今回は、音楽批評シリーズの記事です。
前回から、イーグルス以外の曲も扱うと宣言しましたが、今回は、ジョン・レノンの「イマジン」を取り上げます。
あまりにも有名な歌ですね。
これだけ有名な歌をあえてとりあげるのもちょっと気が引けることなんですが……でもこれは、最近のいくつかの記事とつながりがあってのことなんです。
まず、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』制作裏話というシリーズで、この曲のタイトルが出てきました。
そしてまた、この歌について語ると、これまで何度か書いてきた現代アメリカ社会の話ともリンクしてくるのです。
こういえば、ぴんとくる方もいらっしゃるかもしれません。
そう、2001年の、同時多発テロのときのエピソードです。
あのとき、アメリカは一気に報復攻撃に突き進んでいきましたが、その過程で「イマジン」は放送自粛ということになりました。
これから報復攻撃をしようというときに、あんな歌はけしからんというわけです。
この話は、同時多発テロ直後のアメリカがヒステリックな状態になっていたことを象徴するものとして、よく知られています。
戦争というのは、やっぱり社会をそういうある種異常な状況にしてしまうんですね。
このときは、ほかにも Massive Attack というグループが名前を Massive に変えるなんてこともありました。Attack という単語がよくないというんです。
そんな無茶な……という事態ですが、ミュージシャンの側も、ただ黙ってそれに従っていたわけではありません。
たとえば、ニール・ヤングは、放送自粛を無視してテレビでイマジンを歌ったんだそうです。
かっこいいですね。最高です。
結果からみれば、アメリカは、アフガニスタンに報復攻撃をくわえた結果、泥沼の紛争に足を踏み入れ、16年たった今もそこから脱け出せずにいます。
イマジンなんて歌はけしからん、といって行動した結果がいまのアフガンです。
「君は僕のことを夢想家というかもしれない」とジョン・レノンは歌っていますが、その夢想家のいうことを聞いてたほうがよかったんじゃないか、という話になってきます。
よく現実主義とか理想主義とかいいますが、現実主義者を自任する人たちのいうことが本当に現実主義的なのか、理想主義者と呼ばれる人たちのいっていることが本当に夢想にすぎないのか……そんなことを考えさせられるのです。
さて……
肝心の歌そのものについてあれこれ書きたいところですが、しかし、これがなかなか難しい。
じつはこの「イマジン」という歌、音楽的には特筆するようなことが何もないんですよね。
コード進行はきわめてオーソドックスで、変わったリズムが使われているとか特殊な楽器が使われているとかいうこともありません。非常にシンプルです。
まあ、名曲というのはそういうものなんでしょう。
詞に関しても、あまりに有名な歌なので、だいたいのところはみんな知っていると思います。
やっぱり、名曲というのはそういうものです。
つまらない小細工なんかせず、ストレートかつシンプル。それで伝わる歌が、“名曲”と呼ばれるんだと思います。
ジャンルは違えど、そういうふうにありたいものです。