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数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

資本主義とは宗教的な「行為義認」なのか(2) 神の民とカルヴァン派

2023-11-07 10:59:09 | 資本主義
※あくまで個人的な考えを記事にしました。

1.カルヴァン派(ピューリタン)と神の民の宗教は本質的に同じなのか? 
 資本主義の宗教的な側面は、カルヴァン派と「神の民の宗教」の考え方に強く影響を受けていたのではないかと考えていましたが、ヴェルナー・ゾンバルトの『ユダヤ人と経済生活』を読んだところ、どうもその二つの宗教は本質的には同じものなのではないかということが主張されていました。
 なおカルヴァン派は、フランスではユグノー、オランダではゴイセン、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、イングランドではピューリタン(新教徒)と呼ばれていました。 




 「…マックス・ヴェーバーが行った資本主義にとってのピューリタニズムの意義に関する研究は、わたしのユダヤ研究を大いに刺激した。それというのも、とりわけ資本主義の発展にとって意義あるピューリタニズムの主な理念が、実は、ユダヤ教のなかで、一層きびしく、そして当然のことながら、はるか早期に形成されていたという印象を受けたからである。
…ユダヤ教の考え方と、ピューリタニズムの考え方の事実上ほとんど完全な一致が明らかにされるに違いない。すなわち、宗教的関心の優位、試練の考え、(とくに!)生活態度の合理化、世俗内的禁欲、宗教的観念と利益獲得への関心と結合、罪の問題の数量的なあつかい、…
…ピューリタニズムはユダヤ教である。
 ヴェーバーとわたしの記述に基づけば、両者の精神的関連、いやそればかり両者の精神的一致を確定させることは、それほど困難ではないと思われる。」
「…宗教改革時代に、ユダヤ教と多くのキリスト教の宗派との間に形づくられた密接な関係はよく知られているし、当時ヘブライ語やユダヤ教の研究が、流行の学問として愛好されたことも周知の事実だ。しかし、とりわけ十七世紀にユダヤ人がイギリス人、とくにピューリタンに熱狂的に尊敬されたことも、よくわかっている。それはたんに、オリヴァー・クロムウェルのような指導者の宗教的な考え方が、全く旧約聖書を足がかりにしていたということばかりではない。クロムウェルは、旧約聖書と新約聖書との和解、ユダヤの神の民と、イギリスのピューリタンの神の会衆の内面的結合を夢見ていたのだ。
…公的生活と教会の説教は、まさにイスラエル的色彩を帯びていた。
…クロムウェルの将校たちは、彼にユダヤの模範組織シンヘドリストの構成員の数にならって七十人のメンバーからなる国家評議会をつくるように提案した。
 その頃は旧約聖書のみならず、ラビ文献がキリスト教の聖職者とキリスト教の平信徒のサークルで、熱心に読まれていたという事実がある。したがってピューリタンの教義が、ユダヤ教の教義から直接導かれたということも十分にありうる。」

2.カルヴァン派とルター派とは考え方が違う?
 長く続くローマカトリック教会の体制下では、免罪符売買や教会の私物化(教会税を集金する権利を宗教関係者でなく支配層が専有する)ということがが横行したりすることにより、それに対して不満を持つ人たちが立ち上がるようになり、ドイツではマルティン・ルターらにより宗教改革が始りました。
 この宗教改革から生まれた宗派をプロテスタントと言いますが、プロテスタントの中でも、ドイツのルター派とカルヴァン派とでは相当考え方が違っていたようです。
 ルター派の考えは、カトリック教会のものから信条や儀式などを多少変更したとはいえ、教えそのものについてはカトリックのものとそれほど変わっていなかったようです。それぞれの教会をローマ教会の支配から切り離して、自主的な自治組織にしようとしたようです。これにローマ教会の支配を排除したいと思っていた地元支配層(貴族層)の利害も絡んで、その改革運動は広がっていったようです。そのため、ルター派の考え方はすごく保守的で、聖書などをその言葉通りに忠実に守っていこうということが重要視されていると思います。
 それに対して、カルヴァン派の「全的堕落の極端な見方」や「予定説」といった考え方は、ルター派の考え方と相当違っていたようです。

 
「ルター主義の神学者たちが同じ改革者であっても、カルヴァンをはじめスイスの宗教改革者たちとの違いを感じ、彼らが批判したのは聖餐の理解をめぐる問題であった。ルターたちの改革では、教会が伝統的に制度化していた七つの秘跡のうち、聖書的な根拠にとぼしい五つのサクラメントは排除され、最終的に洗礼と聖餐が残された。この点についてはスイスの改革者たちも基本的には同じ考えであった。洗礼は、罪の赦しのためだけに一回だけ行われるサクラメントであるのに対して、聖餐は、キリストの犠牲によって人類が救済されたことを想起するために、繰り返し行われる儀式で、「キリストの身体」と呼ばれるパンと「キリストの血」と呼ばれるぶどう酒を授かる。
 …スイスの改革者たちは、より厳密な解釈を要求し、ルターやその支持者たちと論争になった。彼らは聖餐に残る魔術的な要素、たとえば聖餐においてパンとぶどう酒に変化を生じさせるような呪文、このパンとぶどう酒の中に復活したキリストが何らかの神秘的な仕方で宿っているという解釈を拒否し、この儀式を徹底的に象徴的に解釈しようとした。
 …スイスの改革者たちは、カトリック教会の伝統の中にあった魔術的要素、反聖書的要素などと彼らが考えたものを徹底的に排除しようとした。そのために礼拝の順序も変えられ、礼拝堂からもそれらのものはすべて排除された。十字架像さえも偶像に属するとして排除された。それに対してルターとその支持者たちは基本的にはカトリックの伝統的な教会の礼拝様式や会堂建築を継承した。今日でもルター派の教会はカトリックとそれほど変わらない様式を保持している。」

3.カルバン派の全的堕落と予定説は神の民の考えと親和性がある?
(1)全的堕落と神の絶対的支配 
 全的堕落の考え方は、プロテスタントの各派では一般的に受け入れられていたようですが、カルヴァン派は特に極端な考え方をしていたようです。
 カルヴァン派の全的堕落の見方は、全知全能の神の絶対的な支配ということに重点が置かれていたと思います。そしてそれは、絶対的な神の「規則(神が作った法則)」に忠実に生きるということが使命になり、いついかなる時でも「神の支配」は満ちているので、規則(法則)に従って律儀に行動し続けないといけないということなります。また神の作った「法則」を忠実に守るということは、その「神の法則」を知ろうとすることにもつながり、人間や自然(神の造物)を様々な抽象的な思考実験を行って分析するということに向かい、科学的な思考と親和性が高くなったのではないかと思います。近代数学の創始者のベルヌーイ一族やオイラーらはカルヴァン派でした。


 一方、「神の民の宗教」でも神は絶対的で唯一な存在であり、新約聖書で語られているようなキリスト(神の子)の贖いにより誰でも(人間ごときが)救済されるということはありえず、すべては神の支配するところであり、選ばれた神の民だけがその神の規則を忠実に従うことにより救われるという考え方になっていると思います。人間も自然も神の造った「造物」なので、その規則(法則)によりどのように造られているのかを探求することは、この民にとっても理にかなっていたと思います。この民にとっては、人間や自然の見方はすごく唯物的(抽象的な論理物)になると思います。
(2)予定説
 そして予定説、神の救済にあずかる者はあらかじめ決まっているという考え方は、一種の選民思想(神の民だけが救われる)にもつながることになると思います。そして神に救われる者の証は、禁欲的で具現的な勤労の結果である労働価値の多寡にあると考えるようになると、「産めよ増やせよ」の考え方にも近いような気がします。

「すべての人間の堕落
人は、アダムの創造主である神への反逆、すなわち堕罪ゆえに、その結果として「全的に堕落」したとするもので、ここに「全的」とは、二重の意味を持つ。第一に、その「堕落」が全人類に広がりアダムの末裔である限り、その「堕落」から逃れた者はいない、という「堕落」普遍性を示すことばであり、第二に、人格のすべての領域にその「堕落」が及んでいると言う意味において「全的」なのである。つまりすべての人間は堕落しており、また人間の人格もすべて堕落しているという意味である。「神学の第一原理は、人間の堕落、人間の罪である。」と言われている。」

「予定説(預定説、よていせつ、英語: Predestination)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする(二重予定説)。神学的にはより広い聖定論に含まれ、その中の個人の救済に関わる事柄を指す。全的堕落と共にカルヴァン主義の根幹を成す。
予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である。
 内容
 予定説に従えば、その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。これは、条件的救いに対し、無条件救いと呼ばれる。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵である。
救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済にあずかれた者は、罪を犯しても必ず神に立ち返るとされる[1]。これは、聖徒の堅忍と信仰後退者の教理である。」
 
(創世記 9:1-17)
『聖書 聖書協会共同訳』より
「神はノアとその息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
あらゆる地の獣、あらゆる空の鳥、あらゆる地を這うもの、あらゆる海の魚はあなたがたを恐れ、おののき、あなたがたの手に委ねられる。
命のある動き回るものはすべて、あなたがたの食物となる。あなたがたに与えた青草と同じように、私はこれらすべてをあなたがたに与えた。
ただ、肉はその命である血と一緒に食べてはならない。
また、私はあなたがたの命である血が流された場合、その血の償いを求める。あらゆる獣に償いを求める。人に、その兄弟に、命の償いを求める。
人の血を流す者は
人によってその血を流される。
神は人を神のかたちに造られたからである。
あなたがたは、産めよ、増えよ。
地に群がり、地に増えよ。」

4.マックスヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は、神の民の考え方を基にするとよく理解できる?
 ヴェーバーのこの考え方は、カルヴァン派と「神の民の宗教」を融合して見直してみると、何かすっきり理解できるようになりました。結局、資本主義とは「宗教的な行為義認」であり、私たちもその中に放り込まれ、日々「利益」追及に駆り立てられているということになるのでしょうか?
 後ウマイヤ朝で栄えたスペインの地に移住した神の民は「スファラディ」と呼ばれますが、カトリック全盛期には迫害されて、ポルトガル→オランダ→イギリス・アメリカに移住していったようです。この移住先ではどこも商業的に繁栄しました。そしてイギリス・アメリカでは本格的な資本主義は勃興することになりました。

 
「予定説と資本主義
マックス・ヴェーバーは論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理を提出した。
救済にあずかれるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われる。現世でどう生きようとも救済される者は予め決まっているというのであるなら、快楽にふけるというドラスティックな対応をする者もありうるはずだ。しかし人々は実際には、「全能の神に救われるように予め定められた人間は、禁欲的に天命(ドイツ語で「Beruf」だが、この単語には「職業」という意味もある)を務めて成功する人間のはずである」という思想を持った。そして、自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした。すなわち、暇を惜しんで少しでも多くの仕事をしようとし、その結果増えた収入も享楽目的には使わず更なる仕事のために使おうとした。そしてそのことが結果的に資本主義を発達させた、という論理である。」



 
「…ポルトガルへ脱出し、さらにはオランダへ逃れていった人々もいた。ポルトガルに逃れた人びとのなかには、生き残り、世を渡るためにキリスト教へ改宗した者も多かったといわれる。彼らは「コンヴェルソ」と呼ばれた(「マラーノ」はその蔑称である)。コンヴェルソの家庭では、母親を通じて子供へのユダヤ教の信仰が密かに引き継がれていった。いわば潜伏ユダヤ教徒である彼らは、異端審問と虐殺から身を守ると同時に、長い間をかけて国外の安全な場所を探求し、周到な計画のもとに移住を企てた。その行き先が新興国オランダであった。
 十七世紀、ウエストファリア条約で独立を果たしたオランダは、信仰の自由を掲げて大航海時代をリードしはじめていた。オランダに無事にたどり着いてたコンヴェルソの人びとは、ユダヤ教へ再改宗すると、アムステルダムを中心にユダヤ社会を形成していった。…高い言語能力を活かして交易の担い手となることで、受け入れ先の国の繁栄に貢献していった。
 オランダでは、ユダヤ人の交易支配がスペインからの不当な扱いを受けたことに対抗し、1658年、ユダヤ人にオランダ市民権を付与して国際貿易上の便宜を図ることにまでした。この決定はやがて、ユダヤ人が西欧諸国で市民権を獲得する新たな道を開くことになる。…西欧諸国が重商主義の時代を迎えるなか、それまではもっぱら迫害と追放の対象だったユダヤ人が、西欧のキリスト社会でも生きられるようになったのである。
 北米大陸へのユダヤ人移民がコンヴェルソから始まっていることも注目すべき点であろう。またユダヤ人の移住によって国力を増強したオランダは、ピューリタン革命を指導したクロムウェルにも影響を与え、1290年の追放以来、長らくユダヤ人を拒んできたイギリスで門戸開放が実現する。そして、ロンドンを拠点とするユダヤ人商人のなかから北米へ入植する者が現れ、1730年にはニューヨークのマンハッタンに、アメリカで初めてのシナゴーグが建設されるのである。」






 

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企業社会(共産)主義、マルクス資本論の共産社会とは超巨大企業連合による統治なのか?、「社会抽象化計画」は続いていた!相対的剰余価値増大と科学技術の光と闇 

2023-06-05 17:38:22 | 資本主義
1.「資本論の道」は続いていた?
 私はずっと「資本論」の中で書かれた共産社会への過程(科学技術の進歩に伴う社会構造の効率化・共有化)は、ソ連や中国ではなく、米国で実践されているのではないかと思っていました。
「ソ連・中国等の共産主義VS米・西欧の資本主義」の対立構造ではなくて、「ソ連・中国等の民族派的独裁体制VS米国等の正統派(トロキスト的)共産主義(新自由主義政策でその特徴が目立つ)」という対立構造です。
 私は「科学技術」の「社会」への影響を理論的に解説しているは「資本論」などのマルクス経済学だと思います(唯物史観とも言われますが)。ただし「公害論(科学技術の負の側面)」や「科学信仰論(科学はどこから来るのか、科学信仰⇒科学技術)」が抜けていると思います。
 「科学技術」の進歩による生産・流通体制の変化による社会(家族・団体・企業、国家)への影響(社会変革)については、「資本論」・「ドイツイデオロギー」・「家族・私有財産・国家の起源」・「帝国主義」・「金融資本論」などの書物に詳述されていると思います(戦後のマグドフらの書物も含め)。
 

 【(本の私的な感想)
 科学技術の進歩(客観的なモノゴト)により社会(人間精神的なコト)が変革するということを大前提にしています。私は科学技術の思想は人間精神的な信仰に基づき進歩するのだと思いますが、その科学技術が社会に決定的な影響(変革)を与えるというのはその通りだと思います。】

 
 【科学技術の進歩による社会制度(家族・私有財産制・国家)の変革を歴史的に解説しています。プラトンの『国家』、ルソーの『人間不平等起源論』などとともに、「私有財産の発生⇒家族を作り、その富を子に残す」ことが諸悪の根源だと言っているようです。「社会抽象化計画」が進むと、子供は国家が管理するようになるかもしれません?さらに人工授精の技術が進むと、家族は必要なくなるかもしれません?

 
 【資本主義が進むと、交換価値である「貨幣=仮想価値記号(交換のためだけの指標)」のみを集積・操作する銀行などの金融資本が出現してきます。金融資本は貨幣(資本)を融資(需給操作)することにより製造業(生産資本)を支配していき、巨大な金融・生産資本グループを形作るようになります。要するにカジノの胴元のような役割になるということです。現在ではビックテックなどは「価値記号=情報記号」を独占して、社会すべてを支配しているかのようにも思えます。】


 【第二次大戦以後(現在)の帝国主義では、軍事占領して植民地などにするというような露骨な形から、様々な条約や金融支配、軍事基地の設置(条約等により設置)、CIAなどの諜報謀略工作、政治家・メディアの買収、エネルギー・食料支配などのソフトな手段を用いて、表向きには独立している国を支配しています。】
 
 どうも「共産主義」の考え方は、一般的にはソ連や中国の共産主義(民族的独裁体制)で利用された「資本論」等の考え方(搾取や貧富の格差(階級問題)、労働者の団結等を叫ぶ)を受けて説明されていて、「科学技術(超抽象化思想)」が及ぼす「社会変革(具体的な世俗社会の変革)」の影響という根源的な考え方についてはあまり説明されてこなかったように思います。
 そしてこのマルクス系の学説は古い(間違った)考え方で、現在では新しい経済学が主流になっているとみなされています。新しい経済学とは、計量学的なマクロミクロ経済学とか、ケインズ経済学とか新自由主義経済学とかです。
 計量(統計)的な経済学は確かに有用性(景気動向、行動心理学的、財政政策、物価統制等)があると思いますが、「静的・技術的な側面」が大きいと思います。またケインズ経済学は国家的な計画経済に親和性があると思います(硬直・腐敗した官僚制にも親和的?)。
 その中で、現在では『選択の自由』から始まった新自由主義的経済思想が世界的に主流になってきていると思います。この考えを実践する経済の行く先は、弱肉強食的な超効率的な組織体への変革であり、要するに「資本論」で考えられた「有機的構成の高度化の究極形」なのだと思います。

 
 【この本を読んだときは(もう30年以上前ですが)、何か宗教的な感動をしたことを覚えています。統制などをまったくせずにに皆が自由に行動すれば、それですべて上手くいく、規制などまったく要らないというような考えでした。
 そこから、皆の自由な行いの仲介の場である「市場」こそが「すべて(神)」なのだという経済的な信仰が始まったような気がします。一見良いことのように思えるのですが、「市場」がいったん不公正な操作により支配されてしまった場合には、その支配勢力は、政府などの監督官庁はすべて「市場」を尊び、それを円滑に進めるように(支配勢力の不正操作がし易いように)規制を撤廃しなければならないと声高に叫ぶようになります。そして様なプロパガンダと政府関係者の買収により、政府を従属化してしまいます。政府と「市場支配者」は(融合して)一体となり超越した利権団体となって、富を独占支配する絶対王朝になってしいます?】

 最近上記の林千勝さんのユウチューブを見て、またグローバル勢力の有無を言わさない社会改革を進める状況を見ていると、「世界的な社会の効率・抽象化(世界同時革命)=資本論の道」は続いていたんだとつくづく思うようになりました。
 これはあるマイノリティー民族(神の民)が、「自分たちへの差別を根源的に解消すること」と「情報(記号)操作(仮想抽象化)を通して富を独占して世界を完全支配すること」を目指したものだとも思えます。この世の価値というものは、「抽象的な貨幣(単なる記号)」のみの基準で計られるものであり、その「貨幣」を独占している者こそに「価値」があるのであり、「貨幣」を持たないものには「価値」などはないということでしょうか。
 カルヴァン派の「貨幣(禁欲的労働価値の化体)の大小」が「救済されるかされないか」の基準であるとの考え方とも似ていますが…。

 

 【旧約聖書のトーンは、「絶対的で強権的な神」と契約して生きている「選ばれし民」です。神に対しては絶対服従で、律法に則した生活をしなければいけません。そうしないと神に罰せられます。
 このような信仰環境では、唯物的な考えに傾くと思います。なぜなら、すべては神の定めた「掟(抽象的な論理構造」により律しられており、人間が感性により自由に考えをめぐらせるというようなことは許されないからです。また「種を栄よ」という神の命令から、商売も信仰と融合的です。
 私はカルヴァン派の全的堕落や労働最優先論がどこから出てきたのかと思いましたが、ゾンバルトはカルヴァン派と「神の民の信仰」は同じようなものだと断言されていました。資本主義の精神とは、「神の民」と「カルヴァン派⇒ピューリタンなど」により育まれたものだと言えそうです。】

 

 馬渕先生の言ってる通りだと思います。

 そして「社会抽象化強制計画」を推し進めるための「プロパガンダ」・「文化的戦術」として、学術的な闘争も行われているようです。「神の民」たちは、その「神の民」を狙い撃ちしにした「計画的で惨い(屠殺のような)大量殺戮」によるトラウマから現実逃避するかのように、「自分たちへの差別を絶対的・永遠的に根絶させる」ために世界的な思想改造の聖戦を始めたかのようです。

  
2.マルクスの資本論(第1巻「生産過程」)

 
(1)労働価値説
 資本論では、「価値」の根源的な源泉は「労働(大きな意味では商業的行動)」であると唱えています。道徳などの倫理精神面とはまったく関係がない、単に「労働」だけに価値の源泉を求めています。結構、独善的な感じがしますが、何かカルヴァン派の考えや「神の民」の行動様式とは凄く親和性があると思います。これらの考えは、すべてのモノを「商品」として「貨幣価値(抽象的記号)」に換算してしまう習性があります。貨幣価値に換算できないものには「価値」はないということです。
 なお資本論には流通過程などの計画経済を扱った巻もありますが、私は「労働価値説」と「科学技術の応用による無限的な価値増大(相対的剰余価値)」が「肝」ではないかと思います。固定観念による計画経済は、科学技術の進歩の前には、絶えず遅れた計画になりがちで、また利権的な談合・リベートの巣になるようにも思われます。そして、相対的剰余価値(自由な思想(環境)による科学の進歩と価値増大)と計画経済(固定観念による権威的な統制経済)は両立しないと思います。
 さて「労働価値」は、標準的な労働時間で計られます。つまりある「商品」を作るのに、(同じ道具や機械を使用して)ある人(Aさん)は10時間、ある人(Bさん)は5時間かかり、平均では7時間かかるとすると、その商品価値は平均的な労働価値の7時間分になります。そうすると、Aさんは10時間働いたのに7時間分の賃金しかもらえず、Bさんは5時間働いたのに7時間分の賃金をもらえることになります。もし高性能の機械が導入されて(その機械の価値(製造にかかった労働価値)は耐用期間内に少しずつ商品に参入されます)、上記の商品の標準労働時間が1時間分になってしまったら、古い機械を使っているAさんBさんは、10時間や5時間働いても1時間分の賃金しかもらえないことになります。
 
(2)相対的剰余価値増大と科学技術
 経営的に価値を増大させるには、「絶対的剰余価値」と「相対的剰余価値」の方法があります。
 「絶対的剰余価値」とは、他人の労働価値を搾取するやり方です。労働者が本当は8時間分の賃金の労働(間接経費や標準利益的なものを除いた正味の労働価値)をしたのに、例えば4時間分しか賃金を払わなければ、4時間/1人分の価値が経営者側に蓄えられます。これは昔から行われている「儲け方」だと思います。
 これは通常「搾取」ということで、昔の「赤い党」はさかんにこの悪弊を叫んでいたように思います。

 
 「相対的剰余価値」とは、新規機械の導入、効率的な生産組織体制などにより、他の生産体制を上回る効率性により価値を増大させます。他の生産体制では1商品あたり労働10時間かかるところを、1商品あたり労働5時間で作れれば、既存のその商品価値が10時間分であれば、5時間分は丸々儲けになる訳です。しかし他の生産体制のところも新しい機械を導入して効率性を上げればその利益はなくなり、また激しい効率性の競争に至ります。
 つまり「相対的剰余価値の永続的な増大」というのは、絶え間ない科学技術応用による革新的な機械製造・システム設計開発や、商品の生産工程の効率化、販売やービスの効率的な提供などによりもたらされるものです。そして、その科学技術をどのように発明・研究していくのかということが根本的に重要になってきます。その前提として科学的知識の向上のための教育が必要になります。そして科学教育を含めその効率性を高めるためには、宗教類似の科学至上主義(効率性至上主義、少し偶像化して利潤(貨幣)増大至上主義)への信仰心が必須な条件になってくると思います。
 よく会社で、この「信仰心」を高めるためのセミナーだとか訓示だとかいろいろ行われていると思います。また経営学とかでいろいろ効率性だとか利潤至上主義の信仰心のことが研究されていると思います。
 なお資本論(生産過程)の続編のような、シュンペンターの「経済発展の理論」では、「創業者利潤」という概念で、ベンチャー企業論(相対的剰余価値増大の新興組織)について解説されています。つまり「革新的な科学技術(論理構造システム)を応用した超効率的なを新興組織」を立ち上げる(創業)することに「大きな価値」があるということです。
 ベンチャー企業とは、企業共産社会実現のための強力な新興(信仰)団体かもしれません。

 
 
インテルの技術創業者のロバート・ノイスがフェチャイルドセミコンダクターから技術者仲間を連れて新たな創業をしようとしたところ、その技術力の有望さから、ほとんど担保となる資産などないにもかかわらず、今でいうベンチャーキャピタリストたちが殺到して投資を行い、経営のプロとしてアンドルー・グローヴも用意してしまったとのことです。
 ベンチャーキャピタリストというのは、何か奇抜で面白い事業発想を持っているが、資産がまったくない者に担保なしに投資するという人たちであり、その投資後にその創業者が事業に失敗して倒産したりしても、その失敗した創業者がまた違う新たな発想をもって事業を行おうとすると、また投資するような人たちのようです。
 ノイスは初め記憶素子の開発に注力していましたが、その技術を日本企業が盗み国家ぐるみで補助して市場を独占してしまったことに憤りずっと恨んでいたようです。後にセマテックで意趣返しをしたのでしょうか?
 グローヴは経営面(技術面を除き)では独裁(超秘密)官僚体制を敷いて、社員を絶えず監視統制していたようです。】

3.「相対的剰余価値増大」の究極的な方法は「数理論理至上主義」?
 現在では、科学技術の源泉の「数理論理的な思考方法」そのものが、すべてのシステム設計の共通の考え「世界共通記号」として、最大の価値を有するようになり(ビックテックなど)、それにともない相対的剰余価値の増大の究極的な手法になりつつあります。

 
 大昔にはエジソンのような職人的な技術者や家族的会社の創業者などが、その勘と度胸と勤勉さにより、初期の生産体制を構築して技術を高めてきました。しかし科学技術の進歩(科学信仰の進化)により、「抽象的な記号論理(数式)」が技術体系に決定的な影響を与えるようにより、もはや熟練した技術者や経験知的な経営方法では太刀打ちできなくなり、かつてのATTの研究所でのように物理化学を学んだ大学(院)卒者や専門的な経営・会計などを学んだ「論理記号のスペシャリスト」たちでないと、この価値増殖を実現することは不可能になりました。
 今では数理論理の天才者たちが、その「論理記号」のみのシステム化により、究極的な価値を生み出し、全ての産業を支配するようになっているようにも思われるます。「貨幣」も「論理記号」になるのは時代の趨勢だと思います。

 
4.「相対的剰余価値増大」のいくつか先が「有機的構造の高度化=共産社会」、そして超巨大企業連合が国家を統制する?
 相対的剰余価値増大のために、社会では物凄い付加価値競争が始まり、各企業では競って効率的な生産・流通・サービス組織を構築しよとしました。そうしないと生き残れないようになりました。そしてこの激しい競争によって、企業は超効率的な一握の巨大企業に集約されるようになり、社会全般が有機的(効率的)に密接に組織化(有機的構造の高度化)されるようになり、社会(この有機体に入っている団体・人)は一体化されるようになります。この一体化がマルクスの唱えた共産社会だと思います。
 この有機的構造の高度化の担い手は、世界的な「超大企業」であり、もはや多国籍企業で「国家」の縛りを受けなくなります。逆に「超大企業」の連合体が「国家」の上に君臨するようになります。そしてこの「超大企業」の連合者にとっては、いかに価値を増大させるかが究極の使命になっており、非効率的な前近代化的なモノ(習俗・伝統・宗教(科学教以外)・固定観念、例えば日本的経営制度(株の持ち合い、終身雇用等))などは破壊しようと画策すると思います。
 残念ながら、この科学技術を基にした競争社会に適応できないものは、その一体化(有機的構造の高度化)から外れてしまいます。マルクスの共産社会は、プラトンの唱えた理想社会に似通っていると思います。プラトンは「間引き」で対応しろとの峻厳な判断でしたが、現在では何らかの福祉政策の問題になっていると思います。そのうちどういうことになるのでしょうか?

 政府・行政は巨大金融グループに買収されているようです。

5.レーニンや毛沢東の共産主義という名の民族的独裁国家?
 レーニンは上記の4のような「共産社会の実現」を曲解したか隠蔽して、マルクスの資本主義的な効率化競争の果てに共産社会になるというストーリーを単純化して、ただ題目(理想社会=ユートピア幻想)に掲げて、「暴力革命」という程度の低い単なる「権力奪取手段」に利用したように思います。この「暴力革命」は、テロやプロパガンダによる謀略という手法を用いた、冷血でカルト的なもので、「自由な思考・信仰=科学の源泉」などを重点においた「相対的剰余価値の増大⇒有機的構成の高度化⇒共産社会」とは異質なものでした。
 まあ当時ロシアはまだ工業生産が十分でなく、封建制の強いロシア帝政の破壊という目的が第一目標だったのだと思いますが、「神の民」のロシアによる迫害を阻止するための「社会抽象化計画」の一つだったのかもしれません。
 その後、スターリンは「トロキスト(「神の民」のメンバーが多い、末裔が米国のネオコンと言われている)」を追い出し、ロシア民族主義による国家社会主義的な独裁国家を作りました。そのためえげつない効率主義(貨幣増殖主義)からは無縁になったようですが、官僚的な計画経済になり、汚職も蔓延して科学技術の裾野は広がりませんでした。
 中共はレーニンとスターリンの暴力革命手法を真似て、また伝統的な中華帝国の権謀術数や毛沢東の強烈な属性などにより、農民革命という地主から土地や財産を奪って富を得て、小作人にも分け与えるという方法で、勢力を伸ばしたようです。これは工業生産がほとんど皆無の中、「共産主義(ユートピア)」という題目だけを掲げて、前近代的な封建国家を打破するということに目標があったようです。しかし中国はアヘン戦争以来の「中華人民の屈辱」を晴らすために、何らかのイデオロギーを必要としていた(何億の民を束ねるには「強力な信仰」が必要)ことは確かだと思いますので、そういう意味では役だったのかもしれません。そして中共も民族主義的な国家社会主義(独裁国家)、というか現代版王朝(共産党王朝)になったかのようです。またソ連の恐怖政治を上回る統制も行いました。
 しかし、ロシアも中共も独裁国家にならざるを得ないのは、一つには「神の民」による「社会抽象化計画による世界支配」から逃れるためなのかもしれません。神の民は、独裁国家が少しでも自由化すると、すかさず強力なプロパガンダ(情報戦)を仕掛け、体制を崩壊させて経済占領してしまおうと狙っていると思います。
これはどうみても情報戦ですよね?

6.相対的乗価値増大の負の側面、「公害」の隠蔽、科学技術の制御不能?
 科学技術の進歩には、人間にとって「光」の部分と「闇」の部分があると思います。通常「相対的剰余価値」による貨幣価値の増大という光の部分のみに脚光が集まり、公害による闇の部分(マイナス面)は意図的に隠蔽されてきたと思います(隠蔽すれば損害はでないのでマイナスの貨幣価値にはならない。そのための「情報操作(メディア・規制当局支配)」の費用など安いものだ)。
 例えば「原子力発電」では、科学技術の粋を集めた効率的な発電であり、表面的には莫大な「相対的剰余価値」があるかのように思えましたが、その隠されたマイナス面も途方もないものでした(貨幣価値に換算すればそのリスクは天文学的なると思います)。その廃炉にかかわる費用、そもそも核廃棄物は処分できなかった(管理費用は底なし)、災害リスクも国家滅亡的なものだった。
 
 また今回のmRNA型ワクチンのリスクも隠されているようで、巨大製薬企業(及びその利権者)が空前の売上・利益(貨幣価値)を上げる中、今その負の影響が徐々に表面に現れ始めています。これはもはや「人類の生存」の脅威になるレベルだと思います。この損害の全部を貨幣価値に換算すればやはり天文学的になると思います。

 そしてmRNA型ワクチンのような医薬品が今後続々と登場するかもしれません。
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資本主義とは宗教的な「行為義認」なのか?

2020-08-30 10:12:54 | 資本主義
 武漢新型コロナウイルスの蔓延で、呆気なく資本主義的な行動態様がストップしたのを見て、改めていろいろ考えさせられることがあります。
 以前「リスクの始まり、プロテスタンティズム、資本主義、近代科学」という記事を書きましたが、この「資本主義」という信仰は、「キリスト教のカルヴァン派などのプロテスタント革新派の教え」と「数理論理教、プラトン原理主義」が融合して出来上がったのではないかと思います。
 そしてその信仰の具体的な行動様式である「生産・消費、科学技術の研究・応用実践、利潤拡大」などは、現代でもその信仰の「行為義認」として行われているのではないでしょうか。
参考、信仰義認・行為義認
 そのため、資本主義的な行動様式(製造、取引、消費、付加価値利潤の獲得)ができなくなるということは、単に経済がストップするという即物的な社会的なマイナス面だけではなく、資本主義という信仰の「行為義認」ができなくなるという精神信仰的な問題の影響が大きいように思います。

 なお資本主義的な行動様式を詳しく見ると、私は以下のような面があると思います。
1、キリスト教の普遍主義(特にカルヴァン派)、存在哲学、救済への道
●神と人間の関係
 カルヴァン派などでは、絶対的で万能の神と、堕落していて自ら救済の手段を持たない人間との関係になると思います。救済はただ神の恣意的な選択により行われます。罪を背負い堕落した人間は禁欲的な労働に勤しむしかない。その労働による価値の増殖は、神の選ばれた救済の者の印になるのではないか、いやその価値の大きさが、神の救済の印となるのだ。価値増殖のみが、神と人間とを結び付け、救済を得る唯一の方法なのだ。
 プロテスタントは、カトリックの様々な人為的な権威や儀式を介して救済される行為義認を否定して、ただ信仰のみにより救済される信仰義認を信条にしました。しかし、カルヴァン派などは労働を介して救済されるという行為義認を信条としているかのようにも思えます。
●神の抽象化、科学技術との親和性
 カルヴァン派などの考えは、ローマ教会などの人間社会的な教会組織の権威を否定することにより、結果として抽象的な神概念、つまり「記号論理的な真理」に親和的になっていったようにも思います。(近代数学の創始者と思える、オイラーらはこの派に属します。)
 また労働価値の増殖も科学技術を用いた高度なもの(抽象的な数学記号を基盤とする体系)となり、異常な価値拡大・増殖を達成できるようになりました。

2、集合的無意識としてのプラトン原理主義
 欧米ではプラトン的な抽象的な記号論理(イデア)の思考方法は、「集合的無意識」として共有されているのではないかと思います。それは、キリスト教にもギリシア布教の時に埋め込まれたため、欧米では根源的な精神的主柱になっていると思います。科学技術の進歩とは、この集合無意識化された「記号論理の信仰」の具現化のことであり、科学とはこの「信仰」から生まれるのであって、客観的なものから当然得られるようなものではないと思います。
 エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』などのマルクス系の学説では、科学技術の進歩による社会形態の変化のことが説かれていますが、その原動力の「科学の信仰面の研究」が不足しているのではないかと思います。旧ソ連や中共のような権威的で統制的な官僚機構の下では、この「信仰」が窒息します。科学の進歩、資本主義がストップします。科学技術は盗んで勝手に利用することが主流にになる?
参考、『キリスト教史Ⅰ』ジャンダニエル著 平凡社ライブラリー文庫、『国家』プラトン 岩波文庫、『家族・私有財産・国家の起源』エンゲルス著 岩波文庫
 

 
 
集合的無意識
 
3、マルクスの資本論(第1巻「生産過程」)
●労働価値説
 資本論では、「価値」の根源的な源泉は労働であると唱えています。道徳などの倫理精神面など関係なく、単なる労働だけに価値の源泉を求めています。結構、独善的な感じがしますが、何かカルヴァン派の考えとは凄く親和性があると思います。また何でも商品として貨幣価値に換算してしまう習性のある、あるマイノリティーグループ(神の民)の社会的な見方にも影響されたのでしょうか?
 なお資本論には流通過程などの計画経済を扱った巻もありますが、私は労働価値説と科学技術の応用による価値拡大(相対的剰余価値)が「肝」ではないかと思います。計画経済は、科学技術の進歩の前には、絶えず遅れた計画になり、また利権的な談合・リベートの巣になるようにも思います。それに、相対的剰余価値と計画経済(権威的な統制経済による場合)は両立しないと思います。
 それにしても、労働だけに価値を置くという考えは、やはりその背景に宗教的な思想又はあるマイノリティーグループの習性が潜んでいるように思います。
参考、『資本論』マルクス 岩波文庫
 
 
●相対的剰余価値拡大と科学技術
 価値を増大させるには、絶対的剰余価値(単純労働の搾取)と相対的剰余価値(新規機械の導入、効率的な生産組織体制などによる付加価値の増大)があります。
 つまり、相対的剰余価値の拡大というのは、科学技術の応用による革新的な機械、システム設計、商品の生産・販売、効率的なサービスの提供などによるものです。
 そして、その科学技術をどのように発明・研究していくかということであり、その前提として科学的知識の向上のための教育が必要です。そして科学教育を進めるためには、核心的な信仰心が必要です。
 現在では、科学技術の源泉の「数理論理的な思考方法」そのものが、すべてのシステム設計の共通の考え「記号」として、最大の価値を有し、社会に様々なサービスとしてそのまま具現化していると思います。(グーグルなど)
 産業については、大昔にはエジソンのような職人的な技術者や家族的会社の創業者などが、その勘と度胸と勤勉により、初期の生産体制を構築して技術を高めてきました。
 しかし科学技術の進歩により、「抽象的な記号論理(数式)」が技術体系に決定的な影響を与えるようになりました。もはや熟練した技術者や経験知的な経営方法では太刀打ちできなくなり、当時のATT研究所でのように、物理化学を専攻した大学出の人たち、いわば「論理記号のスペシャリスト」たちでないと、この価値増殖を拡大することは不可能になりました。
 今では数理論理の天才者たちが、その「論理記号」のみのシステム化により、全ての社会システムを支配するようになっているようにも思われるます。
 この「相対的剰余価値」による価値増大は、科学技術の進歩により無限に増殖できることになります。ただし公害面を無視すればの話ですが…
 そのため社会では物凄い付加価値競争が始まり、競って効率的な生産・流通・サービス組織を構築していきました。そうでないと生き残れないようになりました。そしてこの激しい競争によって、社会全般が有機的(効率的)に密接に組織化され、社会は一体化されるようになります。この一体化がマルクスの唱えた共産社会だと思います。残念ながら、この科学技術を基にした競争社会に適応できないものは、その一体化から外れます。マルクスの共産社会は、プラトンの唱えた理想社会に似通っていると思います。プラトンは「間引き」で対応しろとのことでしたが、現在では福祉政策の問題のようです。
 なお資本論(生産過程)の続編のような、シュンペンターの「経済発展の理論」では、「創業者利潤」という概念で、ベンチャー企業論(相対的剰余価値拡大の新興組織)について説明されています。
 ベンチャー企業とは、共産社会実現のための強力な新興(信仰)団体かもしれません。
参考、『エジソン発明会社の没落』アンドレ ミラード著 朝日新聞社、
『世界の技術を支配する ベル研究所の興亡』ジョンガートーナー著 文藝春秋、『経済発展の理論』シュンペーター著 岩波文庫、
『インサイドインテル』Tim Jackson著 翔泳社
 
 
 
●レーニンや毛沢東の偽物共産主義?
 相対的剰余価値の源泉は、科学技術の進歩による機械(記号論理の具現化)の進化だと思います。その進化は、客観的に当然にもたらされるものではなく、究極な自由を基盤とする「(プラトン原理主義とキリスト教の融合した)信仰」から生まれるものだと思います。(信仰→科学技術、数理論理)
 レーニンはこれらのことを曲解したか隠蔽して、マルクスの競争の果てに共産社会になるというストーリーを単純化して、ただ題目だけに掲げて、「暴力革命」という程度の低い単なる「権力奪取手段」に利用したようです。この「暴力革命」は、テロやプロパガンダによる謀略という手法を用いた、冷血でカルト的なもので、「自由な思考・信仰=科学の源泉」を窒息させてしまいました。スターリンの政策では、農民を数千万人犠牲(餓死等)にして、その収奪した農産物により機械を購入しなんとか産業を起こしたようです(この工業基盤により独ソ戦を乗り切ったようですが)。
 しかし、自由(数理論理・キリスト教融合的)な「信仰」を抹殺したため、なおかつ官僚的な計画経済(機動的に修正が不可能)などにより、上の命令に(たとえどんなに不合理であっても)絶対服従するといういびつな生産・流通構造になり、生産体制は停滞していきました。
 中共はレーニンとスターリンの暴力革命手法を真似て、また伝統的な中華帝国の権謀術数や毛沢東の強烈な属性により、ソ連の恐怖政治を上回る統制を行いさらに強化したようです。
 また中共(毛沢東)も農民を数千万人犠牲にして、ソ連から機械と兵器を購入しました(これが中共独立の担保になったようですが)。
 中共(毛沢東)の統制は徹底しており、たとえ親や家族でも内部通報により監視し合う制度にして、国民全員の自由(心の平穏まで)をすべて奪いとりました。国民を単なる「モノ(虫けら)」のように扱われ、プロパガンダにより洗脳され、その単なる手先となりました。
 マルクス・レーニン主義とは、レーニンの暴力革命主義(政権転覆そのものが目的)・独裁的警察国家(官僚機構の増大と腐敗)なんだと思います。
 そのため、マルクスの名前は利用され、その理論は酷く曲解されていると思います。
 労働を価値の源泉に求め、科学技術を価値増殖の主要因と見るマルクスの論点は、近代経済学でもその前提になっていると思います。マルクスの理論は古くて失敗した学説だと見なすことは、労働価値説と科学技術応用生産(キリスト教(プロテスタント左派)と数理論理教の融合)という資本主義の大前提を見失ったからだと思います。
 需要供給曲線かどうだとか、需要不足のための乗数効果による財政出動が必要だとか、金利やマネーサプライの操作などの学説は、上記の「大前提」の上に成り立つ枝葉のものだと思います。
 しかし、あまり必要でない商品を利潤目的のみのため大量に生産して、心理的洗脳広告により大量消費する社会は、ちょっと考えると狂気じみているようにも思いますが…
参考、『レーニン』ロバート・サーヴィス著 岩波書店、『マオ 誰もしらなかった毛沢東』ユンチアン著 講談社
 
 
4、科学技術は経済と軍事に同時的に影響する。軍事と資本主義は結び付いている。
 科学技術は、軍事と経済の両方に不可分的に影響を与えます。3で見たように、相対的剰余価値の拡大には科学技術は不可欠なものですが、軍事も科学技術による機械化が効率的な破壊力に不可欠です。どこかの国のように科学を平和利用だけに用いるなどということは絵空事だと思います。科学技術の影響は、当然に軍事と経済に不可分的に影響を与えます。
 また科学技術の進歩のためには、純粋に(利潤・利権的目的から離れた)基礎科学を研究する必要があります。非営利的で、科学信仰を伴う、莫大な予算や人材を投入できる組織が必要です。軍事技術の研究も今ではまったく純粋に科学技術の研究なので、米国の膨大な軍事予算は、科学技術の進歩のために決定的な影響を与えていると思います。
 資本主義的な行動様式(行為義認)を、それを信奉していない国・地域に強制的に受容させるためには、軍事力や謀略が不可欠です。この科学技術に裏打ちされた軍事力により、資本主義(その根源の数理論理教など)は世界標準(世界宗教)となり、普及しているのだと思います。
参考、『帝国主義、植民地期から現在まで』ハリー・マグドフ著 大月書店、
 
『ペンタゴンの頭脳 世界を動かす軍事科学機関』・『ナチ科学者を獲得せよ! アメリカ極秘国家プロジェクト ペーパークリップ作戦 ヒストリカル・スタディーズ』・『エリア51 世界でもっとも有名な秘密基地の真実』アニー・ジェイコブセン著 太田出版
 
 
 
 米国のマンハッタン計画(巨大科学プロジェクト)が、軍事の根源的な担い手を軍人から科学者に変えることになりました。膨大な資源と多数の科学技術者を動員した巨大プロジェクトは、様々なシステム設計が考案され、短期間の間に他に類を見ない強力な兵器(原子爆弾)を誕生させました。 科学者が奇跡を見せ、科学は神聖化されるようになりました。
●軍事科学を進化させるためには、手段は選ばない
 戦後、米国は「ペーパークリップ作戦」により確保したナチスの科学者たち(ユダヤ人の強制労働に関わった者もいた)を利用して、各種の科学プロジェクトを立ち上げました。月面着陸で世界中を狂喜させたアポロ計画の主要な幹部たちは、ほとんどが元ナチスの科学技術者たちでした。(ソ連もナチス科学者たちを連行して、研究レベルを上げました。米国とソ連の争奪戦だった。)
 また「スプートニクショック」のような軍事科学技術の遅れという失態を二度と生じさせないために、米国はDARPAという軍事科学開発組織を極秘裏に作りました。その組織は、純粋な基礎科学者たちだけで構成されていました。固定観念のある企業研究者や軍事関係者らは排除されました。この科学エリートらが先導して、様々なモノになりそうもない奇抜な研究に投資していきました。軍事科学と言っても、未来的に何が有用になるかは分からないため、多様な科学技術の発想=「芽」には、取り敢えずすべて援助して、モノになるを待ちました。この制度のおかげで、インターネットやシュミレーション技術、リレーショナルデータベースなど、後に社会経済に重大な影響を与える多くの科学技術が生まれました。
参考、DARPA

  資本主義の誕生には、戦争のための軍需産業による大量効率化生産体制や資本の集中化が重要な要因になっているようです。

5、資本主義の暗黒面
 この行動様式はマイナス面も多いと思います。
●公害、科学技術による環境汚染、健康被害、モノカルチャー化などの文化破壊
 公害、科学技術による環境汚染、健康被害、モノカルチャー化などの文化破壊などは、どうも隠蔽されがちです。資本主義の行動様式が「行為義認」であれば、それを行えなくなる主張は邪教であり、絶対認められないことになると思います。民間企業の公害の後始末に、よく政府の税金が使われることがありますが、「必要悪」とでも考えているかのようです。
 スティグリッツの外部不経済の一要因として見るぐらいでは、このマイナス面は足りないと思います。人間社会が滅ぼうとも、信仰が重要だと考えるかもしれません。
●マフィア経済
 資本主義の信仰面などまったく持たない、単なる偶像崇拝的な精神性のもと、反社会的で悪質で強欲な利潤獲得を目的にした、マフィアのような組織が蔓延るようにもなると思います。
 このような組織は、実質的には単なる犯罪組織でありながら、経済ブレーヤーのような皮を被り、政治的な利権に食い込み、罪を科されることなく、人を食い物として、利潤の蓄積のみをおこなっていると思います。
 資本主義的な販売というのは、元来誇大広告・詐欺的な面もあるように思いますが、それは営業力があるという誉め言葉になっているようで、マフィア経済に親和性があるかもしれません。何か世話しない感じがします。
 またあるマイノリティーグループは、その高い知的能力(どんなに貧しくとも、その人たちは幼少時から徹底的に教義(膨大な書物とその注釈)を畳み込まれ、またそれに対する議論を弁証的に行わされる)を基に、あらゆるものを貨幣価値に換算して、様々なドラマ(シナリオ)を作り、巧妙に貨幣を収奪してしまっているように思います。それは、表でも裏(アンダーグラウンド)も行われ、法律と金融を支配して、世界的な収奪組織を形成しているようにも思われます。
参考、『マッド・マネー』スーザンストレンジ 岩波書店、『強欲の帝国』チャールズ・ファーガソン
 
 
6、資本主義への抵抗
●国家社会主義
 資本主義とは、効率的に付加価値(科学技術応用による利潤)を稼ぐことがすべてに優先されて行われます。倫理的な善行などは、一つ間違えると利用され騙されて搾取されるだけの、愚かで無能な行為に見なさられてしまいかねません。
 このようないびつな行為様式に強く嫌悪を抱く民族・人たちもいると思います。
 人間的な深い道徳心など、価値に換算されないので、まったく重要視されません。反論すると、強力な科学応用兵器で沈黙させられて、現代的な植民地にされます。(マグドフの本で、形式的に独立している国を支配する方法が詳述されてました。)
 この資本主義的な行動様式に対抗しようするため、過去又現在も「国家社会主義」とう体制が試みられていると思います。無制限で節操のない生産・消費などによる利潤獲得競争など、真っ平御免だということでしょう。統制のある秩序だった世の中が必要だ。こういう考えは心情的には受け入れやすいし、一見もっともですが、残念ながら人為的な腐敗の「塊」になることが多いように思います。
 この頃思うのですが、戦前の大日本帝国の「反資本主義の国家社会主義の信仰」は、戦後も密かに進められていたのではないか。戦後は偽装した経済版の大日本経済帝国を築いてきたのではないか。そして密かに中国共産党を援助して、対米の中華を利用した大アジア帝国を作ろうとしたのではないか。(大東亜共栄圏の二番煎じ)
 大日本経済帝国(開発独裁、労働者の人権無視、国家的な企業保護による輸出拡大による富の蓄積)は、一時世界を席巻しました。しかし米ソ冷戦終了後、米国が経済にも力を入れられるようになり、また日本の共産圏に対する防波堤の役割が乏しくなったため、この大日本経済帝国は謀略により壊滅させられたのではないでしょうか。(第二の敗戦)
 米国からすると、こう思ったかもしれません。「俺達が核戦争を前提に死にもの狂いで戦っていたうちに、お前らは俺達の技術を盗み、国家ぐるみの陰謀で金儲けしてたのか?そしてあわよくば経済占領しようとしてたのか?もうゲームオーバーだ。」
 『インサイドインテル』ティム・ジャクソン著 翔泳社によると、インテルの研究分野の創始者のロバート・ノイスは日本を恨んでいたそうです。インテルは当初半導体のメモリーを開発していましたが、日本に技術を盗まれ、国家的な保護を受けた日本の大企業に量産されてしまったことに憤っていたようです。
 その後、世界に冠たる日本の半導体産業は、台湾と韓国の企業を競争者にされ、貿易管理により、徹底的に潰されたようです。
 またノイスは米国版の国家的半導体プロジェクトを立ち上げ、意趣返ししたようです。
 何かデジャブのようですが…
 米中戦争の最終決戦が目前に迫るなか、日本は下手をすると、第三の敗戦を迎えるかもしれません。今度はカルタゴのように塩を撒かれるかもしれませんね。
●グローバリスト
 最近、グローバリストには2種類あるとのことを聞きました。
 一つは、経済的なグローバリスト、これは政治経済を普遍化・超効率的にするという考え方のようです。民主主義や資本主義の制度はそのままですが、より統制色を強め、世界統一の政治経済体制を築こうと考えているようです。
 もう一つは、教条的なグローバリスト、これはイルミナティーのような、プラトン原理主義のような考えだと思います。これはもう、国家社会主義の思想の方に親和性があると思います。
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強欲の帝国、強欲資本主義、腐敗撲滅戦争が必要なのは米国か?

2015-04-10 20:03:31 | 資本主義
『強欲の帝国』チャールズ・ファーガソン著 早川書房を読了しました。
 
 サブプライムローン問題は詐欺的なものとは思っていましたが、ここまで、米国の金融機関、政府、監督官庁、大学の教授など含めて腐敗しているとは思いもよりませんでした。中国も自壊寸前で腐敗撲滅戦争を始めたようですが、米国も開始しないと自壊するかもしれません。
 
※サブプライムローン問題については、以前『ユーリ・バンダジェフスキーが見たもの』の中で、私の理解していた範囲で簡単に説明しました。

「リスクを計算するには、ある「リスクモデル」が必要になります。しかし、その前提となるデータ(危険率など)をどのように選択するかについては、やや人為的な影響を受けると思います(時として政治経済的な思惑も影響すると思います)。
 「米国のサブプライムローン問題」の時には、統計的に想定されたサブプライムローン(信用率の低い人向けの貸付、金利は高い)の危険率が実態より過小評価されていました(実際の危険率ははるかに高かった・デタラメだった)。
 その原因は、まったく支払能力がないような人達に詐欺的な方法により借入れさせて、債権化し、大量に高利回り商品を作ったことによるものです。
 格付会社もそのデタラメを見抜けませんでした(というか見逃していた??)。
 支払い能力のない人たちが次々にデフォルトしたため、サブプライム商品の価値は急落し、それを取り込んだポートフォリオ商品の価格も急落しました。世界中の金融機関・投資会社・運用会社が「サブプライム関連商品」を資産として持っていたため、資産価値の急落→債務超過・デフォルト、信用不安による貸出縮小、ついには金融システムの崩壊を引き起こし、「経済大恐慌」寸前までに至りました。
 つまりポートフォリオ理論による計算をする前提の、基のデータ(サブプライム債権)の危険率が間違っていた(詐欺的・デタラメだった)のです。
 間違った(詐欺的な)危険率を基に数学的なポートフォリオ計算をしても、そのポートフォリオ計算(数式)そのものは正しいですが、最終的な想定リスク(危険率)は間違ったものになります。(引用終わり)」
 
 サブプライムローン問題は、一部の倫理観のない会社などが詐欺的な商品開発・販売に関わり、それが不動産価格の長期に亘る上昇、金融工学への過信(基データの詐欺性がポートフォリオ組成により隠蔽された)などとも相まって、バブルの宴のようになり、(米国内外の)多くの金融機関や機関投資家などが巻き込まれてしまったものだと思っていました。

 しかし、特に投資銀行と言われる金融機関は、サブプライムローン(ポートフォリオ商品、それをリスクヘッジする様々な商品など含め)が「クズ商品・クソ商品」であることを十分理解していながら、顧客に「適格な投資商品」であると(嘘をついて)勧め、大量に販売していたようです。
 民間会社である格付け会社は、その手数料を発行会社からもらっているため、どんなにクズ・クソ商品でも、AAAなどの適格な各付けをしていたようです(これは詐欺的行為の幇助、いや詐欺的行為そのものだと思います)。
 また投資銀行は、クズ・クソ商品を大量販売しただけでなく、バブル崩壊に近づくと、その「顧客に販売した商品」の空売りも大量に行い、またその「販売した顧客の会社自身」の空売りも行っていたようです(クズ・クソ商品まみれで倒産確実なため)。もはや「利益相反」の極みとも言えるようなことを平然とやっていたようです。
 
 そして、各金融機関では、クズ・クソ商品を大量に販売し合いながら未曾有の利益を上げていたようですが、その利益の多くを会社幹部やトレーダーらの高額なインセンティブとして「現金配当」していたようです。
 要するに、会社がクズ・クソ商品まみれになって倒産してしまうおうが、その前に多額の(数億から数百億円の現金)ボーナスをもらってしまうので、まったく関心などないようです。リーマンショックにより数十兆円の血税が大手金融機関などに注ぎ込まれたようですが、その会社幹部の高額の退職金やボーナスなどは、まったく制約がなく、満額支払われたようです。
 
 これらは、詐欺的な取引などではなく、「ポンジ・スキーム」のような「詐欺商法そのもの」だと著者(ファーガソン氏)は言っています。要するに、サブプライムローン問題は、犯罪者が架空の財産(サブプライムローン債権)をあたかも価値があるように見せかけて、次から次へと世界中から資金を巻き上げていった「組織犯罪」であり、商取引的な行為などは欠片もないということのようです。

 しかし、上記のような「犯罪的な取引」⇒「組織犯罪」は、まったく取り締まられなかったようです。実刑が科され、その損害をすべてを賠償(又は懲罰的な賠償)させるようなことはまったくなかったようです。もっとも悪質な投資銀行も、少々の和解金を払って、始末書のようなものを出して、一件落着となってしまったようです。
 レーガン、クリントン、ブッシュ、オバマ政権では、「回転ドア人事」という政府と特に金融機関との人事交流により、「取り締まられる業界の幹部」と「取り締まる側の官庁の幹部」が仲間内の人事になり、様々な規制が骨抜きになってしまったようです。そして政権の幹部として規制緩和⇒取締り規制の骨抜き(犯罪的行為がし易い環境作り)をすると、退任後にその恩恵を受ける業界に入った場合、ご褒美として多額な報酬を得ることができるようです。
 共和党も民主党も、この金融機関との癒着関係があり、政策は右と左で違いますが、政治家のインセンティブに対する獰猛さは同じようです。日本での55年体制と同じく、適当にガス抜きしながら、しっかり両党とも利権を拡大してきたということでしょうか。

 また有名大学の経済関係の教授は、金融機関から多額の報酬を得て、この詐欺商法を擁護する論文なり講演を行っていたようです。「規制緩和」「金融工学」は自由競争に必要だと思いますが、取締り規制・監督規制を骨抜きにしてしまえば、強欲な犯罪行為があちこちで野放しになってしまうのは明白なことだと思われます。

 また証券アナリストや様々な調査会社も、この詐欺商法を幇助していたようです(詐欺商法が円滑に進むための宣伝行為)。日本のアナリストは提灯付け(証券会社の推奨銘柄の宣伝行為)が多いようですが、米国のアナリストも詐欺商法の幇助者だったようです。
 
 そして現在でも、上記の犯罪行為はまったく裁かれていないようです。

 中国は物凄い腐敗により、市民革命か民主改革(どちらも共産党が潰れる、断罪される、さらし首にされる)が必須とみられ、起死回生の習近平氏の大改革(腐敗撲滅戦争)が行われています。
 
 米国もこのままでは、市民革命か民主改革(どちらも既存の共和・民主党は潰れる、政党・金融機関幹部は断罪される、さらし首になるかもしれない)が必須なのではないでしょうか。ロシアの情報誌などでは、アメリカの市民革命云々の話が時々出ることがありますが、単なる謀略的な情報ではなく、本当に爆発寸前なのかもしれません。そういう意味では、「腐敗撲滅戦争」は米国にも必須なようです。

 中国のアジアインフラ投資銀行構想にヨーロッパの国々(米国の同盟国なども)や発展途上国などの多くのうに国々が参加を表明しているようです。上記のような米国の金融詐欺行為(犯罪行為)がまったく裁かれないで、犯罪首謀者たちが涼しい顔をして未だに主要な地位にいるのを見ていたら、そのような素性の人たちと一緒にやるのは御免だ、中国の下心も見え見えだが、腐敗撲滅戦争を遂行している習近平に賭けてみても良いのではないか、少なくとも保険はかけても良いと思っている国は多いと思います。

 
 また、上記の同盟国の反乱は、欧州の覇権回復を目指した戦略とも見れるようです。
パワーシフト~欧州が米国を捨て、中国についた日』北野幸伯 [国際関係アナリスト]ダイヤモンドオンライン
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リスク研究の始まり?スイス・オランダでのプロテスタンティズム・資本主義・近代科学

2014-01-14 20:41:55 | 資本主義
放射線防護学でも、リスクモデルが取り入れられているようです。

 そもそも「リスク」の研究はどのように始まったのでしょうか?

 今から15年ほど前、『リスク』ピーターバースタイン著 日経ビジネス文庫を読んだことがあります。
 
 その中では確か「大数の法則」が始まりだったようなことが書いてあったと思います。そしてそれはヤコブ・ベルヌーイという数学者が確立しました。
 
 このヤコブ・ベルヌーイの子孫や弟子たちは天才が揃っており、「近代数学」を確立したと言っても良いのではないでしょうか。

 ヤコブの弟、ヨハン・ベルヌーイ
 ヨハンの子、ダニエル・ベルヌーイ 

 あのレオンハルト・オイラーもベルヌーイ家に弟子入りして一緒に暮らしていたとのことです。

 この一族はスイスとオランダを拠点にしていたそうです。スイスはスパイス貿易の地中海から内陸部に流通するための一大集積所(陸の貿易港)だったようです。そしてその大きな流通経路はアルプスを下りオランダに至るものでした。

 なぜスイスに大手金融会社と製薬会社があるのかと不思議に思っていましたが、どうもこのスパイス貿易にルーツがあるようです。スパイスといえば中世では、金にも匹敵すると言われてましたから、それを集積・流通させるということは「金融」に当り、スパイス(植物)研究は「製薬」に繋がったものとかと思います。

 またオランダとスイスでは、プロテスタント運動が盛んで、カルヴァン主義が興隆しました。

「予定説」と「全的堕落」の教理で有名ですが、私の個人的考えでは以下のようなものだと思います(私の妄想です、私はいずれの宗教にも属しておりません)。

〔中世は、カトリックの教会中心主義・形式主義・秩序だった教え、つまり「神父という人間の教え」や「教会という権威での教化」が主流をなしていたと思います。世俗社会(王権)との確執もありましたが、それも調整され、保守的な秩序体系を構築していたと思います。その当時は金儲け(金融業など)は蔑む職業だったようです。

 しかし、商業が発達し、自由な思考が行なわれ始めると、宗教的な考えも変わっていったようです。

 ただ単に教会や神父の形式的な教えに従っていても、真の救済はありえないのではないか?なぜなら神とは絶対的な存在なのであり、神父(人間)や教会などが介在していては、真の神の教えを知ることはできないのではないか?
 ただ神の言葉である「聖書」のみを基にして、その言葉に絶対的に従うことこそが正しいのではないか?「免罪符」や人為的な脚色などに縋っても何の意味もないのではないか?

 人間はまったく堕落していて自ら努力しても救済などは有得ない。「救済」は神のみが決めることである。

 このような考え方は「聖書至上主義」に結びついていきます。聖書のみを忠実に実行するグループが現われました。
 
 さらに、神(聖書)と直接的に向き合うということによって、自らが進んで神との「交信(神性を感受)」をするために様々な努力をしていくことになったのだと思います。これは欧米での「大覚醒」運動に見られるような熱狂的な行動にも結びついていったようです。
 
「聖書」にある言葉は形式的な「記号」ですが、その言葉の奥深い意味を積極的に探ろうという方向に進んでいくと、その論理性を突き詰めるようになると、科学的(数理論理的)な思考と非常に親和性が高くなっていったのだと思います。科学研究は神性感受の一つの方法となったのではないでしょうか。

 また一方では、神への絶対的忠誠として、「禁欲的な労働」を重視する考えに結びついていったようです。そして「禁欲的な労働の成果=利潤の量」は世俗的な儲けではなく、神の絶対的忠誠の証として見られるようになったようです。そして、いつしか神が救済する人の「印」ではないかと考えるようになったのではないでしょうか。つまり「予定説」です。

 マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で詳述された禁欲的勤勉主義=予定説のことです。
 私はこの本を約20年ほど前に読みましたが、単なる社会学的な「学説」だと思いました。あの強欲な金儲け主義と純真で敬虔的な信仰が結びつくはずはないと思いました。
 
 しかし、上場会社の社史・創業の理念・社訓などを見てみますと、単なる金儲けで会社を興した創業者はほとんどいないように思われます。何らかの敬虔的な職業思考や旺盛な研究意欲が基になり、まるで新興宗教を立ち上げるように同志(社員)を集め、勤行のような会社経営をおこなっているように思います。

 私は「会社」とはある意味「宗教と似た精神主義的な団体」なのではないかと思うようになりました。単なる「金儲け」ではなく、何らかの精神主義的な理念を基に団体運営が行なわれるような気がします。

 そして、ロン・チャーナウ著の『タイタン』〔ロックフェラーの伝記〕を読んだことにより、その考え方は決定的になりました。
 
 
 ロックフェラーは巷では「金儲けの権化」のごとく言われていますが、上記の本で描かれたロックフェラーの生き方は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」そのものでした。

 貧しい家庭の厳格なプロテスタント一家に生まれ、会計学校を出て、商社で修行し、石油精製の会社を若くして創業します。的確な会計処理、絶え間ない技術向上への思い、すべては神への信仰とともに、禁欲的な勤勉主義により会社は伸びていきました。ロックフェラーは山師などではありません。その後の寡占・独占体制も勤勉主義(競争)がもたらした弊害とも言えるかもしれません。
 なおロックフェラーの後半生は、神がもたらした莫大な利潤を、神のために還流させるための寄付行為に全精力を傾けました。

 このような宗教的な勤勉主義ほど資本が拡大する要因はないと思いました。ただ単なる拝金教のような考え方では、異常な資本の拡大増殖というものは不可能だと思います。

 ただ会社が成長して、官僚的な組織になっていくと、創業時の精神主義的な理念が薄まり、単なる金儲け集団に変貌してしまい、やがて倫理的に崩壊して会社が傾くことになるのではないかと思います。〕

  「リスク」=「確率」「統計」の研究がが行なわれ始めたのは、主にスイス・オランダでの宗教的な考え方が変化して、科学的な考えとの親和性が高まり、また一方では資本主義の精神が確立された時期だったようです。

 また「リスク」を研究することによって、初めて人間は未来を予測できるようになったのだと思います。
(ある仮定のリスクモデルを構築することにより、ある程度の未来の予測を行なえるようになりました。未来を予測できるのは、「宗教的な神」ではなく、数理論理という抽象的な思考そのものになりました。)
 特に賭博や投機行為という世俗に塗れた世界で、この研究は物凄く役立つようになりました。科学的思考(数理論理教)が世俗の金儲けにも役立つことが分かり、その後一気に市民にも普及していったのではないでしょうか。



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