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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

マンガの国

2009-08-03 | アート
 先月、7月21日付毎日新聞の夕刊に東京大学大学院の渡辺裕教授が<「国営マンガ喫茶」は無駄づかいか 「芸術」の概念にとらわれぬ議論を>という文章を寄せている。
 これは国の補正予算に組み込まれた例の「国立メディア芸術総合センター」がろくな議論もないまま「無駄づかい」の大合唱におしつぶされてしまっている様相に疑念を感じての問題提起である。
 無駄づかいを唱える人々の意識には、アニメやコミックへの根強い「差別」意識がひそんでいるのではないかというのだ。
 高尚な絵画とマンガ、クラシック音楽に対するロックやJ-Pop、歌謡曲などのポピュラー音楽を比較するとき、その前者には芸術的価値があり、後者は単なる娯楽であり価値が無いとする価値観はどのように醸成されてきたのだろうか。

 そもそも「芸術」という概念自体、近代になって西洋で生まれたものであり、「クラシック」に価値を認める考え方も、19世紀になって当時後進国であったドイツが「音楽の国」としてのアイデンティティを確立する過程とのかかわりで歴史的に形成されたとものであるらしい。
 それらは、西洋中心主義的なイデオロギー確立の過程とのかかわりを抜きに語ることはできず、永久不滅の芸術的価値などという観念自体、特定のイデオロギーの産物に過ぎないのである。

 100年後には、アニメやコミックを礼賛する人々が、昔は「現代芸術」などという奇妙な概念があって、わけのわからないアートがもてはやされていたなあなどと言っているかも知れない。
 その頃には、私の妄想だが、クラシック専用の音楽ホールなど、使い勝手の悪い集会施設として持て余され、パブリックアートはすでに廃棄されてアニメキャラクターが街の景観を彩る時代になっているかも知れない。
 また、その頃には地域のお祭も様変わりして、地元ゆかりの大名行列などにとってかわってアニメキャラクターのコスプレショーが幅を利かせているかも知れない。

 渡辺教授は、そうした中で何が重要なのか、世界の状況に照らしてどのようなものを選択し、これからどのような設計図のもとに文化を構築してゆくのか、よくよく考えてみようと言っているのである。

 さて、同日付の雑誌「エコノミスト」では、<「世界に誇る日本文化」の厳しい台所事情>として、市場縮小と地盤低下の進むマンガ、アニメ産業の状況を特集している。
 世界に誇る文化ともてはやされる一方、制作の海外への外注が進み、国内の制作現場が待遇面でも極めて厳しい状況にあることは以前も触れたが、この記事で認識を新たにしたのは、今の子どもたちがマンガを読まなくなっているという現実についてであった。
 今や「週刊少年マガジン」のコアな読者層は30代半ばの人たちであり、さらに読者年齢を引き上げる役目を果たしてきた団塊の世代のマンガ離れも、市場の縮小に拍車をかけているという。彼らは駅でマンガ雑誌を買う習慣があったが、定年退職に伴い通勤をやめると同時にマンガを読まなくなった。
 すなわち、マンガが売れなくなったのは景気後退に伴う一時的現象などではなく、構造的現象だというのだ。

 今あちらこちらでマンガやアニメによる街おこしが盛んになっている。
 それは団塊の世代の人々が地域がえりをして街づくりに取り組みはじめたこととも何らかの関係があるのかも知れない。
 それはそれで結構なことだと思うけれど、そうしたアニメによる街おこしや街づくりのなかで何を目標にするのか、よくよく考え議論することが必要だろうと思う。
 私の個人的な意見としては、パブリックな空間にアニメキャラが溢れ返るような街並みは決して好ましいものではない。
 マンガやアニメを真の文化に育て上げるうえで何が本当に必要なのか、大切なのはそのことに思いを寄せることではないだろうか。


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