むらぎものロココ

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グルック

2005-12-08 22:18:51 | 音楽史
gluckGluck
Don Juan Semiramis
Ballet Pantomimes
Bruno Weil
Tafelmusik

クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)は、ボヘミアの貴族であるロブコヴィッツ家に仕える林務官の息子として生まれた。14歳のときに家を出てプラハに行き、オルガン奏者として活動をし、プラハ大学で勉学に励んだ。1736年にはミラノに行き、宮廷のヴァイオリン奏者として活動した。この頃、サンマルティーニのもとで対位法や作曲を学んだ。
グルックの最初のオペラ「アルタセルセ」は1741年に完成し、上演された。それをきっかけとしてグルックはヴェニスやトリノなど各地に招かれるようになった。1745年にはロンドンやドレスデン、ハンブルクなど、ヨーロッパ各地を訪れた。結婚をした1750年頃からグルックはウィーンを活動の拠点とするようになり、王室や貴族からも厚遇された。

ドゥラッツォのもとで宮廷歌劇場の仕事をするようになり、数々のコミック・オペラを手がけるようになっていたグルックは、1761年から台本作家のカルツァビージや振付師のアンジオリーニとコラボレーションし、「ドン・ファン」や「オルフェオとエウリディーチェ」を生み出した。これらの作品はブルク劇場で上演された。
1773年には音楽教師として仕えていたマリー・アントワネットに従い、パリで活動するようになった。翌年「アウリスのイフィゲニー」が上演されたが、これをきっかけにイタリア・オペラ派とフランス・オペラ派とのあいだで論争が繰り広げられた。グルックは初期の作品をパリの観客のために改訂し、次々と上演していき成功を収めたものの、健康がすぐれずウィーンに戻り、その数年後に死んだ。

グルックはオペラの改革者として知られている。
オペラはもともと古代ギリシャ悲劇を再現しようとして生まれたものであり、モンテヴェルディの第二作法がそうであったように、音楽は言葉に従属するものとされた。しかし時代がくだってナポリ派になると台本は軽視され、オペラはカストラートやプリマドンナがその技巧を見せつけるためのものになり、、作曲家は歌手の下僕になっていた。これには歌、旋律を中心とする音楽観が主流をなしてきたという背景があった。その一方でバレエや芝居が中心で音楽はそれらを助けるために用いられるフランスのオペラがあった。このため、イタリア・オペラとフランス・オペラのどちらが優位にあるかが何度となく論争の対象となっていた。
グルックの時代になると、和声的な形式が充実し、転調や色彩感によって、ダイナミックに感情を表現できるようになり、従来のように歌手の技巧に依存しなくてもよくなった。グルックのオペラ改革とは「歌劇から名歌手の至上権を剥奪して和声的な発展を蔵する形式を創造し、そこから生まれる感情の進展を歌劇の根底」とするものであった。グルックは1769年に出版された「アルチェステ」の序文において、リトルネッロや歌手の装飾的なアリアを音楽の流れを損なうほどに乱用することを避け、物語の状況表現を通じて、音楽を、詩に役立つという本来の役割に制限するよう記し、清澄で簡潔で、造形的な音楽の創造を目指した。そこでは旋律も全体の音楽組織の一部分であり、グルックは音楽全体の構造のバランスを重視したのであった。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫) 第十三章 グルック