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黛信彦の時事ブログ

浜矩子語録(67)  馬鹿馬鹿しいが、米国債買わされてはいない

2009年07月27日 | 浜矩子語録
妖艶なエコノミスト・浜矩子は26日、富山県民共生センターの「サンフォルテ公開講座」の演台に立った。
『現在、世界と日本の経済に何が起きていて、わたしたちの生活はどうなるのか?』という問いに対して答える講演のためである。
浜矩子は、3・2・3・4という数字を使って、この疑問を解くのであるが、その内容は次編以降に譲るとして、本編では、講演会後の聴講者の質問と浜矩子の応答を記録しておきたい。

挙手して司会者に指名された質問者は、富山県立高校の社会科教師(男性)で、次のように問うた。
~・~・~ 2つの質問があります。
1つは、「豊かさの中の貧困ということで、格差が拡大しているが、原因は自然現象ではなくて政策の結果だ」とのお話ですが、日本政府に求められていること何なのか?
もう1つは、日米政府の力関係というか、いろんな方が「アメリカの圧力で米国債を買わされ続けて、売ることを考えていない。更にアメリカが大変な今、日本が穴埋めをさせられるのではないか」と言っているが、実態はどうなのか?~・~・~

以下、回答の浜矩子語録である。
●政策は機動的レスキュー隊たれ
豊かさの中の貧困問題ですが、政策に求められていることを直接的にお答えするとすれば、圧倒的にきめ細かくて、圧倒的に個別対応的な弱者救済政策だと思います。
つまりそれは、今行われているばら撒き的なものと対極にあるような政策です。
ばら撒きというのは「数打ちゃ中る」という格好で問題を解決しようとするやり方で、皆が貧困な場合には効くのですけれども、豊かさの中に貧困スポットがあちこちにあるという場合には効きにくい、物凄く効率が悪い政策です。
貧困スポットにきちんと照準を当てた個別対策、同じ金を使うのであればそう使うのが基本のところだと思うのです。

(質問者が言った)「政策のまずさが貧困をもたらしている」というのは微妙で、放っておけば確実にそうなる。格差社会というものはそういうものであって、政策が格差社会を作り出しているわけではない。
それこそ合成の誤謬ですけれども、個別企業が生き残るために人を切ることで個別企業を責めるわけにはいかないけれども、すべての企業が生き残るために人を切れば、そこに貧困が生まれて格差が出る。
それを埋めるために政策は外から対応して行かなければならない。
言ってみれば、政策はレスキュー隊のようなものでありますけれども、その機能をいかにうまく政策が果たせるか?

今までの日本の政策は、レスキュー隊という意味ではことのほかおさぼりでした。というのは、(今までの日本は)あまり遭難者が出ない経済でしたから。
民間で落ちこぼれを出さないような、終身雇用というようなことでやってきましたから、レスキュー隊の出番がなかった。だから(レスキューの)トレーニングも受けていない。
けれども、今こそ機動的なレスキュー隊機能が求められています。
それが(冒頭申し上げた)個別的な対策ということになると思います。

●米国債 買わされてはいない
「日本はアメリカの言いなりになっている」と、いろんなところで言われていますが、それは中に入ってみなければわかりません。
が、米国債の問題について言えば、「買わされている」というか、もっと馬鹿馬鹿しいことに、アメリカから見ても「いくらなんでもこれ以上は買ってくれないのではないか」と思っているのに、「日本はどんどん買ってあげちゃって来た」という感じではないかという気がします。
つまり、アメリカに貸しを作る事という建前のもとに、こっちのほうは頼まれないのにレスキュー隊をやっているという感じで、「じゃまあ、救ってもらうか」という感じで扱われているのではないか。

それを逆転しようとしてかつて橋龍さん(元首相で故人・橋本龍太郎氏)が「国債売るぞ」と言ったが、あれをもっと徹底的に言ってやるべきだった。
というのは、かつての日本はアメリカのメインバンクという位置づけにあった。
メインバンクは最大の貸し手であって、日本サイドから見ればアメリカは最大の不良債権なわけですから、ガンガン口出しをするのは当然なわけですが、モノ言わぬ債権者として、ここまで付き合ってあげれば、おんぶに抱っこでやってくれるに違いないというような発想でどんどんそこに行ってしまった。
そこの対応のまずさ、言いなりというよりは、好んで言いなりになった、自虐的なやり方の帰結を噛み締めているのではないかと思います。

日本としては、そのスタンスを変えて行くべきであって、説得のできる、最も近しい、最も口うるさい友人になっているべきだったのに、そうなれなかったのはつくづく情けなく、そういう意味では言いなりですが、強制された言いなりよりはもっとひどいのかも知れないとも思います。

浜矩子語録目次Ⅱ

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