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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

人は成熟するにつれて若くなる

2012-07-01 | アート
 今からちょうど80年前の昭和7年、画家の熊谷守一は東京・豊島区千早町に居を定めた。その旧居跡が、現在、豊島区立熊谷守一美術館となっている場所である。
 80年前の豊島区はどんな様子だったのだろうか。
 昭和46年6月に日本経済新聞に掲載された熊谷守一の「私の履歴書」には、「(そのころ)まわりはまだ草っぱらと畑だけでした。十町以上も先のずうっと目白通りまでが、すっかり見渡せました。途中は、ケヤキの木に囲まれた百姓家が数軒見えるだけです。」と書かれている。

 それからわずか9年遡った大正12年、東京は関東大震災によって壊滅的な被害を受けていた。昭和初年以降、当時はのどかな郊外の農村地帯だった現在の豊島区地域には、比較的地盤の固い土地柄に惹かれて工場や学校が移転し、さらにはその周辺に人々が住み着いて次第に都市化の波が押し寄せてくる。
 長崎村と呼ばれた地域には美術学校に通う学生目当てのアトリエ付きの下宿が生まれ、そこに学生ばかりでなく若い貧しい芸術家や物書きの卵、キネマ俳優などが移り住み、やがていつしか「長崎アトリエ村」と呼ばれる様相を呈するようになる。
 熊谷守一はそうした若い芸術家たちの守護神的存在でもあった。

 その豊島区も(東京全体がそうなのだが)昭和20年3月から4月にかけての東京大空襲で再び焼け野原となる。
 当時の様子は、洋画家の鶴田吾郎が描いた「池袋への道」からも窺うことができる。
 池袋から一駅離れた今の要町あたりから池袋を見た光景なのだが、一面焼け野原で瓦礫ばかりとなった道を復員兵姿の男が重い荷を担いでとぼとぼと歩いて行く。野っぱらの向こうに小さく白い土蔵が見えるのだが、それが江戸川乱歩の幻影城と呼ばれた土蔵なのである。

 建築家の隈研吾氏によると「建築の歴史をよく検討してみれば、悲劇から新しいムーブメントが起きている」そうなのだが、たしかに関東大震災と東京大空襲という四半世紀の間に立て続けに起こった災厄が街の様相も文化も大きく変えてしまったことは間違いない。そうした観点からの文化の検証はなされてしかるべきだろう。
 
 さて、「私の履歴書」の連載時、守一は91歳だったが、朝は6時頃に起床、軽い朝食をすませると庭に出て植木をいじったり、ゴミを燃したりしたあとは、奥様の仕事が終わるのを待って二人で囲碁を楽しんだという。もっともその腕前は、噂を聞いて取材に来た囲碁雑誌の記者が呆れて帰って行ったというほどだから自分たちが楽しければよいというくらいのものだったのだろう。
昼過ぎから夕方までは昼寝をし、夜になってから絵を描いたり、書をかいたりと仕事をしたようだ。いま何が望みか、との問いには「いのち」と答え、「これからもどんどん生き続けて、自分の好きなことをやっていくつもり」と書いている。
 ちょっと羨ましい、思ってしまう。

 熊谷守一とほぼ同世代のドイツの詩人・作家ヘルマン・ヘッセは、「人は成熟するにつれて若くなる」と言っている。その真意は、たとえ老年になっていろいろな力や能力が失われたとしても、人は少年・少女時代の生活感情を心の底にずっと持ち続けているし、すべてのはかないものや過ぎ去ったもののうちの何ひとつ失うことなく、むしろより豊かにそれらを反芻し、味わうことができる、ということだと思われる。

 守一は、97歳で没する最晩年まで創作を続け、「自分は誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせる。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせる」と言っているのだが、これもまた、石ころとの対話をとおして、自身の様々な感情や思い出と語り合い、それらを味わい、観察することの豊かさや素晴らしさを意味しているように思われる。
 人が歳を重ねて肉体的に衰え、かつてのような体力や瑞々しい肌つやを失うことは当然のことなのだが、それ以上に人は精神の輝きを得ることが出来るのではないか。
 余計な欲得勘定や虚飾を剥ぎ取っていく中で、より純粋で単純なものが見えてくる。
 熊谷守一の晩年における驚くほど素朴で、しかし絶妙のデザイン性に裏打ちされた作品群はそうした成熟の中から生まれたのである。



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