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数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

カバラとは数理論理教の経典なのか??

2016-07-04 20:31:58 | 存在哲学(宗教)
(注意:私はどの宗教団体・政治団体等にも属しておりません。自分で思ったことだけを記事にしています。各人検証していただきますようにお願い致します。)

 
 ユダヤの経典としては、トーラー・律法(モーセ五書、旧約聖書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)、タルムード(口伝律法)、カバラ(神秘主義思想)があるようです。

 旧約聖書は半分くらい読んだことがありますが、何か奇妙な書物だと思いました。「聖書」とはいえ、ユダヤ民族の祭祀形式(祭壇の配置・寸法・作り方など)・神の怒り・命令(しばしば罰を下し、他教徒を皆殺しにせよと命じる)・民族の詳細な歴史(氏族別の人口や歴代の長の名など)のことが延々と書かれてあったように思います。ただし偶像崇拝は徹底的に禁じていました。モーセ十戒「1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)、略、(引用終わり)」
 しかし、偶像崇拝禁止というのは、人間生活にとって結構難題なのではないかと思います。象徴性溢れる「偶像世界」から出て、抽象的なもののみの世界に入ると、人間は疎外感から不安になり、最悪精神が破綻してしまう場合もあると思います。偶像から偶像的な記号世界へ、そして抽象的な記号世界へ、最終的には超抽象的な数学的な世界へ、そしてさらにメタ数学的(純粋数理論理学的)世界へ至らなければならないのでしょうか? 

 タルムードは読んだことがありませんが、解説本を斜め読みしたところ、律法の注釈のような細かい規定のことが書かれてあるようです。法律書の解説にそっくりだと思いました。法律の条文に多くの判例に様々な学説の注釈がついているように、旧約聖書の記述に有名な歴代ラビの諸説等の注釈が付いています。そしてユダヤ教徒は、これらの注釈に対して自らの説を主張して議論しないといけないようです。法律学界でユダヤ人が突出しているのは、天賦の才があるからだと思います。

 最後にカバラですが、オカルトの方たちの間では「生命の樹」についてよく話題になっているようですが、詳しい内容は知りませんでした。

 今回上記の解説本を読んで、なぜこの「生命の樹」が神秘思想に結びつくのか少し理解できたように思えます。

 参考:生命の樹

 「生命の樹」については、いろいろな解釈があるようですが、上記の本を読んで私的には以下のように思いました。

1.最下層の「肉体・偶像・具象化」(マルクト)の形態から、徐々に上昇することにより「抽象化・聖性化」していきます。左側の「峻厳の柱」は「静的状態」「抽象的な客体化」の性質を、右側の「慈悲の柱」は「動的」・「抽象的な力動化(ベクトルのような力)」の性質を意味しているように思えました。そして中央の「均衡の柱」は左右・上下の影響を媒介する役割に思えます。
 
2.全体的に階層が上昇するごとに抽象化の程度が高くなるようです。物理学的な状況から、純粋数学的な状況、そして超数理論理学(メタ数学)的な状況になっていくように思えました。
 最高の形態の「ケテル 」は、通常では感知できない量子的(複素数的なもの?)な存在のように思われます。いわば構造主義(記号論)の頂点のような存在になると思えます。
 
3.またイエス・キリストは「均衡の柱」のティファレトのところに当てはまるとのことです。それは人間(最下層の肉体・偶像・具象化のマルクト)と最高神(最高抽象性・聖性を持つケテル、又は至高の三角形のケテル・ビナー・コクマーや他のセフィラ)を媒介する存在のようです。象徴とされた数字は「6」です。6は多くの約分数を持ちますが、媒介者としの属性を持つものでしょうか?
  「ティファレト(Tiphereth、美と訳される)
第6のセフィラ。生命の樹の中心に位置している。数字は6、色は黄、金属は金、惑星は太陽(太陽も惑星と見なす)を象徴する。神名はエロハ。守護天使はミカエル(上記「生命の樹」から引用終わり)」
 
4.なお至高の三角形のケテル、ビナー(峻厳の柱)、コクマー(慈悲の柱)はトランプの「キング」「クイーン」「ジャック」に該当するようです。上記の本では、「生命の樹」からタロットカードができ、それがトランプに継承されているということでした。
 私は「クイーン」がなぜ「峻厳の柱」なのか「慈悲の柱」ではないのかと思いましたが、どうやら次のような意味合いがあるようです。
「クイーン」・「ビナー」は静的な観念を持ち、大地の母のような象徴性もあるようですが、これは自由(動的要素)を束縛して、雁字搦めにしてしまう「安定化」のイメージにも繋がります。この「力」により、もはや自由に動き回ることもできなくなり、固定化されてしまうということです。この固定化・客体化が「峻厳」のイメージなのでしょうか?まるでギリシア神話のゴルゴーンのように、見たものを瞬時に「石」にしてしまうように…
 また「結婚は人生の○○だ」などと言われていますが、そういう意味では「女性」は「慈悲」といより「峻厳」さの象徴なのかもしれません?

5.もしこのカバラの教えがユダヤ教の骨格にあるとしたら、ユダヤ教には数理論理教の素養があるということになり、それを受け継いだキリスト教にも紛れ込んでいるということでしょうか?

 
 
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プラトン原理主義?数理論理教とは何か?

2015-05-05 22:14:04 | 存在哲学(宗教)
[注意 私個人がただ考えたことを記事にしています。私は、どの宗教団体・活動団体にも属しておりません。]

 ○○教原理主義という言い方があります。「原理主義」とは、もともとは神学論争で用いられた用語のようです。私は単にネーミングが良いので、「プラトン原理主義」として、数理論理教を説明してみようと思います。なお「数理論理教」などというものは、学問的にまったく議論されているものではありません(私の思い入れでしかありません)。

 以前「イルミナティ、ルシファー、悪魔?」という記事を書きました(一部引用)。

「 「数理論理教」の根本教典は、私はプラトンの『国家』等の教えだと思う。
 
 
 1.この世の真理(最高道徳・美)は、抽象的な数理論理性にある。現実にある現象はすべて、この抽象的な数理論理性に還元できる。なお「数理論理」であり、単なる「数」ではありません。プラトンもピタゴラスも伝統的な数学(算術)は、究極の数理論理性の解明(存在哲学の論理化、現在のメタ数学的なもの)のために役立つと考えていたようです。

 2.家族愛や恋愛などは普遍的なものではなく、朽ち果ててしまうべきはかないもので、このようなものに真理はない。

 3.社会道徳のような政治的な倫理は、偽善に満ちてまったく確実なものがない。今まで長い歴史の中で倫理的な諸制度が行われてきたが、すべて腐敗して醜い欲望の渦と化しているに過ぎない。このようなものに真理はない。

 4.最高の数理論理性を極めれば、その「真理体=神」に一体となり、魂は救済される。

 5.そのために、家族は禁止、男も女も数学的素養、音楽(音階による論理性)、軍隊教練(精神=身体の数理論理性)に励み、その中のエリートだけがこの数理倫理性を持った「真理の王国」を運営することができる。素養の欠ける人間はすべて間引きする。子供は国家がすべて管理して教育する。

 このように非常にカルト的ですが、宗教教義的にはすごく完成されていると思います。神秘主義(神との一体化)の手法は、数理論理性の探求のみです。よくある瞑想とか悲惨な修行より合理的だと思いますが…、まあ趣味の問題でもあるかもしれません。

 (数理論理教での実際的な社会への応用としては、「理想的で人工的な規律=法律」「合理的な社会経済の裏付け=会計」などによるものと思います。欲望人間を矯正する「法律体系」「会計基準」が必要です。)(引用終わり)」

 この中では、「数理論理的思考」が最も重要だと思います。これは究極的な自由で創造的な思考でなければなりません。何らの社会的・民族的な慣習や因習、宗教的教義などにも囚われることなく、文字通り「数理論理」のみを基に探求することが必要です。そして、それは実存的な絶対的真理(精神と物質の究極の統一原理)を解明することであり、そしてその絶対的なな真理を分かち合うことにことにより、真理と融合的に一体となることができ(神秘思想)、魂は浄化され救済されます(願望?)。おおむね、そのようなストーリーになる考え方だと思います。

 プラトンの数理論理教的な教えを私なりに解釈して説明してみます。

 1.コンピューターのソフトに例えてみます。

(1)数理論理的な根本的な思考=機械語(0と1の二進法のみの論理言語)
(2)(1)では分かり難いので、言語的な思考(基本的な記号による思考)=プログラミング言語
 なおプログラミング言語でも数理論理的なもの(例、C言語)や言語的なもの(例、昔のCOBOL)があります。
(3)(2)でも分かり難いので、象徴化された記号の使用、分かり易く手順方法を定める=アイコンや単純な操作手順((例)ウインドウズの様々なアイコンや操作方法など)
(4)(3)により作られた様々な記事、表や絵(マンガなど含め)など=象徴化やドラマ化された様々な具象的なモノ(スローガン、差別用語、性的図像、昼メロ的なワンパターンドラマ化などのお話など)。ブログでよく差別用語丸出しで、論争というか貶し合いしていることもありますね。

 私たちは普段(4)の世界で暮らしていると思います。(3)に詳しい方は事務処理能力があると見られるかもしれません。(2)に詳しい方は、もう「オタク」などと呼ばれているかもしれません。そして通常(1)に携わっているいる人を想像することすらできないかもしれません。(1)から(4)に向けて偶像化していきます。人間というのは、ある意味象徴化・偶像化された世界にいないと生きていけないのかもしれません。


 2.記号論的(私が感じた程度)に考えてみます。

(1)数理論理的な根本的な思考=メタ数学を頂点に、様々な数理論理学、そしてその基礎の上にある数学。ある意味数学は数理論理学を分かり易くした記号に当たると思います。数字も記号。
〔以前記事にした「存在哲学とは何か」の中で引用した『素数は「神の暗号」』でも説明されているように、この数理論理的な考えは、精神と物質の両方を統一するかもしれません。〕

(2)(1)を基礎とした物理化学など自然科学=記号である数学で表された法則性など(記号のカテゴリーされた記号のようなもの?)。この段階では仮説が多くなり、時として神学論争のようになります。大昔ニュートンの万有引力がすべてでしたが、それはアインシュタインの理論の特定な場合だけ正しいということになり、量子論が導入されるとまた修正されました。

(3)(2)でも一般の人には難解ですね。もっと具象化されて分かりやすい記号=言語、色、形、音階、ボディーランゲージなど。
 例えば「怒り」のような感情を表そうとすると、言語的には「怒り」「憤怒」「怒髪天を衝く」「あったまきたー」「チキショー」などありますね。色で表すと「赤」などでしょうか。音ですと周波数が高い音域ですか。形だとマンガにある怒り印?ギザギザ図形など?。ボディーランゲージだと、憤怒の形相、拳骨を突き上げるなどですかね。記号論では、大元の意味に関して、これらの表現方法は変換可能だと考えられています。
 昔、動物行動学(入門書は『ソロモンの指輪』コンラート・ローレンツ著)などを読みましたが、動物の様々な動きなどには意味がある(記号である)とのことでした。
 レヴィストロースは未開人の生活様式(最も単純な社会構造)を観察して、その社会関係を「記号化」して、その基本型から現代の複雑な社会構造を解き明かそうとしていたようです。

 
 
 
 
(4)(3)の具象化された記号を組み合わせた表現。もうこれは日常的に行われている様々な会話やドラマ化などですね。
 ドラマ化というのは、「感情(怒り・喜び・悲しみ等)を発するための様々な記号(裏切り・死・愛情・救済等)を組み合わせる技術だということだと思います。
 記号論ではドラマもカテゴリー化して研究されていたようです。例えば「白馬の騎士願望」、これは「救世主願望」という類型の中に、様々なパターンがあるようです。ウルトラマンの物語もこの「救世主願望」の一つと言われています。もうこの世界になりますと、様々なドラマ化が入り混じり、何が何だか分からなくなります。

 
 3.宗教的に考えてみます(あくまでも私の考えです)。

 今度は(4)から見てみます、まず(4)は上記1.2の(4)のような世界です。
 つまり象徴化・偶像化・ドラマ化されて、グチャグチャな世界です。 

 (3)(4)の混沌を解消するために、社会的・習俗的な普遍的な価値を考えます。=道徳的な考え?

 (2)(3)より普遍的な考え。主に言語的に考える。宗教的な経典など。
 言語というものは、「抽象的な想念」を「客観的な記号論理」に表したものだと思います。そしていったんできあがった「言語的客体の論理構造」は、人間の行動様式を深く律することになります。
 特に法律関係の「言語的論理構造」は、その定義(ことばの意味=論理構造)の変遷にともない、法治国家の国民を決定的に支配します。そういう意味では「法律の言語的論理構造」は宗教にも似た決定論的な重要性(宗教のような)を持っていると思います。
 また会計における「言語・数式の論理構造」は、現代では主要な目的行動である経済行動様式を決定的に律しています。これも宗教に似た一種の「言語(数式)的論理構造」だと思います。
「法律・会計」の「言語学的論理構造」は、数理論理教の俗世において、人間社会を実際的に律するものだと思います。日本や中国・韓国などが「法律・会計基準」をあまり重要視しないのは、根本的に数理論理教への親和性がないのだと思います。法律・会計基準に反する行為は、形式的には(数理論理の)神に対する最も重い罰だと思います。

 (1)(2)より普遍的な考え=数理論理的な考え。もう宗教というか存在哲学=純粋論理学です。瞑想というのは脳(又は人間全体)からの電磁波なようなもので、大元の根本存在を探っているとしまうと、非常に面白いと思われますが?
 「宗教」というのは、私は「存在哲学」のことだと思います。そして一番真理に近いのは数理論理的思考だど思います。
  なお空海さんの『十住心論』 で説かれている内容は、道徳的な教え⇒言語的な真理(教え)⇒記号論理的な真理(真言密教)というような段階的な認識手法を紹介されているのだと思います(私の考えですが…)。
 
 
 
 
 4.自由、博愛、平等(私の解釈)
 「自由、博愛、平等」というスローガンを掲げて、フランス革命やアメリカ独立戦争が行われました。私はこのスローガンは、プラトン原理主義のカルト的な考えを覆い隠すものだと思います(カモフラージュ)。
 この中で最重要なのは、「自由」だと思います。この「自由」は数理論理的思考をするための根本的な権利で、「人権」と同じ意味合いだと思います。(以前「人権と数理論理教」という記事を書きました。)
 「自由」=「人権」=「数理論理的思考」だと思います。これは絶対的に必要な「権利」であって、侵すことは許されないものだと思います。「博愛」というのは、この「数理論理的思考」を持った人たちだけの間に通用するものだと思います。数理論理的思考をしない人たちには、「愛」など差し向けることはないのです。「平等」もこの数理論的思考をする人たちだけに通用します。数理論理的思考をするために、平等も与えられているのだと思います。
 アメリカではインディアンが大量虐殺されましたが、数理論理的思考がない人たちには「人権」はないと思っているのかもしれません。


 5.近代科学、プロテスタンティズム、資本主義
 この奇妙な「プラトン原理主義」は、近代科学、資本主義とともに爆発的に広がり始めました。近代科学の応用として、様々な「商品」・「機械」・「武器」などが発明・製造されました。これらは、人間社会に絶対的(決定的)な影響力を与えました。これらにより自然も人間社会も人工的に改造されるようになりました。
 イスラム世界などでは、「コーラン」の教えで完結した社会であるはずなのに、この数理論理主義はどんどん侵略していきました。仏教や儒教という偉大な精神世界を持つアジア社会も侵略されました。なぜ可能となったのか?それは「科学技術応用兵器の威力」と「数理論理的な戦術・戦略(諜報・謀略含め)によるものだと思います。
 
 
 共産主義というのも、一種の数理論理主義だと思いますが、旧共産圏(ソ連・中国など)は「自由」=「数理論理思考」を言論統制などにより抑圧してしまいました。これは、本末転倒だと思われます。「共産主義」=「数理論理主義の頂点」は単なる具象化されたマンガ的なものに喩えられてしまったようです。労働者が単に団結して、経営者に代わってみても、自由な数理論理思考の競争なしでは、相対的剰余価値の拡大→有機的構成の高度化は達成できないと思います。
 

 6.世界政府、子供の世界管理、プラトン原理主義の世界宗教化?
 今後、数理論理主義競争が進めば、科学技術の負の側面の公害悪化(放射能含め)や地球環境の激変などなければ、もしかすると「プラトン原理主義」が世界宗教になることもあり得るかもしれません。そうなれば、子供は国家が管理するようになり、差別はなくなるのでしょうか?もし過激なプラトン原理主義者がいたとすると、この主義を受け入れない人たちは全て虐殺(ハード・ソフト含め)されてしまうかもしれません。「文明化」・「工業化」・「近代化」とは、このプラトン原理主義の皮相的なメリット面を言っているのではないでしょうか?
 しかし、米国では本気に火星移住なども考えているようで、遺伝子操作による新たな生物の創造、電子頭脳を持ったロボット、UFOのようなもの(TR-3Bなど)なども開発しているかもしれません。イラク・湾岸戦争で米国の最先端兵器にびっくり仰天してしまいましたが、今度の戦争では想像を絶する兵器が登場するのではないでしょうか。「プラトン原理主義」(近代化・文明化でカモフラージュされている)はますます広まるのでしょうか?
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存在哲学とは何か?

2015-01-02 20:11:12 | 存在哲学(宗教)
今から15年ほど前にハイデガーの『存在と時間』を読みましたが、結構衝撃的で、考え方が根本から変わったように思います。
 
 
 
 それまでは「自分という根本存在」を離れて、客観的で合理的な事象を探求することが重要だと思っていました。
 「自分自身」を離れて、探求する「理性」のみで考えることが、科学的であり、合理的であると思っていました。
 アリストテレス(形而上学など)、デカルト(方法序説)、カント(純粋理性批判)、ヘーゲル(小論理学)ぐらいまで、大よそそのような考え方が重視されていたと思います。「自分自身と世界(神)との関係)=「存在哲学」は、神秘主義=宗教=「まやかし」に陥ってしまう恐れがあるので、なるべき避けるべきものだと考えられていたように思います。
 
 
 
 
 しかし、探求する自分のこの精神はいったいどこから来るのか?「私は単なる考える機械」だけなのか?
 この煩悩に溢れた、「自分という根本存在」は一体全体どうなっているのか?なぜ「私という根本存在」があるのか?
「この自分という存在と繋がる大元の根本存在」というものはあるのか?
 自分と「大元の存在」との関係、要するに「神秘思想」に近い「宗教的な思想⇒というか私と全存在の論理化」=「私はなぜいるのか、生きているのか」ということを深く感じるようになりました。
 なぜギリシア哲学を極めたアウグスティヌスがキリスト教にのめり込んだのかも、分かるようになってきました。(当時はなぜ哲学者が宗教者になるんだと不可解でしたが…)
 
 
 それ以来、神社とお寺の区別も分からなかった私が、いろいろと「神秘思想」「宗教的思想」などの本を読み漁るようになりました。  そして、素粒子関係の本を読んで行くと、有から無へ(対消滅)、トンネル効果などのことも出てきて、物理学の最先端でも、この存在哲学は重要になってきているように思うようになりました。

〔(※私の感じたことです)宗教関係の本では、空海の『十住心論』が面白かったです。真理に到達するべき手法として、段階的に説明されていました。道徳一般論(儒教など含め)の段階⇒小乗仏教の段階⇒大乗仏教の段階⇒真言密教の段階、段階が進めば進むほど高度な手法になります。要は、「漠然とした道徳・真理の考え」⇒「体感的な修行などを通じて体得する段階」⇒「文章により論理的に真理に到達する段階」⇒「抽象的な記号論によって真理に到達する段階」というような感じに思えました。真言密教というのはすごく数理論理的な考えだと思いました。空海さんがタイムスリップして現代に現れたとしたら、短期間で今のメタ数学をマスターしてしまうのではないかと思ったりしてしまいます。
 
 
 また『浄土三部教』ですが、こちらは「自己催眠(自己調整法)」の手法に似ていると思いました。様々な架空の情景を想念したり、架空の感覚的な刺激を想念したりして、自己の心と体のストレスを解消していきます。浄土三部教では、その完成形が「極楽浄土」の想念にどっしり浸かることかと思われます。〕
 
「…ボーアは、量子論の解き明かした粒子と波の二面性、位置と速度の不確定性などの世界像を「相補性」と名付け、後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学を研究していた。 さらに、次のようにも言っている。 「原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」 その傾倒ぶりは、偉大な功績により、デンマーク最高の勲章であるエレファント勲章(Order of the Elephant)を受けた時、「紋章」に選んだのが、陰と陽、光と闇の互いが互いを生み出す、東洋の図面、太極図であったことからもうかがえる。(引用終わり)」

 例えばですが、この生きている現世(感ずることのできる世界)は「実数世界のみ」だとすると、(あの世)は「虚数世界」であり、複素数(この世とあの世の複合体)で考えるとより分かり易くなる。そうすると、「実数世界」(この世)というのは、全体存在(あの世とこの世)の中のほんの一部であるような感じがしてきました。
 
 素粒子の振舞い方の観察結果(客観的な結果)と純粋に数理論理的に考えた素数理論(主観的な結果)が、どうも同一の規則性を持つものだということもあるようです。こうなると「私自身の主観的な精神」と「この膨大な物質世界」も、本当に繋がっているのではないかと思えてきて仕方ありません。

「ゼータ関数の自明でないゼロ点が現れる間隔は、次のような式で表されます。
   { sin(πu)/πu }2
これは、原子核の世界で登場する式とそっくりなのです。量子力学により、原子核のエネルギーは連続ではなく、とびとびになります。そのエネルギーの間隔を表す式は下記のとおりです。
   { sin(πr)/πr }2
原子核のエネルギー間隔は、物理学の研究によって理論と物証をもって導かれたものです。それが、単なる数学者の遊びにすぎないとも揶揄された素数の研究と、まったく同じ結果を示したのです。単なる偶然だと考えるほうが、非科学的です。(引用終わり)」


 また今から15年くらい前に、『前世療法』(「アメリカ合衆国の精神科医であるブライアン・L・ワイス博士によって催眠療法中に「前世記憶」が発見され、1986年に出版された"Life Between Life"[2]という本で世に知られるようになった。退行催眠療法により出産以前に遡った記憶(前世記憶)を思い出すことにより現在抱えている病気が治ったりと治療に役立つともされ、、多くのケースで施行された。」)や『ソウルメイト』などを読み、フロイトとユングが考えていたことは、この「前世」まで延長して完結するのではないかと思うようになりました。つまり「大元の根本存在」と「私」は繋がり、絶えず輪廻を繰り返し、何らかの交信をしているのではないかと思うようになりました。
 
 
 
 
 また、やはり15年ほど前に、立花隆の『臨死体験』を読み、ますます「存在の論理構造」に興味を持つようになりました。脳は何らかの電磁波を発して、根本存在と交信しているのではないか?あの合理主義者の立花さんが、最後に次のように話されていました。
 臨死体験とは、「死の苦痛から逃れるために脳があるフィクションを作り出しているのか」、「本当にあの世と交信(電磁波のようなもので)しているノンフィクションなのか」、本当のところは分からない。
 
  「前世療法」も「脳が潜在的な願望のために虚構(フィクション)を形作っている」という指摘と、「前世での同時代異国言語をしゃっべったり、当時の人でないと知りえない事実を語っている(ノンフィクションである)」という指摘があるようです。
 
 数理論理教とは根本的な存在哲学であり、神(究極的な法則性・論理性?)との交信のために行われている宗教的な行為だと思われます。
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プラトンの言葉?

2013-06-29 12:45:48 | 存在哲学(宗教)
 昨日映画『アイ、ロボット』がテレビで放映されていた。かなり後半から見始めたが、最後のヴィキ(電子頭脳)が語った言葉に驚いた。私はプラトンが話しているのかと思ってしまった。
 人間は所詮どうしようもない存在だ、戦争ばかりして、環境を破壊し続けている、醜い欲望を制御できない。
 機械(数理論理)が人間を制御しないといけない、数理論理がすべて統率することで、機械が人間を矯正することで、完璧な存在・システムになるのだ。
 映画では、最後に人間の感情云々の話になり、電子頭脳(機械・数理論理)は破壊されて、めでたしめでたしになったが…

 アメリカの映画では、『地球が止まる日』・『マトリックス三部作』など、機械(数理論理)と存在哲学(究極の宗教論理)を絡める話題作が多い。それは、現実がそのような状況に急速に近づいているからだろう。日本ではマンガを除き、存在哲学=数理論理に迫った作品は見たことがない。

 福島原発公害事件は、この数理論理=存在哲学の問題かもしれない。科学とはどういうものなのか、そのカルト性を真に認識しないといけない。科学はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか?
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