数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

中国核兵器開発、人民主義より軍事科学革命を達成せよ

2013-10-26 19:44:43 | 中国関連
中国も米国・ソ連の核兵器の威力に驚愕し、その技術導入に全力を挙げてきたようです。

「毛沢東はアメリカによる日本への原子爆弾投下に魅了され、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けたといわれる[1]。財政部長薄一波によれば毛沢東は1950年代前半を通じて、すべての会議において中国による原爆所有について言及していた[1]。しかし毛沢東は外交的配慮から、対外的には原爆への渇望を隠蔽し、「原爆など不要、人民に頼るべき」と発言しており、1946年には「張り子の虎」発言を行っている[1]。しかしスターリンは中国への脅威と不信感を持っていたため技術供与には了承しなかった。」

 やはり内心では、「科学技術の脅威」の前には「人民」などまったく無力だと考えていたのかもしれません。

「1950年から開始されていた朝鮮戦争中の1953年2月2日にアメリカ合衆国大統領アイゼンハワー大統領が一般教書演説において、中国への原爆投下の可能性について言及し、中国に対して核使用による脅迫を行ったため[2]、毛沢東はスターリンに対して原子爆弾の技術提供を要求する口実ができた[1]。毛沢東は中国の核物理学者銭三強をモスクワへ派遣するが、ソ連側はこれを拒絶する。しかし銭三強は以降もソ連の核研究施設に入れてもらうよう交渉を三ヶ月も続けた[3]。1950年の中ソ友好同盟相互援助条約には核兵器に関する協定は含まれていなかった。」

 核をめぐっては、ソ連も相当中国を警戒していたようです。

「翌1954年7月に[9]中国は台湾侵攻を開始する(台湾海峡危機)が、これは再びアメリカとの対立を作ることで、ソ連に原爆製造技術を要請するためであった[9]。9月3日には金門島に砲撃を開始する。10月1日にソ連代表ニキータ・フルシチョフが訪中するが、これはスターリン時代には考えられないことだった。フルシチョフは15企業の売却と5億2000万リーブルの借款を約束した。原爆については毛沢東が強く交渉し、ソ連側は中国の原子炉建設援助を不承不承承諾した」

 このWikipediaの記事は右よりの方が書かれたような気がしますが、まるで北朝鮮のお家芸の「危機戦略(瀬戸際外交)」を中国が元々は行なっていたようです。

「1957年6月にはモロトフらスターリン派がフルシチョフ政権の転覆を企てるなどし、ハンガリー動乱はソ連全体を揺さぶっていた。各国の共産党指導者はフルシチョフを支持したが毛沢東は簡単には承諾せず、原爆製造技術供与を交換条件に付け加えた[15]。ソ連側はこれに応じ、10月15日モスクワは中国に原爆製造の模型提供を約束する協定に署名した[16]。「ソ連原爆の父」といわれるイーゴリ・クルチャトフの反対を押し切り、フルシチョフは、エフゲニー・ヴォロビエフを中国に派遣し、さらにR-2短距離地対地ミサイル二基を提供した(R-2は元々はソ連がドイツのV2ロケットを改良した)。このときに中国の核科学者は60人から6000人に増大している[17]。ミコヤンは「ソ連は中国のために核兵器工場を建設した」とのちに証言している。なお中国側が投資した金額は原爆製造だけで41億米ドル(1957年当時の価値)にのぼったとされる」

 とうとう核とロケット技術が中国に移転され、中国はこれに全精力を傾けます。

 「1960年6月5日に北京で開かれた「世界労働組合連盟」会議において、中国は反ソ連の世論を作ろうとした。「フルシチョフの平和共存論は間違いで、資本主義が存在する限り戦争は不可避である」と主張、ソ連側は「中国はわれわれの顔につばを吐きかけた」として、中ソ関係は対立状態を深めた(中ソ対立)[27]。6月21日のブカレストの会議では、ソ連は中国の主戦論を批判し、フルシチョフは帰国後、1000人以上のソ連人顧問を中国から帰国させ、援助停止を行った」

 主戦論は中国で、ソ連は緊張緩和を願ったとのことです。冷戦時代は米ソだけの駆け引きでなく、中国とソ連との関係も相当きわどいものだったようです。

「核兵器の開発は、1960年代初頭に設立した第9学会(北西核兵器研究設計学会)により進められた。第9学会とは、中華人民共和国第九局(核兵器製造機関)北西核兵器研究設計学会が海北チベット族自治州に核開発のために設立した最高機密の研究都市で、211工場とも呼ばれる[30]。第9学会で開発製造された核兵器は中国-インド国境に近いチベット自治区などに配備されている。中国政府は1987年に第9学会は閉鎖されたと主張しているが、現在も厳重な警備のもとに監視されており、センター内部での活動についての情報は開示されていない」

 まるで米国のエリア51のような軍事科学研究施設が占領したチベットに作られたようです。

 「中国は、1970年初頭から1971年にかけて核兵器をチベット高原に輸送し、青海省アムドの北西部先端にあるツァイダム盆地にDF-4ミサイル発射用地を完成させ、核ミサイルを配備した(チベット亡命政府 1998, 2章)。現在もチベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用地が整備されている」

 チベットは中国の核兵器関連施設が集積するところのようです。




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