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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

マネとモダン・パリ展

2010-07-08 | アート
 丸の内に新しくできた三菱一号館美術館で開催されている「マネとモダン・パリ」展を観に行った。
 三菱一号館は、1894年、日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計により建築された洋風事務所建築である。老朽化のため1968年に解体されたのだが、40年余りを経て原設計に基づき復元され、美術館としてよみがえったのだ。
 
 平日の午前中というのに入り口には多くの観客が立ち並び、入館まで25分待ちだという。わが日本はなんという「文化大国」かと誇らしく思う一方、大半が中高年の女性というその光景に何となく屈折した思いも湧いてくる。
 以前、友人の陶芸家RIKIちゃんが新国立美術館にルーシー・リーの展覧会を観に行って、「こりゃ美術館のアウトレットか」「中を歩いている人の7割は女のひとだったな。美術館は今やおばさんの一大リラクゼーション施設か。何となくおじさんは肩身が狭かった」と書いていたのを読んで思わず笑ってしまったことを思い出す。

 今回の展示作品のなかではやはり「死せる闘牛士(死せる男)」がひときわ印象的な実在感を放っている。「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」も美しいし、「花瓶に挿したシャクヤク」や「4個のリンゴ」のような静物画も素晴らしい。
 絵画に関して私はきわめてノーマルで保守的な美術ファンでしかない。
 
 そんな美術館につめかけた沢山の観衆を眺めながら、そこに展示されているマネの作品の多くが、発表当時はまったく相手にもされないか、あるいは嘲笑の対象だったことを思い浮かべると、実に複雑な感慨に捉われる。
 この人たちも、そしてただの愛好家に過ぎないこの私も、その目に映っているのは世俗的に確立した「評価」や「成功」、金銭に換算される「価値」なのであって、作品そのものの「価値」ではないのではないか。
 そもそも作品の「本当の価値」など誰にも分かりはしないし、そんなものが本当にあるかどうかも分かりはしないのである。
 では、私たちは何を見ているのか。

 岡本太郎がこんなことを言っている。(「ピカソ講義」)
 「ぼくはそういう意味で非常に腹立てたことがあった。戦後しばらくしてからのことだったが、新橋演舞場で三好十郎の『炎の人』という、ゴッホを主人公にした芝居をやったんです。見に行ったら、幕があく前にナレーションがあった。こんなんだった。『私はほとんど憎む。ゴッホが生きていたときにゴッホを認めなかった人たちを』って。それを聞いてカーッとなったね。なんだ、いまゴッホは世界的に有名であり、権威になっている。それに乗っかってドラマ化してる、テメエは何一つしたわけじゃない。お前さんがゴッホが生きて苦しんでいたあの時代にフランスにいたとしたら絶対認めっこなかったじゃないか。しかもいま日本に岡本太郎というゴッホほど悲劇的な人間がいるのに、全然認めやしないじゃないか(笑)」
 最後のオチも含めていかにも岡本太郎らしい。

 先日、ある文化フォーラムに参加した人たちのアンケートを読む機会があったのだが、その中に面白い意見があった。
 もう70歳に手が届こうという女性の方なのだが、ある高名な演劇評論家の講演を聞いた後の感想としてこんなことが書いてあったのだ。
 「そもそも私は演劇などにまったく興味がないので、今日の話は理解できなかった。演劇は感動を与えないし、感動を求めるなら音楽を聞きたい。歌舞伎など見ても面白くないし、衣装はきれいだが、それならどこかに展示された着物を見た方がよっぽどよい」

 決して安くはない受講料を払って聞いた講演の感想として実に面白いと思ったのだがいかがだろう。

 人が何かを観て、感じ、評価する。それはまったくその人、個人のものだ。
 何に感動し、何に関心を持たないか、そのための自由こそ守られなければならないのだろう。
 自分が役者だからといって、万人が演劇を好きだなどと夢にも思ってはならないと肝に銘じよう。
 


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