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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

その前と後の表現

2011-09-12 | 言葉
 すでにひと月近くも前の記事だが、8月17日付の日経新聞夕刊に載っていたシンガー・ソングライター山下達郎の発言が気にかかっている。
 要約された発言のさらにその一部分だけを引用することは誤解を招きかねず、ご当人にも迷惑このうえないことだろうが、あえて抜書きをメモすると次のようなものだ。

 「・・・・・・大衆音楽が震災後のこういう状況でどんな役割を果たせばいいのか。言葉にすると陳腐かもしれないが、人々を励まし、元気を与え、癒すことだろう。歌が聴き手に寄り添い、メロディーや詞が生活するうえで助けにならなければいけない。ポピュラー音楽は大衆に奉仕する義務がある。」
 「・・・・・・シンガー・ソングライターは実体験を歌にフィードバックする。文学でいえば私小説だ。だから、もともと僕らの歌は作り手と聴き手が同じ空気感を共有し、互いの距離が近い。・・・・・・今はシンガー・ソングライター的なアプローチが有効だと思う。リアリティーがないと聴き手に響かないからだ。
 ある種の前衛芸術は、いまのような局面になると力を失うだろう。人々の心がよじれてしまっているときによじれた表現は無用。アバンギャルドというのは安定のなかでこそアンチテーゼとして機能する。」
 「(今後)震災の前と後という概念で文化表現が選別される可能性がある。既存の表現が機能しなくなるかもしれない。表現者にとってはとても厳しい時代になる。」

 文脈や発言の流れが記者によって編集されているから必ずしも本意でないところもあるかもしれないが、山下達郎のこの意見には同感するところとどうにも納得できないところがある。
 ポピュラー音楽の創り手としてのスタンスはたしかにそうだろうと理解できるのだが、これからは「表現」が選別される可能性があるとのくだりには違和感を覚えざるを得ないのだ。
 それは、あらゆる表現が一方向に向かうことを是としてしまうことを意味するのではないか。

 8月31日付の同紙には、作家・辺見庸がインタビューに答えた記事が載っている。

 辺見庸もまた、ドイツの哲学者アドルノが1949年に語った「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という言葉を引用しつつ、「あの巨大な破壊と炉心溶融の後に、以前と同じ言葉、文法、発想は使えないという気持ちが非常に強い。書くそばから消して、死産ばかりだ。出てくる言葉が、3・11以前と同じであることにどうしても納得がいかない。」と語り、震災後における表現の困難さに直面していると語る。
 しかし、それは山下のいう「選別」とは異なる次元の問題意識に基づくものであろうと思う。

 辺見庸は続けてこう語るのだ。
 「いま、詩に限らず、表現の多くが震災を大変な悲劇としてとらえ、悼むことに多大なエネルギーを費やしている。無理からぬ成り行きだろうが、僕は薄気味悪さを覚える。
 坂口安吾は空襲の破壊の美を書いた。中山啓という詩人は関東大震災で2つに折れたビルの様子を「愉快」だとよんだ。悼み、悲しむ姿勢とは対極にある、そのような言葉を、今日受け入れる自由な空気があるか。書こうとする作家や詩人の存在があるか。恐らくない。そのことに危うさを感じる。
 国難が叫ばれ、連携や絆、地域、国家を重んじる時代には、往々にして、特異な個人が排除される。……いま必要なのは手に手を取って「上を向いて歩こう」を歌うことじゃない。個人がありていに話す空間、新しい知をつくることが希望に至る一筋の道だ。」

 苦渋のなかから吐き出される言葉には錐もみするような痛みを伴いながら肺腑を抉る鋭さがある。

 9月9日付毎日新聞夕刊では、作家の五木寛之がこんな話をしている。

 「沖縄の版画家、名嘉睦稔さんが書いていました。自らバンドを結成して、老人ホームに慰問に行った。お年寄りを元気づけようと明るい曲を演奏したら、怒られた。おれたちは悲しい。悲しいときには悲しい歌が聴きたいんだ、と。歌謡曲の多くは失恋を歌っているでしょ。涙、別れ・・・・・・。立ち上がれないとき、人は悲しい歌を欲しがるんです。大きな悲しみに出合ったとき、どうすればいいか? 本居宣長も言っています。悲しい、悲しいとつぶやき、叫べ、と。その叫びが歌になるのだ、と。」

 いま、巷には被災地や被災者を元気づけようとする言葉や言い回しが溢れている。
 いわく、わたしたちの歌で元気を届けたい。このイベントの盛り上がりが少しでも被災地の皆さんのところに届きますように。この勝利が被災者の皆さんに勇気を与えてくれますように・・・・・・。
 あらゆる表現が、行為が、・・・・・・のために、という言い訳や前提のもとに語られる。
 そうしたカギカッコつきの表現が世の中に充満し、そうでないものは選別され見向きもされなくなる。
 それが健全な状態でないことは確かだろう。
 表現は、芸術は、もっともっと多様なものであるはずだ。


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