BOCCHERINI
QUINTETTES AVEC CONTREBASSE
Chiara Banchini
ENSEMBLE415
ルドルフォ・ルイジ・ボッケリーニ(1743-1805)はイタリアのルッカに生まれた。父親はチェロ・コントラバス奏者であった。
この父親とルッカの大聖堂の楽長であったフランチェスコ・ヴァスッチからチェロの手ほどきを受け、幼少時から音楽の才能を示したボッケリーニは13歳でデビューした。1757年からはローマに行き、ジョヴァンニ・バティスタ・コスタンツィのもとでさらに音楽を学んだ。ルッカに戻ってからは地元の楽団で活動し、その後、ウィーンの宮廷楽団で活動するようになった。1764年にいったんルッカに戻るが、この頃にミラノのサンマルティーニの下で演奏活動もおこなった。1766年の父の死後、ヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレディと組んでヨーロッパ中を演奏旅行してまわり、1768年にパリで大成功をおさめ、このことがきっかけでパリのスペイン大使からマドリッドに来るように依頼された。1769年からスペインのドン・ルイスの宮廷に作曲家・チェロ奏者として雇われ、ドン・ルイスが死去する1785年までマドリッドに滞在した。その翌年からフリードリヒ・ヴィルヘルム2世のベルリンの宮廷に雇われ、多くの室内楽作品を生み出した。このフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の死後はマドリッドに戻り、年金で生活するようになったが、貧窮のうちに過ごし、妻子の死、また自らも病気がちで公の場に出ることもままならなくなり、忘れられた存在となって死去した。
ボッケリーニは生前、チェロ奏者として有名で、歴史上最高のチェロ奏者とされている。彼の室内楽作品はチェロ・パートが目立っていて、高い演奏技術が求められ、メロディを受け持つだけでなく、時にはヴァイオリンよりも高い音を出すこともある。
ボッケリーニの室内楽は弦楽三重奏が66曲、弦楽四重奏が100曲、弦楽五重奏は141曲、シンフォニアは30曲ほどある。しかし、生前から彼の楽譜は改竄され、原典版に近いものを探すのは現在でも困難だという。また、スペイン市民戦争のときにも多くの楽譜が焼失してしまったという。
ボッケリーニの音楽についてアンナー・ビルスマは次のように語っている。
「ボッケリーニの音楽はね、素晴らしく大きな時計屋に入ったようなものだ。大きな柱時計の振り子はゆったりと、壁の時計がコチコチコチ、小さな時計がチクタクチクタク……と何百何千もの針や振り子が動いて音を立てている。けれど、店の中は"静か”で、誰も動いてはいない……」
ボッケリーニの音楽は同時代のハイドンのように主題を展開させなかったことを批判されたり、音楽的構造の弱さを「ハイドン夫人」と揶揄されることもあったが(「ハイドン夫人」のあだ名については、ボッケリーニがハイドンの音楽を愛し、しばしば演奏していたことからつけられたという説もあり、悪妻で名高いハイドンの実際の妻がボッケリーニに嫉妬し、彼に平手打ちをくわせるためにわざわざマドリッドまで行ったというエピソードもある)、現在ではその繊細で明るく、精妙な響きを持つ音楽は高く評価され、ボッケリーニは18世紀の重要な作曲家とされている。
→鈴木秀美「ガット・カフェ」(東京書籍)
「ボッケリーニの音楽 The Great Clock Shop」
QUINTETTES AVEC CONTREBASSE
Chiara Banchini
ENSEMBLE415
ルドルフォ・ルイジ・ボッケリーニ(1743-1805)はイタリアのルッカに生まれた。父親はチェロ・コントラバス奏者であった。
この父親とルッカの大聖堂の楽長であったフランチェスコ・ヴァスッチからチェロの手ほどきを受け、幼少時から音楽の才能を示したボッケリーニは13歳でデビューした。1757年からはローマに行き、ジョヴァンニ・バティスタ・コスタンツィのもとでさらに音楽を学んだ。ルッカに戻ってからは地元の楽団で活動し、その後、ウィーンの宮廷楽団で活動するようになった。1764年にいったんルッカに戻るが、この頃にミラノのサンマルティーニの下で演奏活動もおこなった。1766年の父の死後、ヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレディと組んでヨーロッパ中を演奏旅行してまわり、1768年にパリで大成功をおさめ、このことがきっかけでパリのスペイン大使からマドリッドに来るように依頼された。1769年からスペインのドン・ルイスの宮廷に作曲家・チェロ奏者として雇われ、ドン・ルイスが死去する1785年までマドリッドに滞在した。その翌年からフリードリヒ・ヴィルヘルム2世のベルリンの宮廷に雇われ、多くの室内楽作品を生み出した。このフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の死後はマドリッドに戻り、年金で生活するようになったが、貧窮のうちに過ごし、妻子の死、また自らも病気がちで公の場に出ることもままならなくなり、忘れられた存在となって死去した。
ボッケリーニは生前、チェロ奏者として有名で、歴史上最高のチェロ奏者とされている。彼の室内楽作品はチェロ・パートが目立っていて、高い演奏技術が求められ、メロディを受け持つだけでなく、時にはヴァイオリンよりも高い音を出すこともある。
ボッケリーニの室内楽は弦楽三重奏が66曲、弦楽四重奏が100曲、弦楽五重奏は141曲、シンフォニアは30曲ほどある。しかし、生前から彼の楽譜は改竄され、原典版に近いものを探すのは現在でも困難だという。また、スペイン市民戦争のときにも多くの楽譜が焼失してしまったという。
ボッケリーニの音楽についてアンナー・ビルスマは次のように語っている。
「ボッケリーニの音楽はね、素晴らしく大きな時計屋に入ったようなものだ。大きな柱時計の振り子はゆったりと、壁の時計がコチコチコチ、小さな時計がチクタクチクタク……と何百何千もの針や振り子が動いて音を立てている。けれど、店の中は"静か”で、誰も動いてはいない……」
ボッケリーニの音楽は同時代のハイドンのように主題を展開させなかったことを批判されたり、音楽的構造の弱さを「ハイドン夫人」と揶揄されることもあったが(「ハイドン夫人」のあだ名については、ボッケリーニがハイドンの音楽を愛し、しばしば演奏していたことからつけられたという説もあり、悪妻で名高いハイドンの実際の妻がボッケリーニに嫉妬し、彼に平手打ちをくわせるためにわざわざマドリッドまで行ったというエピソードもある)、現在ではその繊細で明るく、精妙な響きを持つ音楽は高く評価され、ボッケリーニは18世紀の重要な作曲家とされている。
→鈴木秀美「ガット・カフェ」(東京書籍)
「ボッケリーニの音楽 The Great Clock Shop」