むらぎものロココ

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ディッタースドルフ

2005-12-15 01:33:30 | 音楽史
ditterDITTERS VON DITTERSDORF
SINFONIAS AFTER OVID'S METAMORPHOSES

Bohumil Gregor
Prague Chamber Orchestra

カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739-1799)は、オーストリア宮廷歌劇場付きの仕立て屋の息子としてウィーンに生まれた。1761年にウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者となり、1763年にはグルックとともにイタリアへ行き、そこで新しい音楽を吸収するとともに、ヴァイオリンの名手としての名声を得た。1765年にはミヒャエル・ハイドンの後任としてハンガリーのグロスヴァルダインの楽団の楽長となり、1770年から1795年までシャーフゴッチ家に使え、ブレスラウの宮廷楽長として活動した。1772年にはマリア・テレジアから貴族の称号を与えられ、ディッタースドルフを名乗るようになった。1780年頃からはウィーンを中心に活躍し、1786年にはオペラ「医者と薬屋」で大成功を収めた。ディッタースドルフは劇場のマネジメントもしており、高い収入を得ていたが、その額はグルックやモーツァルトの比ではなかったという。興味深いエピソードとして、ディッタースドルフは親交のあったハイドン、モーツァルト、そしてヴァンハルと一緒に弦楽四重奏を演奏したというのがある。

当時の音楽家として頂点を極めたディッタースドルフではあったが、1795年のシャーフゴッチ伯爵の死後、最大のパトロンを失った彼はどうにか食いつないでいける程度の年金で暮らすことを余儀なくされ、幸せな晩年を過ごすことはできなかった。音楽家としても忘れられ、楽譜の出版もされなくなってしまった。こうした状況の中で彼は自作の整理と死の2日前まで自伝の執筆を続けた。

ディッタースドルフには20曲あまりのオペラと100曲を超えるシンフォニアをはじめ、室内楽など様々なジャンルで数多くの作品があるが、長い間演奏されることもなく眠ったままとなっていた。オヴィディウスの「変身物語」を題材としたシンフォニアも本来は12曲であったものの半分が散逸してしまった。この、オヴィディウスの「変身物語」で語られる情景や雰囲気、気分などを音楽的に表現しようと試みたシンフォニア集は、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」のような標題交響曲の先駆的な作品として知られている。