楽しく愉快な人生を

ー いつも模索しながら ー

明日から師走、ラーメンが恋しい?

2013年11月30日 | 日記

もう11月も終わりです。今日は30日(土)。好天で青空が広がっています。気温はかなり低いですが、昼過ぎには幾らか気温も上がりました。

「九州ラーメン」屋の前を通りました。豊中市千里南町の街角です。私は入りませんが、数日前からの寒波の影響でしょうか、12時数10分前には、待っているお客が列を作っていました。大勢の人が詰めかける程人気があるのか、身体を温める気候が影響しているのか分かりません。私は、ここしばらくラーメン屋へ行ったことがありません。九州ラーメン〈あるいは博多ラーメン)のイメージがドンブリに脂が浮いている豚骨であり、濃厚な味にあります。若い頃にはそういう物には目がなかったのですが、病後、脂っこいもの、コレステロールの多い様なものは極力避けるようになっています。最近はさらに、食べるもので熱いもの、冷たいものを食べることも幾らか抵抗があります。温度の高低に敏感になってくるのです。それもその筈、今日は歯医者(奥歯の一部が痛痒で診て貰って)からの帰途でした。内科で内臓的に見ていただく時、眼科へ行ったり、歯科へいったり、70歳代後半に入ると回数多く医者通いで忙しいですね。ラーメンを食べたくなる、魅力を感じるのはまだお若いと言うことですよ。でも今日は少し暖かいです。


寒中にお買い物強行軍で

2013年11月29日 | 日記



29日(金)は、寒い感じで(大阪でも早朝に初雪があったようです)マフラーして、厚手の短コートを着てしまいました。

幾つかの買い物の用事で私単独で昼ごろから梅田へ買い物に出かけました。デパートではまだ年末割引はありませんが、11月の”客減少対応現象”の為、一部の商店街やスーパーなどでは30%から50%位値引きして客の確保に努める所もあります。文具類や写真用具、それに年越し用の雑品を買うつもりで出かけました。阪急デパート ⇒ お初天神 ⇒ 天神橋商店街 を廻ってきました。今日は特に寒いのでちょっと止まると寒さが身に沁みました。阪急デパートの横の通りには、神戸のルミナリエ(大震災から始まった12月の光の祭典)に似せた飾りが作られていました。消費電力も馬鹿にならないでしょう。お初天神にはなんと「恋人の聖地」という幡まで立っていました。幾ら美化してもこの昔話は「心中で終わる」秘話?悲話です。ちょっと呆れました。天神橋商店街は結構人数は多いのですが、その中を禁止のはずの自転車が相当のスピードで走ってくる例がずいぶん多かったです。ここのマナーが大阪を代表すると、思いたくないです。なぜここを通らず他の道へ行けないのか。11月の終わりの買い物は意外にお買い得品がありました。

           お初天神で  天神橋筋5丁目で


11月も終盤、晩秋の色あちこちで

2013年11月28日 | 日記

28日(木)も好天でした。でも北東の風がきつく、このシーズン最も寒い気候になりました。TV報道では、広島や松山など西日本で相当早い初雪が観測されたようです。大阪は幸い雪には遭いませんでしたが、もう外出には真冬の恰好でした。

晩秋に相応しく、外出した時には、私の家の近くでも思いがけない「晩秋の鮮やかな色」が楽しめます。わざわざ先日琵琶湖の紅葉を見に行ったのですが、家の近くの”八坂神社の御山”には緑の森があります。1本だけですが鮮やかな紅葉の樹がありました。古い神社と森の緑にうまくコントラストした紅葉でいいなという感じでした。ここはよく通る所ですが、こういう鮮やかさはこの1週間で終わりでしょう。貴重に思います。また、あるマンション群の中にある畑の隅っこに柿が残っていました。柿の色は半分は柿の食べごろの色が残っていましたが、半分は熟し過ぎになった感じで、黒ずんできていました。もう食用には採れません。10本ほどの柿の木の4,5本は柿が取り残されていました。高齢の方が持ち主で高い所や危険な場所で採れない所を残したのか、採っても売れないので自家用で余ってしまうのか、それとも餌の少くなる時、鳥の餌にして上げようとしているのか。甘柿?渋柿?これも晩秋の色です。何故か晩秋の色は少々寂しいですね。

                                   


豊中市「環境交流センター」は誰の物?

2013年11月27日 | 日記

27日(水)は、曇天で寒い日でした。時どき強烈な北風が吹き、歩く人も背中を丸める人が多かったです。雨は降りませんでした。

阪急曾根駅と岡町駅の間にある、電車ガード下にいつの間にか「豊中市環境交流センター」が出来ていました。ちょっと見ぬ間に変わったようです。以前は、確か「リサイクルセンター」といっていたはずです。リサイクルが環境交流になぜ変化したのでしょう。前のリサイクルの時から、ゴミの分別を盛んに市民に呼びかけ、資源の回収も大切だと啓蒙をしていました。でもあまり人が頻繫に入っていく感じはありませんでした。それでもその言わんとする言葉の意味や意向は市民にまだ分りやすいものでした。この環境交流センターになると、環境とは大きく出たものだ、と感じます。かえって何が一番やりたいことかが分かり難いです、このセンターの貼り出し紙によると「焼却場で燃やすゴミをいかに減量するか」になります。燃料消費的にも、排出ガス的にも確かに環境の問題でしょう。でもよく見ると、部屋には誰の姿も見えず、職員の姿も見えません。前のリサイクルセンター当時より誰も近づかなくなって暇そうに見えました。一般市民の立場から言わせていただくと「名前が変わっても、むしろ分かり難くなって、市民の為の空間ではない感じ」と思いました。悪く言うと、市役所職員の自己満足的な”組織いじり”、”組織名遊び”だけで、真の市民の理解は得られていないという印象でした。名前の様に”交流”には全くなっていないように見えました。まあ、恰好付けた名前だけで「箱もの行政の結果か、天下りの為の椅子置き」の場所でしょうか。いい加減にしいや(大阪弁)。

                             


サラリーマン踏み出しの頃の「焼き鳥屋」が

2013年11月26日 | 日記

26日(火)は好いお天気になりました。冷たい北風が吹いていて、皆さんコートの襟を立てて歩いていました。大阪の夕方はぐっと冷えて冬型の寒さでした。

ボランティアの用件で久しぶりに大阪難波の新歌舞伎座裏通りを通りました。いっぱい吞み屋がある所です。ちょうど高島屋前で、南筋の角の信号を渡ろうとすると、かなり前からある焼き鳥屋「正起屋」(まさきや)が見えました。私のサラリーマン初任給は(昭和35年、1960年当時)月給13800円でした。そんな歌もありました。それも月二回に分けて払ってくれていました。初めて現金をもらった時嬉しくて、これを新入社員同志で何か乾杯して食べようとなりました。数人いたと思います。その時、当時難波の交差点前で最も目立ったこの店は別の「ホルモン焼き」の店でした。隣に大きくない正起屋がありました。そのホルモン焼きを食べて帰った思い出があります。その後、数か月して同じ場所は全部「正起屋」になっていました。併合したのでしょう。焼き鳥専門店です。若い私等にとって吞むことが本意です。肉はどんなのでもいいよとなってここ焼き鳥屋を暫くたまり場にした覚えがあります。いいお年のご主人が、焼いてくれる焼き鳥をいつも吞みながら頬張りました。しょうきや、というとこの親父は真剣になり「まさきや」と呼んでよ、と我々に叫んでいました。気さくな親父でした。もう50年も経ち今はすっかり世代も変わり、私達もばらばらになりました。お店の方もデパートはじめ関西や名古屋などにかなりの支店店舗があると聞きます。私達が昭和時代、焼き鳥で吞んだ若い頃は、この一帯にはホルモン焼き屋の方が多かったのが夢のようです。この焼き鳥屋も弁当や昼ごはん等を扱うようになっていて、昔の「焼き鳥」 = 一杯やる ではなくなっているので、その適切な時代感覚が適合したのでしょうか。どんどん大手になったようです。ここには懐かしい一号建物(改造したもの)が残っていました。


琵琶湖ぐるっと一周の紅葉めぐりを

2013年11月25日 | 日記

25日(月)は連日の好天と引き換えに、朝方曇天、昼から関西地方はかなりの雨になりました。夕方、大阪は晴れてきました。

一か月ほど前に、見どころの多い「琵琶湖周辺の紅葉」を観に行こうとなりました。いろいろ調べるとある旅行社の「琵琶湖ぐるーっと一周紅葉めぐり」、というバスツアーを見つけました。料金もかなり割安なので予約しておきました。それが今日になってこのお天気です。琵琶湖を右回り(大津から彦根、湖北、マキノ、高島と反時計回り)に出かけました。結果的にそれが良かったみたいで、高い所へ上る紅葉名所は雨の降らない午前中に済ませることができたのです。この観光会社の呼びかけで、バスツアーは参加者が多く、他のバスで中には時計回りに琵琶湖を回った組もあったようで、その組の人達は傘を片手に高い名所に行ったのでしょう。お気の毒な事でした。

このツアーで行った観光名所で改善が必要と感じたこと、2件。

その1、彦根城(上の写真)。来客から相当な金額の入場料を取りながら、急な階段がある場所ではどこにでもある上り下り用の鉄柵がありません。私も足が少々悪いですが、上っている途中に杖を突きながら怖々降りてくるお婆さんに会いました。事務所に訊くと「指定史跡だから鉄柵は作れません」と素っ気もありません。私は「障害者は来るな、ということ?」「なぜ入る前に上り下り用の鉄柵はありません、と書けないのでしょう」と聞くと女子事務員は下向いて「すみません」。「ひこにゃん」とかの人形で、大袈裟にわざわざ客入りを多くしたいのなら、もっと弱者に工夫をしてもらいたいです。天下の名城はいまは〇〇家の物や役人の物でなく、庶民のものです。

その2 紅葉の名所琵琶湖東北の「飯福寺(またの名は鶏足寺)にも寄りました。観光組合受付みたいなところで、「飯福寺の説明はいろいろしてありますが、なぜ鶏足寺(けいそくじ)の名がつき、又、その理由は何でしょうか」と尋ねると、そこにいた親父さんは”ぷい”と横を向いて知らぬ顔しました。そりゃないでしょう。少なくともこの観光名所で案内所をやるとすれば、そういう質問は当然想定してほしいものだと感じました。こういう対応では紅葉の名所の名が泣きますよね。

         鶏足寺の紅葉   マキノのメタセコイヤ並木道                            





近くの図書館で小ぶりな寄席を

2013年11月24日 | 日記

24日(日)は、好天の上、風もほとんど吹かず暖かい感じでした。久しぶりの洗濯日和で、日曜日はお母さん方は大変でした。

先日、近所にある市立図書館の創立20周年記念だと言うことで、二流落語家による寄席が今日24日に開催されると言うのでチケットをもらってきました。無料であり、徒歩15分ほどの市立東豊中図書館の集会室で開催されるとなっていました。時間に出かけてみると、70人用の椅子が満席でした。ほとんどが高齢者でした。北摂地域で活躍しているあまり名前は知られていない噺の会「じゅげむ」の落語家が4人、新作もの、明治もの、古典もの等をやって聞かせてくれました。大きな部屋ではありませんが、4人ともやや声量に問題があり、前にマクロフォンは一応置いてありましたが、それでもやや聞こえにくい所があり今後の課題です。大きな広い場所での寄席に慣れている人にとっては、余裕で声量がある落語を楽しみたいはず。ちなみに今日の落語家は三流亭 志まね 、寿亭 司之助、文々亭 小輔、潮吹亭 くじら、達でした。まあ、落語のまくらと落ちは面白く聞けました。上の写真は文々亭 小輔の落語姿。下の写真は開演前の”二の切寄席”待ち時間に。二の切とはこの近くにある「古い地名」を使ったのでしょう。洒落になるでしょうか。

                                


地下鉄「東梅田」駅の乗り換えで慌てて

2013年11月23日 | 日記

23日(土)は秋の終盤を示すような冷え込んだ一日でした。空は青く澄んだ感じでしたが、コートに身を包んだ人がほとんどになりました。

ボランティア仲間の中で、守口市(大阪府)から来るYさん(女性、35歳位)が久しぶりに顔を見せました。かなり私とは歳や経歴、趣味も違うので、隣り合わせに座ってもプライベートな事は聞いた事がありませんでした。今日お久しぶりに顔を見て、「おげんきですか?」と尋ねると、「帰りに一緒に帰りましょうね」となり、帰りに15分徒歩 と 20分ばかり谷町線地下鉄電車を同道しました。途中で話す彼女の話では、いま働いて定期的な入金してもらう道はないし、ご両親やご主人もいないみたいで、お気の毒な感じでした。ただ、世界中に知り合い、友人がいるらしく、イングランドへは、一昨年友人を尋ねて行ってきたみたいです。お金をどうやって工面してイングランド東部への旅行が出来たのか、疑問です。今度はドイツ南部にいる友人に会いに行きたいけど、「お金をどう準備するかが問題」と言っていました。お金の工面が付く仕事があるのでしょうか。彼女は、そういう「定期入金のない仕事」に付くことが続いているのでしょう。フリーターのようです。家族やご本人の健康上の理由でボランティアへのお休みが続いていた様子でもなくちょっと安心です。私は具体的な対応策もないので、「海外へ出たいなら色々やってお金を少しづつでも貯めるしかないでしょうね」と言って置きました。彼女の話に熱心に聞き入っていて、「東梅田」駅で私は乗り替えるべきをうっかり忘れる所でした。地下鉄電車発車間際に気づいて慌てて下りました。彼女はもう少し先まで乗るので、下りる必要はありません。今日、連休中日の「東梅田駅」には、午後4時過ぎ、普段より多くのお客で溢れていました(写真)。妙齢のご婦人と真剣な話をしたのは久しぶりでした。高齢でも”男性”はこういうのにちょっと弱い!注意だな。


今日も寒空で「猿回し」が延々と

2013年11月22日 | 日記

22日(金)は好天でした。でも昨日に比べるとやや小寒い感じで、特に夕方には北風が吹き「ううー寒い」という人もいました。

最近は千里中央の広場で週末になると、30才くらいの女の人が猿を連れてきていわゆる「猿回し」をしてみせます。古くは江戸時代からある「猿回し」は大道芸でした。猿まわし、猿回し(さるまわし)とは、猿使い口上や太鼓の音に合わせてが踊りや寸劇などを見せる大道芸の一種だと言われています。最近は特に動物愛護団体から猿の仕草、演技の訓練に必要以上の厳しさがあると言う問題提起もあるように聞いています。このカップルは、おねえさんの軽妙なスピーチに、猿がある時には、すんなり言うことを聞き、ある時にはいうことを聞かない演技が受けていました。日光猿軍団などが一時有名になりましたが、猿の集団を飼って、舞台にあげる訓練など、後継者の問題もあり閉鎖の方向だと聞きます。昔、大道芸の猿回しは、猿を連れていることもあり、まともな旅籠(はたご)には泊まれなかったそうです。従って、そういう人間並に扱われなかった歴史があって、猿回しにはいまでも何となく悲壮感があります。夕方、通りかかるとまだ客を相手に2時間以後も(少なくなった)客の前で演技をしていました。人集めの商店街と契約でもしているのでしょうが、広場は、夕方、寒風も吹き出していました。単純におねえさんと一匹の猿が少々可哀そうになりました。


災害避難場所の表示が十分でないのでは

2013年11月21日 | 日記

21日(木)は、寒さが少なくなり、好天で無風状態ですので、動きやすい日でした。夕方知人の葬式(お通夜)には着てゆく略礼服を合いにするか、夏物にするか迷ったくらいです。結局、帰りは暗くなることから合い服で。

ある中学校脇を通った時に、災害時避難所の印があるのに気付きました。役所が作った何年か前の表示でしょう。幾つかの外国語の標示もありましたが、全体的に古くなってきており、字の剥げた所も見受けます。マークの印で、逃げる印はいいのですが、すぐ理解はし難い表示です。特に見難くて細かい字で避難場所に関する市役所への問い合わせという所と電話番号などは、全く見えなくなってきています。毎日のように南海トラフとかなんとか、避難訓練をしたり、啓蒙に励む市町村役場の報道があります。この表示の更新や張替は一体どうなっているのでしょう。台風とか大水の災害時に、先に”注意報”や”避難連絡”を出さなかったと役所の緩慢な対応が問題になっている時です。豊中市も真の災害発生時、表示をこのように分りづらいまま放置しておくと言うのは、多少対応に”鈍感”なのではないですか。民間では、分かりやすく、いつでもお客に分かる表示にしないと、物が売れないし、お客が来てくれないので、もっと真剣です。市役所のような鈍感さでは客相手の生活はして行けないです。例えば、街はずれの「お米や」さんの看板(表示)は、下の写真の如く、誰が見ても分かりやすいものになっています。役所も責任回避だけの表示ではなくもっと民間意識を持ってほしいものです。