楽しく愉快な人生を

ー いつも模索しながら ー

大きな積乱雲が見えたが

2010年08月30日 | 日記
30日(月)も朝から灼熱の陽が照り付けて、メールマガジンなどでは世界的に涼しい秋を迎えている国や地方もあるようでうらやましい限りです。
昼下がり、サンパツ(普通理容店は月曜日は休みですが最近は組合をボイコットして、月曜にも営業しているところがあります)でおやじさん相手に異常気象の話ばかりでした。このおやじさんの記憶だと豊中地方では15日間一滴も雨が降っていないということでした。寝ている途中にちょっと降ったのでは、というと真剣になって「ぜったい降っていないのよ」と念を押してきました。そのあと散歩の途中にふと空を見上げると入道雲(いまは積乱雲)がモクモクと東の空にたなびいていました。今にもゲリラ豪雨でもくるかと身構えました。でも残念ながら10Km先の茨木か摂津の方がこの雲の下の方になり、豊中はついに雨なしでした。いつまで雨がないの。農家の人や、家の植木の多い人には深刻です。

急にピノキオのお土産で

2010年08月29日 | 日記
28日(日)は朝からうっとしい気持ちでした。お天気は8月最終日曜らしくかっと照りつける容赦のない暑さでした。TVと冷房に浸りきっているワイフから「豊中も光栄ねえ。今日は日本一の気温だそうよ」と報告がありました。どこを測ってそういっているのでしょうか。うちの室温でしょうかね。
TVでウオルト デズニーの物語をやっていました。その中で映画の「ピノキオ」が出てきました。そうだなあそういう映画だったね、と言いながらガラス棚を見ると思い出のピノキオ玩具が目に入りました。それぞれ何年か前、ローマのれっきとしたおもちゃ屋で買ったもの(左の大きいの)と なぜかシシリヤ・タオルミーナの露店で買ったマリオネット型のものです。それぞれ時期も場所も違いますが、大事に飾っています。私が渋るワイフの傍らで勝手に買った自分のお土産です。何か子どもの時からの影響があったのでしょうね。貧困の靴屋さんのおじいさんとのやり取りに何か感ずるものがあったのでしょう。そうか、もうイタリヤにしばらくご無沙汰ですね。

大阪・新歌舞伎座前を通って

2010年08月29日 | 日記
28日(土)もいいお天気が続いています。夏休みが終わった地方もあるようです。この暑さでも日程を変更しないのでしょうか。教室はどこでもクーラーはあるのでしょうか。うるさいPTAでそういう弾力的な対応の話はできないのでしょうか。教育委員会あずけではだめですね。子ども達が気の毒です。
谷町9丁目で地下鉄谷町線をおり、近鉄上本町の方向に地下道を歩きました。いつもに比べると人出がやや多いなと思いました。地上に上がってみてわかりました。新歌舞伎座という幡が立っていて、近鉄デパートだけでなく新しい商業ビルのオープンでした。私は横目に見ながら通り過ぎるだけでしたが、しばらくは人出が多いのでしょう。前のなんばにあった新歌舞伎座が名前と違って何でもありの「歌謡・演芸ホール」だったのと性格は違うのでしょうか。時代的に「○ 良太郎ショー」とか「○○ひばり歌謡コンサート」とかでは人は集まらないのでは、といくらか心配でした。といって場所柄(下町的な庶民派の多いところ)、伝統的な歌舞伎を中心にする地域でもないですしね~。

盛夏に猿すべりの花が

2010年08月27日 | 日記
27日(金)も好いお天気でした。そろそろ8月も終わりに近づいても気温のほうはあまり変化がありません。暑好きの人には、私の気持ち「涼しくしてよ」は通じないでしょうね。
今日は豊中市内で会合があり出かかけました。帰り道、大曽公園を歩いていると鮮やかなピンクの花が咲いていました。市の公園ですから、木の解説もありました。「さるすべり」でした。意外に可憐な花をいっぱい咲かせています。さるすべりは漢字では「百日紅」と書きます。7月暑くなると花が咲き出し、30日間ほど咲くのだそうです。この暑さの中、可憐な花をサンクスといいたくなります。


新しいマンションに反対

2010年08月27日 | 日記
26日(木)も猛暑日が続きました。高齢者は昼間はクーラーや扇風機のお世話になりじっと我慢のテレビ時間を過ごしているのでしょうね。
昼過ぎに散歩をしているとある商社系マンションの近くに新しいマンション建築が予定されるのに反対だという張り紙(メッセージを書いた布きれ)がしてありました。ここは瀟洒で印象のいいマンションですが、こういう張り紙は様が合いません。建築後30年ほどのこのマンションが汚れて見えます。近くに建設されるマンションもこういう張り紙を見ながら着々進めているようです。こういう業界は反対運動に慣れてしまっているような気がします。ニューヨークの元ワールドトレードセンター(ゼロベース)跡のイスラーム寺院建設案に根強い反対運動があるとか。どこの国、どの町でも建築問題はあるのですな。反対運動の効果はあるのでしょうかね。

ある中学校前のビルで

2010年08月25日 | 日記
25日(水)も朝ちょっと曇りでしたが昼頃から炎暑という感じです。新聞によると日本列島全部猛暑が続いているそうですがやはり気温トップは大阪だそうです。気温と湿度の関係で暑さも決まると聞きました。フィリッピン出身の若い女性に聞くと、「フィリッピンは暑いですが乾燥していてもっと涼しいよ、大阪の暑さはクレージーですよ」とのこと。私もそう思います。
豊中市立第3中学校(息子の一人がOB)の前に派手な黄土色のビルがあります。下階が商業用上階がマンションのように見受けます。入り口にたくさんの張り紙がしてありました。何気なく見るとどう見ても間違いではないかと疑いたくなる内容のところがあります。「禁煙」となっているところは一部どう見ても「喫煙」ではないのでしょうか。私の見間違いかと今でも混乱しています。しかも学校の真ん前です。ビル住民は無視しているのかな。

里芋の畑で作業を

2010年08月24日 | 日記
24日(水)も灼熱の好天が続いています。日中は35,6℃はあるでしょう。いい季節にはなんばのボランティアを終わるとぶらぶら梅田まで約4㎞を散歩がてら歩くことを習慣にしています。でもこの暑さではそういうこともできません。ここ1か月ほど見合わせています。
今日は「処暑」だとか。暑さがおさまる意味と聞いていますが、昔の陰暦の意味であってもむなしく感じます。
家の近くまで帰ってくると午後5時前でまだきつい日差しでした。遠くの畑で農作業の人が見えました。野天で里芋の作業のようです。日射を浴びながら、雑草を処理しているみたいでした。里芋は初秋から晩秋の採り入れなので、今が一番育成に力がいるときでしょう。でもいくら専門の農家の人でもこの暑さはこたえているはずです。「いくら仕事でもようやるわ!」と思いました。体は大丈夫でっか?

新しく出来た千里市役所で

2010年08月23日 | 日記
23日(月)は暑いから交通はバスを使いたいとバス停で待っていました。東からきつく眩しい陽が照り付けます。何人かこのバス停で待っていましたが、そこは女性です、電柱の日陰に雀のように並んで待っているのは、みな女性。バスが来るとそれが一斉に我先に乗ろうとするマナーには恐れ入りました。
朝早く、相談があり9時過ぎに千里のコラボ(公的なところと市民共同コラボとか)に行きました。私の住む豊中市は南北に長い変形の市です。北部の千里の人は昔から南部に近い市役所で会議をやったり行事をやるので、参加が少ないうえ、手続きに出ていくのも見合わせるケースが多かったとか聞きました。私は、今日はじめて千里のコラボ内にできた新千里市役所の事務所に入ってみました。まだ朝早く客の姿は少ない感じでしたが、元からある市役所より明るく、近代化されていて受け付けのおねえさんも若くて丁寧に見えました。役所はまず市民が行きたくなる感じを研究してくれ~といいたいです。

ゲーム屋さんに秋風?

2010年08月22日 | 日記
22日(日)も灼熱の猛烈な暑さの日でした。この熱帯性の高気圧はいつまで居続けるのでしょう。一寸着たポロシャツもTシャツもすぐびしょびしょになり、ワイフから日に数回着替えるよう指示が出ます。
古い住宅の町はずれに「ロビン フット」というおもちゃとゲームの店があり、前を通ると近所の子ども達のたまり場になっています。今日は、昼過ぎの午後4時ごろで涼しくなる、夏休み本番、日曜で好天などの条件で店の内外はさしずめ子どもたちであふれていると思いきや、誰も姿が見えません。どうしてしまったのでしょう。ひとっ子一人いません。これでは「ゲーム屋」さんも持たないでしょう。あるいは日曜はお父さんが在宅する確率が高く、従ってパートのお母さんも在宅でしょうから、外出しなくてもいいのかもしれません。ゲーム屋も難しいものだと思いました。それにしても「ロビン フット」という店名は何でしょう。ロビンフッドは聞いたことはありますがね。Robin Hoodですよね。ここは逃げ足フットワークのイメージですかね。

近松門左衛門

2010年08月21日 | 日記
21日(土)はお盆期間を終えて久しぶりのボランティア活動日になりました。暑いが気のせいか物陰に入ると気温の低下が感じられたのですが、ほんとに秋の気配でしょうか。
そういう気になって谷町8丁目からの帰りに暑いさなか、お寺の多い谷町筋を暫く歩きました。細い路地のような所に「近松門左衛門の墓」と書いてある立て札を見つけました。かの有名な江戸時代に名をはせた劇作家の墓があるようです。でもその路地の奥にまで入る勇気はありませんでした。後で調べると享保9年(1724年)11月24日に亡くなり、この奥にあった寺に埋葬されたとのことです。それが230年後の今から50年ほど前、道路拡張工事で寺は大阪郊外へ引っ越し墓地の名残だけがひそかに残っているのだそうです。歴史ある遺跡などの重要な文化への配慮がなかった「バブル時代」の跡を感じました。大阪らしいですね。
いま、いくら歌舞伎作家として高名でも、お上の言うことと金には仕方なかったのよ、という感じですかね。