音楽中心日記blog

Andy@音楽観察者が綴る音楽日記

Joe’s Menageライナーノーツ

2008年11月06日 | ザッパ関連
  

 前回の続き。
 「Joe's Menage」のインサートには、このカセットテープをザッパからもらったデンマークのファン、Ole Lysgaard氏による長文ライナーノーツが掲載されているのだが、これがたいへん興味深かったので訳してみた。ハードコアファンに対してザッパが感じていたことの一端が垣間見える。同時にザッパという人の人間くささも。

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 いったいどうしてこうなったのかって? まず自己紹介を。私の名前はオール・リスガード。1967年、17歳のときに、友達が「これを聴くべきだよ」と紹介してくれたのが、マザーズ・オブ・インヴェンションのアルバム「フリーク・アウト!」だった。そのアルバムを買ってひどく気に入ってしまった私は、それ以来、フランクの音楽を聴き続けることになった。

 私は何かが好きになると猪突猛進してしまう性格だ。だからフランクの音楽に対する私の関心は、年を追うごとにどんどん大きくなっていった。若く独身だった頃には、朝目覚めるとすぐにフランクの音楽を聴き始めた。ベッドに入る前も同じだ。しばらくして、のちに妻となる素晴らしい女性と出会ったが、幸運なことに、彼女はフランクの音楽のファンだった。(もしフランクの音楽が嫌いだったら、彼女は私の妻になってくれなかっただろう。)私のフランクへの関心は、平均的なファンのレベルよりも広がり、世界中のあちこちでおこなわれたコンサートのテープを集めるようになった。

 同時に、フランクの音楽や作曲について、彼に直接話をしてみたくなった。だから、他の熱心なファンと同様に、1971年、コペンハーゲンのコンサートホールに行き、首尾よくフランクにサインをもらうことができた。

 二年後、私はホテルのロビーでフランクと5分間だけ話すことができた。1974年には、コンサートの後で彼と10分間話をした。そして、彼がデンマークで5回のコンサートをおこなった1976年には、それ以上の時間会話することに成功し、しかもフランクと一緒に写真を撮ることもできた。この年にはバンドメンバーの何人かとも会話をし、サウンドチェックを見せてもらったりもした。1977年には、フランクのボディガードであるジョン・スマザーズと頻繁に話をするようになったが、このことはとても重要なことだった。なぜなら、ジョンはフランクと話すことができる人間を選ぶ権利を有していたからだ。あるときには、ホテルからライヴがおこなわれるファルコナー・シアターに向かう自動車に、フランクとジョンと同乗させてもらったこともある。

 翌年の2月、フランクはコペンハーゲンで2回ライヴをおこない、9月にはスウェーデンのマルモで野外コンサートをおこなった。彼はコペンハーゲンのホテルに滞在しており、コンサートの翌日、私はバックステージで彼と一緒に45分間を過ごすことができたので、彼の音楽についてあらゆる質問をした。フランクは、自分の音楽についての私の知識の多さが印象深かった様子で、話の終わりに、様々な時代の音源で一杯のブリーフケースから3本のカセットテープを取り出して私にくれた。「たぶん気に入るだろうよ」という言葉つきで。

 一本目のテープは、今ではオリジナルの「レザー」(訳注:ワーナーブラザーズに発売を拒否されたLP4枚組アルバム。ザッパ没後の1996年に公式リリースされた)として知られているものだった。
 二本目のテープは、フランクが「Impossible Concerts」と呼んでいたもので、「YCDTOSA」シリーズ(訳注:「You Can't Do That On Stage Anymore」のこと。ザッパ本人が生前に編集しリリースした全6巻CD12枚に及ぶライヴ音源編集盤)の先祖みたいな感じだった。(きっとそのうち聴けるようになると思う。)

 三本目のテープは「William and Mary」というタイトルで、1975年11月にウィリアム&メリー大学でおこなわれたコンサートの抜粋が収録されていた。

 数年後、私は、1981年8月12日のリハーサルテープを手に入れたが、「Montana」の途中でフランクはこんなことを言っていた。「みんな見張られてるんだ、オールのような奴がいるからな。あいつは計算機を持って観客の中に座って、レコードと同じように演奏するかどうか見てるのさ」

 '82年のヨーロッパツアーは、デンマークのオールフスから始まった。リハーサルを見るために、私は学校を二日サボらなければなかった。(私は当時も今も教師として働いている。)リハーサルでフランクが「The Blue Light」の歌詞に私の名前を入れ込んで歌っていたのを覚えている。

 そしてそれは起こった。1983年に、ある人がTV番組の音源を送ってくれた。フランクはその中で様々な質問に答えていた。みんなよく知っていると思うけれど、フランクは不機嫌な気分の時、それを隠そうとしなかった。そしてこの時はファンとの関わりについて質問を受けていた。「個人として知っているファンはそれほど多くないが、だいたいにおいて、一緒にいて楽しい奴らじゃない」とフランクは答え、デンマークの学校教師であるオールの名を出して、「変わった奴だよ。奴が考えているのは、いかに仕事をサボって、俺が泊まっているホテルのロビーに忍び込むかということだけなんだ。テープレコーダーを脇に置いて、俺の周りにただよっている香りを吸い込んだり、俺が踏んだカーペットについて研究したりしているんだ。」そして彼は続けてこう言った。こういう行動について嬉しく感じる奴もいるかもしれないが、俺は違う。そのことがもうこれ以上デンマークに行きたくない理由のひとつだ、と。

 1984年にフランクはデンマークに来なかった。それで私はコンサートを見るためにノルウェーとスウェーデンまで行かねばならなかった。オスロで私とフランクはお互いにあいさつをし、しばらく話をしたが、会話の最後に、アメリカから入手したばかりのものについてフランクに話すと、彼はこう言った。「まだみんなをスパイしてるのかい?」

 会話を終えてほんの5分くらいしかたっていなかったが、今を逃したら機会はないと私は決心した。そしてフランクにもう一度近づき、「あなたが私について言っていることは、全然フェアじゃない」と告げた。なぜなら、私はただ音楽のことだけを考えている男であり、真面目な人間であることを彼がわかっているはずだと思ったからだ。

 するとフランクはがらりとそれまでの態度を変えた。そして「ほんとうはとても嬉しく感じているんだけど、どう対応していいかわからないんだ。君が言うべきことをわかった上で言う人間だということは知っている。だからもう二度と君に対してひどいことは言わないよ」と言って話を終えた。そのあと彼は私に自分の電話番号を教えてくれ、それ以後8年半の間、私とフランクは、2、3か月に一度は電話で話をする仲になった。

 '88年にフランクがデンマークでは最後となったコンサートをファルコナー・シアターでおこなったとき、私は最前列に座っていた。そしてコンサートのオープニングにフランクは、今夜のショウを私に捧げると言い、私を立たせて「今夜のプログラムを特別に楽しんでくれよ」と言った。(奇妙な充足感を持って、私はこの夜の演奏を楽しんだ。)

 素晴らしい音楽と素晴らしい会話を楽しんだ日々は過ぎ去り、1993年12月に終わってしまった。私の人生の中で最も悲しい日のひとつだ。フランクがこの世を去ったのだ。

 2004年に「QuAUDIOPHILIAc」(訳注:DVD-Audio形式でリリースされた音源集)を聞いたとき、そこに収録された「Lumpy Gravy」が「Impossible Concerts」の一部だということに気づいた。
 そのことをゲイルに伝えたところ(フランクが亡くなって以来、ゲイルとは幾度となく話をしてきた)、確認のために彼女にテープを送ることになった。そのテープと一緒に「William and Mary」も送ることにした。ゲイルはそちらのテープも聴き、とても気に入ったため、公式リリースされることになったのだ。

 こういう経緯で、あなたは今、この興味深く刺激的で、楽しくも素晴らしいコンサートの抜粋を聴くことになったわけだ。ここには多くの驚くべき演奏が含まれている。たとえば「Honey, Don't You Want A Man Like Me?」のパワフルなヴァージョンや、「Chunga's Revenge」におけるフランクの卓越したリズムギター・ソロ、「The Illinois Enema Bandit」のフランクによる見事なイントロなどなど。

 おしゃべりはここまでにしよう。CDをプレーヤにセットして、十分に楽しんでほしい。

 Ole M. Lysgaard

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※11/7追記
 拙訳の間違いについて、muさんからコメント欄でご指摘をいただきましたので、訳文を修正しました。まだまだ勉強が足りません(汗)
 muさん、ありがとうございました。


今日はギターソロ集いきますか。再びニコニコ動画から。