むらぎものロココ

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C.P.E.バッハ

2005-12-05 20:57:33 | 音楽史
cpebachCPE BACH SYMPHONIES


Gustav Leonhardt
Orchestra of the Age of Enlightenment

バロックと古典派の間の一時期を一般的に「前古典派」と呼ぶ。この時期を1740年から1770年にかけてとすることもあるが、もとより明確に区分できるものではなく、J.S.バッハの息子たちの世代と考えるのがわかりやすい。パウル・ベッカーは、J.S.バッハが死去した1750年が大きな区切りであるとし、J.S.バッハ(祖父)とモーツァルト(孫)の間の父親の世代を前古典派ととらえている。この時代は先代の残したものを守り、次の世代のために準備をするという、教育者の時代であったという。しかし、この時代を単なる過渡期として軽視してはならないのであって、19世紀に至るクラシック音楽の土台は、この時期に築かれたといっても過言ではない。この時代からバロックの典型的な対位法や通奏低音が排されるようになり、歌うような主旋律が中心となったよりシンプルで感覚的な音楽になっていった。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)は、J.S.バッハの最初の妻であったマリア・バルバラとの間の子としてヴァイマールに生まれた。兄にヴィルヘルム・フリーデマンがいて、彼はバッハの兄弟中、最も才能があると言われながらも大成せずに終わった。カール・フィリップの名付け親はテレマン。

カール・フィリップは父から音楽を学び、15歳の頃から教会などで父親と一緒に演奏会に参加するようになった。ライプツィヒの大学やフランクフルトの大学で法律を学び、コレギウム・ムジクムなどで音楽活動もし、父親の作品を上演したり、大学の祝典や結婚式の音楽を演奏したりもしていた。また、この頃、オルガンやハープシコードを教えたりもしていたという。

1738年に法律の学位を取得した後、同年からフリードリヒ大王に仕えるようになった。大王は音楽愛好家として芸術を庇護し、宮廷での音楽活動も活発におこなわれていたが、1756年に七年戦争が勃発すると、大王は軍事力の増強に力を注ぐようになり、音楽から離れてしまった。この頃からカール・フィリップと大王との関係はうまくいかなくなっていった。

かねてから転職先を探していたカール・フィリップに転機が訪れたのは1768年、名付け親であるテレマンが死去し、その後継者としてハンブルクの音楽監督となったのである。この職はドイツで活動する音楽家にとっては羨望の的ともいえる要職であったが、5つの教会のための音楽や都市で行われる様々なイベントのための音楽を手がける激務であり、カール・フィリップはテレマンほど超人的な活動をすることはできず、しばしば他の者の音楽を用いたので、そのことで最初は非難されたこともあったようだが、しかし、次第に名声をかちえ、生前は父のJ.S.バッハよりも高い名声を得た。鍵盤奏者としてもヨーロッパ中にその名を知られていた。

カール・フィリップの音楽は「多感様式」と呼ばれる。これはテンポや雰囲気がめまぐるしく、そして激しく変化し、フランス的なロココ様式の繊細さとは違う、ダイナミックな情感を表現するもので、文学でいうシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)に対応するものとされる。彼の音楽はとりわけハイドンに多大な影響を与えていて、サンマルティーニからの影響は否定したハイドンではあったが、カール・フィリップから影響を受けたことは認め、賛辞を惜しまなかった。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
「第十一章 バッハ・ヘンデルの後継」
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
「第四章 ウィーン古典派と啓蒙のユートピア」