄氏をはじめとする一流ピアニストによる集中レッスンを受けるためにイタリア・サルディニ島に行った時のことだ。
 地中海のリゾート地と思い込んでいた夢とは異なり、そこは海から遠い殺風景な工場地帯。部屋のシャワーは小さくお湯も出ないしベッドも小さい。おまけにセミナー会場はエアコンもなく、朝早く行かないと練習用ピアノも確保できないような有り様。
 すっかりいじけた伸行氏が横山先生に相談したところ、
 「・・・僕の部屋の隣にアップライトのピアノがあるからそこで練習すればって涼しい顔でいわれたんです。(中略)でも調律はひどいしエアコンはないし、こんなところで練習なんかできないなと思っていたら、また横山先生に「ヨーロッパではこんなの普通だよ」ってかるーくいわれちゃって。
 (中略)やる気が出ないななんて思っていたら、突然隣の部屋から横山先生のものすごい演奏が聴こえてきたんです。ショパンのエチュードを1番からずーっと何時間も弾いていました。最初は暑いのにこんなところでよく練習できるなと思っていたんですが、先生は4時間も弾きっぱなしなのです。それを聴いていたら、まずいな、僕もやらなくちゃと思って、そこからは僕も練習に打ち込めるようになりました」

 劣悪な環境だと嘆いているばかりでは何も解決しない。
 自分ではどうにもできない環境をあるがままに受け入れ、自分のやるべきことに集中すること。
 その大切さを教えてくれる素敵なエピソードである。

ベースボールの歌

2009-06-26 | 言葉
 5月末に大阪市で行われたある講演会のなかでサントリーラグビー部清宮克幸監督が「ラグビーはリーダーシップのスポーツ、男を自立させるスポーツと言われる。少年の頃からベンチを見て監督の指示を待つ野球と比べて、社会に出てビジネスで成功する人が多いと指摘される」と述べていることが報道されている。
 これには野球関係者から一言あるのではないかと面白く読んだ。

 今から140年も前、明治4年(1871年)に紹介されたベースボールだが、その40年後にはもう野球人気は一般に広く浸透していたようだ。
 『東京風景』は明治44年(1911年)刊だが、同年刊の 『慶応義塾之現状』中の「野球部」の項には、「綱町グラウンドに於て野球競技行はるるときは、来観者毎時殆ど萬を以て数るを見ても、義塾野球部の如何に盛大なるかを察す可し。」 と書かれていてその人気ぶりを示している。

 一方、日本のラグビーの歴史は、明治32年(1899年)に上記の慶応義塾大学から始まったとされる。

 ラグビーと野球の因縁は深い。
 野球人気の加熱ぶりに対抗して、『東京朝日新聞』は明治44年8月29日から9月19日にかけて「野球と其害毒」というアンチ野球キャンペーンを掲載した。 第1回は第一高等学校校長・新渡戸稲造の談話である。
 「野球と云ふ遊戯は悪く云へば巾着切の遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗まうなどと眼を四方八面に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが英人や独逸人には決して出来ない。彼の英国の国技たる蹴球の様に鼻が曲っても顎骨が歪むでも球に齧付いて居る様な勇剛な遊びは米人には出来ぬ。」(東京朝日新聞8月29日付)

 野球に対する敵愾心が「大人気なく」というか「微笑ましく」も露骨に表されていてとても面白い。それだけ野球の人気がすさまじかったということなのだろう。
 「武士道」を書いた新渡戸稲造にとっては、「ノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)」を旗印にしたラグビーの方が似つかわしかったのに違いない。

 野球という訳語は正岡子規の後輩で中馬庚という人が明治26年頃に、野外の遊戯ということで、庭球に対して野球と命名したといわれる。
 子規のベースボール好きは有名だが、野球という訳語が浸透するずっと以前、彼は自身の幼名である升(ノボル)をもじって、「野球:ノ・ボール」という雅号を使っていたそうである。
 このほか正岡子規は、打者、走者、直球、死球などの言葉を訳し、これらは今も私たちの日常語として使われている。

 子規の竹之里歌には、次のような歌がある。

 「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
 「若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ」
 「九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり」
 「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな」
 「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」

 遊びの原型としての楽しさ、いとおしさがこれらの歌には込められていると感じ入るけれど、これを作った明治31年頃、すでに子規は病のために歩行の自由を失っていたのだ。

 司馬遼太郎「坂の上の雲」には、ベースボールに親しむ子規の姿が印象深く描かれている。子規にとって、野球は俳句同様に人と心を通わせるための大切なコミュニケーションツールだったのである。
 野球は日本人の精神形成や生活に深く根付いているのだとつくづく感じる。

 さて、近代日本の幕開けから敗戦、高度成長期、バブル崩壊、そして現下の経済危機、その時代の要請に伴ってビジネスモデルも様々に変化している。
 チームワークが何よりも優先された時代、猪突猛進の強いリーダーシップが求められる時代、その時々に応じてスポーツの人気も変転してきたのだが、今、この時代にもっともふさわしいスポーツ=ビジネス形態は果たしてなんだろうか。

 子どもの頃、私たちは野球という遊びを規則にしばられることなく、三角ベース、キャッチボール等、自在に工夫しながら楽しんだものだ。
 あの頃がとてつもなく懐かしい。

世界言語

2009-03-18 | 言葉
 3月15日付の日本経済新聞の特集記事で、経済や文化のグローバル化、インターネットの普及を背景に世界の言語は英語の一人勝ちの様相であることを伝えている。
 だが、英語の圧倒的な広がりは、独自の民族言語と結びついた文化や歴史を揺るがす危うさもはらんでいると記事は伝えている。
 英語が世界共通語として隆盛を誇る一方、消滅の危機にある言語も数多いのである。

 2008年には米アラスカで「エヤク語」を話す最後の一人、マリー・スミス・ジョーンズ氏が死去。
 ユネスコによると1950年以降219言語が絶滅した。
 現在、世界中で使われている約6000の言語のうち、2498は消滅の危機にさらされているという。
 日本では、アイヌ語が消滅の危険度の分類で「極めて深刻」とされ、八丈島や南西諸島の言葉などが独立後として「危険」「極めて深刻」とされているそうである。

 私は迂闊にもこうした世界の言語状況にあまり関心がなかったのだが、こんなにも多くの言語が存在し、しかもその半数近くが消滅の危機にあるという事実は衝撃的である。

 こうした問題を扱った本として、最近では水村美苗氏の「日本語が滅びるとき―英語の世紀の中で」(筑摩書房)が大きな話題となったが、これに先立つ論考として、柄谷行人氏の「日本精神分析」(講談社学術文庫)所収の「言語と国家」が興味深い。
 これは2000年6月に柄谷氏が行った講演草稿に加筆したものであるが、まさに今日的な言語状況を読み解くのに明確な視点を与えてくれる。

 以下、部分を恣意的につなぎ合わせて引用。深謝。
 「・・・英語は、19世紀の大英帝国から20世紀のアメリカの世界支配を通して、かつてないようなリンガ・フランカ(世界語)になっている。
 1990年以後の新自由主義とか、資本主義のグローバリゼーションという事態も、言語面では英語がリンガ・フランカとなりつつあるということなのである。
 フランス国家は、フランス語が国際的にますます通用しなくなるという事実に対して必死に抵抗し、アメリカに対抗するものとしてヨーロッパ共同体を進めてきたけれども、そこには矛盾があって、共同体の共通語は逆に英語にならざるを得ないという事態を招いている。
 コンピュータ用語をはじめ、英語は各国語に浸透しており、それはますます強まるだろう。
 言語は、国家やネーションに関係なくあるものだが、文字言語となると、必ず、政治的な「価値」、つまり国家やネーションに関係するだけでなく、経済的な「価値」に関係してくる・・・」

 ここで考えたいのは、この英語の言語としての覇権と今般の経済危機との関係である。
 新自由主義や資本原理主義のシステム破綻という状況は、翻って言語の多様性が持つ有効性に新たな光を投げかけるのではないか、とも思えるのだがどうだろう。

 それにしても、その言語を話す最後の一人となったとき、私たちはどんな思いに捉われるだろうかと想像する。自分にしか理解できない言語での独り言、それは一体どんな夢を描き出すのか。

 と、こんなことを書いていたら、17日のTBSテレビ「NEWS23」で「どう守る 失われゆく故郷の言葉」を特集、沖縄の「うちなぁぐち」とフランスの「ブルトン語」を保存・伝承しようとする人々を取材していた。
 その当事者へのインタビュー、「どんな少数言語であれ、その言葉で夢を見、ものを創造する人がいる限り、守らなければならない」という言葉を私たちは十分に咀嚼しなければならないだろう。

27歳のスピーチライター

2009-01-23 | 言葉
 とある大規模な演説会場の舞台裏で、一人の若い地方議会議員が出番を控え、緊張の面持ちであれこれと言い回しを工夫しながら、これから話すスピーチの練習に余念がない。
 ふと微かな笑い声が聞こえたような気がして振り向くと、そこにいたのはジーンズ姿で坊主頭、まだ少年といってもよい童顔の若者だ。
 誰だろう。おそらく会場設営の学生アルバイトか何かだろうと思いつつ、「何か?」と問いかけると、「今のところだけど、こんな言い方にしたらどうかなあ」と話しかけてきた。
 訝しく思いながらも、青年議員は若者の言うとおりに語順を入れ替えたり、言い回しを変えてみる。
 「いいね。きっとうまくいくと思うよ」と若者は軽くウィンクすると、童顔をほころばせた。
 2004年の夏、民主党全国大会。「多様性の統一」を謳ったその基調演説によって、イリノイ州議会議員バラク・オバマは中央政界への鮮烈なデビューを飾った。
 演説を終え、興奮の面持ちで舞台裏に戻ってきたオバマは若者に話しかける。「うまくいったよ」
 聞けば若者は大統領候補ケリー上院議員のスピーチライターの一人だという。
 「気に入った。よかったら私のところに来ないか。一緒にこの世界を変革しよう」

 こんな勝手なシーンが思い浮かぶほど、オバマ大統領のスピーチライター、27歳のジョン・ファブローの話題は、歴史的な就任演説のサブストーリーとして私たちをワクワクさせる。
 スターバックスのコーヒースタンドで日がなパソコンに向かうという彼は、オバマ大統領の考え方を理解し、その意を汲み、「オバマ語」といわれる特有の言い回しを駆使しながら文章を磨き上げる。
 二人がキャッチボールを繰り返しながら練り上げた草稿をオバマは完全に覚えこむまで練習し、人々を魅了する演説に仕上げるのだ。
 
 翻って、わが国でこんなことがあり得るだろうか。キャリア官僚の書いた原稿を棒読みする我らが首相だが、国会審議のなかで漢字検定されるような有り様は何と言ったらよいのか言葉もない。
 思うのだけれど、本気で言葉を伝えようと考えるのならば、政治家の皆さんは是非、今どきの若い演出家や劇作家、役者とタッグを組んで、言葉を磨き上げるべきだ。
 昔、中曽根首相がレーガン大統領を迎えるにあたり、そのコーディネーターを演出家の浅利慶太氏に委ねたことがあった。当時は何だろうなあと首を捻ったものだが、今になって思えば慧眼だったのだ。
 麻生総理の横で岡田利規が笑っているなんて図、結構いけてるのではないかしら。

伝わる言葉

2009-01-15 | 言葉
 米国のオバマ次期大統領の就任式が近づいてきた。政治、経済に限らず、あらゆる局面で「オバマ待ち」という状況のなか、オバマ大統領が就任式でどのような演説を行うのか、世界中が注視しているといってよいだろう。
 私も役者としてでなく、スピーチライターのはしくれとして多大な関心を持っているのだが、人の心に響くスピーチの要諦は何だろう。

 歴代大統領のなかで最も有名なケネディの就任演説がいかに生まれたか、13日付けの毎日新聞に論説委員の玉木研二氏が書いている。
 当時、ケネディの側近で演説執筆者だったソレンセン元大統領特別顧問によると、彼はケネディの指示で歴代の就任演説の全部を読み、さらに有名なリンカーンのゲティスバーグ演説を徹底的に分析したとのこと。
 その結果、リンカーンは用語が簡潔で1語で間に合う場合、絶対に2語、3語と余計な言葉を使うことがなかった。これはケネディ演説に応用された。
 さらにケネディは、20世紀最短の演説にしたがり、「私」を全部「我々」にしようと手を入れたとのことだ。

 ソレンセンの名前は私にとってもなつかしい。片田舎の中学生だった頃、何を思ってか、なけなしの小遣いをはたいてソレンセンの著作「ケネディへの道」を購読した思い出がある。政治に何の興味もなかったはずなのに、ちゃんと読んだ証拠に、巻末近く、暗殺され、病院のベッドでシーツにくるまれたその遺骸を医師たちと見守りながら、彼は大きな人だったと感慨をもらす部分は今でも時たま胸を熱くしながら思い出すことがあるのだ。不思議なものだ。

 もう一つ思い出すのが、1986年、スペースシャトル爆発事故で亡くなった宇宙飛行士たちへのレーガン大統領の追悼演説だ。(これについては同じ毎日新聞、安部新首相が誕生した2006年9月の余禄で紹介されている。)
 飛行士たちが「神の顔に触れたtouch the face of God.」という詩句で結ばれる歴史的名演説である。
 レーガン大統領は「グレートコミュニケーター」と称され、親しみやすい平易な言葉でその保守政治への国民の信頼を取り付けた。
 そのスピーチライターとして有名になったのがペギー・ヌーナン氏で、彼女は、偉大な演説の要諦は「びっくりするような簡潔さと明快さ」であると言っている。
 
 元俳優のレーガンは、彼女の書いた原稿を完璧に暗記し、見事に演じきった。
 まさに、簡潔で平易なセリフと熟達の演技力が相まって人々の心に響く演説が生まれたのである。
 大統領就任演説の準備には、ブロードウェイでも最高の舞台監督やスタッフが集められ、拍手や反応まで計算した演出が施されるという。最高のエンターテインメントとして、言葉がどのように伝えられるのか、楽しみにしたい。

ウィントンの12条

2008-12-16 | 言葉
 浅田真央、石川遼といった10代のアスリートの活躍が話題を呼んでいる。彼らには生来の天分に加え、明確な目標を持って課題を克服するために練習を積み重ね、努力するという美徳が備わっている。本当に若い彼らには尊敬の念すら抱いてしまう。
 時分の花に終わらない確かな技は、基本的なジャンプの一つひとつ、パターの一打一打を地道に繰り返すことによってしか身につけることは叶わないのだ。
 同時代に生きることを幸せと感じることのできるアーティストやアスリートは稀有なものだが、彼らは間違いなくそんな存在であろう。
 すれからしの老俳優たる私も時には初心に戻りたいと思うことがある。これまであまりにも多くの役や人格を演じてきてどれが自分の本当の顔か分からなくなって素の自分を取り戻したいと思ったり、身体にも心にも生じた歪みを元どおりに矯正したいと願う、そんな時にいつも読み返す言葉、今日はそんな言葉を改めて記憶に刻みつけたい。

 これはすでに8年程も昔、ジャズ奏者のウィントン・マルサリスとチェリストのヨー・ヨー・マが共演した米国公共テレビ(PBS)で紹介されていたもの。タイトルは「怪物に挑む」だった。(もし著作権に抵触するようでしたらご容赦を)
 マルサリスは言う。「誰もが英雄になりたがるが、竜とは戦いたがらない」
 練習は楽しいものではないが、進歩し、偉大になるためには他に方法はない。ただし、誤った練習は害があるばかりで、利もない。

「ウィントンの12条」
1. 教え手は船のキャプテンと同じ。航路をしっかり知っている人を選べ。
2. 基本をしっかりと学びとる計画表を書け。
3. リアリスティックでしかも挑戦できる目標を立てろ。1ヶ月でこの基本を、2ヶ月でこの壁をという具合に。
4. 集中することを学べ。練習の時間を自己の矯正に使え。集中できなかったら、止めて、やり直しの時間をもて。
5. リラックスせよ。
6. 難しい個所に時間をかけろ。
7. すべての音をきちっと表現してプレーせよ。
8. 誤りから学べ。誤りを怖れるな。
9. 見せびらかすな。
10.自分で工夫しろ。
11.楽観的になれ。
12.共通点を見出せ。

※5についての注釈
 学ぶときにゆったりしろということ。早く上達したくても、上達するための練習 は急げない。今、練習している曲をゆったりしたテンポで学び、段々とスピード アップしていく。ゆっくりしたテンポで練習すれば筋肉に難しい動きをコントロ ールすることを教え込める。リラックスすれば集中もでき、楽しめもする。いざ という時に役立つものだ。
※9についての注釈
 見せびらかすな、は卓越したピアニストだったウィントンの父が「拍手を求めて プレーする人は、拍手だけを得る」と言ったことによる。一時的な名声を得るた めに、大切な、音楽そのものを犠牲にしてはいけない。

レミーのおいしい批評

2008-12-07 | 言葉
 偶然にせよ、よい言葉に出会うと嬉しくなる。
 たまたまディズニーアニメのブラッド・バード監督作品「レミーのおいしいレストラン」のワンシーンをテレビで観たのだ。紹介するまでもないけれど、これはグルメの都パリにある高級レストラン「グストー」を舞台に繰り広げられる、驚くべき料理の才能を持ち、「シェフになりたい」という叶わぬ夢を抱えたネズミのレミーの物語・・・である。
 物語の最後、登場人物の一人で、シェフがもっとも恐れる料理評論家イゴーが語る言葉が素晴らしい、と思わず書き留めたくなる。脚本が素晴らしいのだ。ちなみにこのイゴーの声はあの名優ピーター・オトゥールとのこと。(以下、記憶による引用)
 「評論家の仕事は総じて楽だ。リスクは少なく、立場は常に有利だ。作家と作品を批評するのだから。そして、辛口の批評は我々にも、読者にも愉快だ。
 だが、評論家は知るべきだ。世の中を広く見渡せば、平凡な作品のほうが、その作品を平凡だと書く評論よりも意味深いのだと。
 だが、我々がリスクを冒す時がある。新しいものを発見し、擁護する時だ。世間は新しい才能に冷淡であるため―――。新人には支持者が必要だ。
 昨夜、私は新しい体験をした。あまりにも意外な者が調理した見事なひと皿。
 それは、よい料理に対する私の先入観への挑戦だった。いや、もっと言おう。心底、私を揺さぶったと。
 誰でもが偉大なシェフになれるわけではない。だが、どこからでも偉大なシェフは誕生する・・・」
 シェフという言葉を役者に置き換えてみたい。あるいは演出家でも、劇作家でもなんでもよいのだが。演劇界にも大先生と呼ばれる権威ある評論家は多い。けれど、これほど率直に語り、真摯に新しい才能を発見し、認めようとする批評家がいるだろうか。
 来たれ、新しい才能。出でよ、真の批評家―――。

 さて、もうひとつ。こちらは6日付けの毎日新聞朝刊のコラムで紹介されていた音楽評論家吉田秀和の言葉。95歳で現役の吉田氏の50代の頃の言葉である。
 「自分が一向に傷つかないような批評は、貧しい精神の批評だといわなければならないのではあるまいか」
 こちらのほうはガツンとくる。こんなふうにネット上に匿名でゆるい言葉を書き続ける自分は一体何なのだろうと・・・。
 せめて、自分なりに精一杯の真面目な言葉を紡ぎたいと願ってはいるのだけれど。