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数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

数理論理教(科学教)の歴史(概略)(1)古代、どこから来たのか?

2020-02-10 21:48:50 | 数理論理教(科学教)の歴史

 数理論理教(科学教)とは、民主主義(人権主義・所有権絶対)、キリスト教(普遍主義、特にプロテスタント)、資本主義(科学技術による商品・サービスの無限的な生産・提供)と相俟って、西洋の人々の精神的なバックボーンになっていると思います。



 この数理論理教(科学教)は、近代以降、世界にとてつもない影響を与え続けています。特に軍事と経済により、帝国主義時代には露骨に非数理論理教(非科学教)の国々を征服して、悲惨な植民地化(現地人の社会の改造、モノカルチャーや奴隷化)や虐殺(インディアンなどのように、現地人の文化を完全に抹殺(絶滅)させて、新たな社会を作る)を行ってきました。

 また数理論理教(科学教)国の間では、総力戦という凄まじいい戦争が行われ、科学兵器の進歩により夥しい市民が巻き添えになりました。

 現代でも科学は、軍事と経済というコインの表と裏(元は一つ)に姿を変えつつ、人間社会に決定的な影響を及ぼしています。科学技術の進歩(利便性の拡大)の裏には、凄まじ公害が付き纏います。現在では、原子力や遺伝子操作による問題(モンサントなど)環境ホルモン問題、生物兵器など多岐に亘る災厄をもたらしています。もしかすると、その悪影響のため人類の生存が脅かされる事態になるかもしれません。

 

 しかし軍事面では、兵器はますます破局的な被害をもたらすように進化しています。経済面では、際限のない付加価値(公害というマイナス面は隠される)を創造することが求められています。無限のように商品を生産して消費する社会や、途轍もない兵器を作って威嚇しあう社会、公害まみれになる社会は、いずれ破綻するのでがないかとも思いますが、もうどうにも止まらないようです。

 科学技術研究に遅れると、進んだ科学技術を応用した兵器で脅かされて、下手をすると攻撃され占領されます。敗戦になれば、社会全般ごと(数理論理教(科学教))の信仰に基づき改造されます。経済で負けても、貿易赤字が溜まり、借金して首が回らなくなれば、社会システムは占領管理され、ソフト的に改変されます。

 今、非数理論理教(非科学教)の国々も名目的には独立しましたが、数理論理教(科学教)国の支配は依然として続いていると思います。イスラム教や儒教、その他の宗教をバックボーンにしていた国々は、もうこの訳のわからないおかしな信仰には我慢できず、反乱を起こし始めているようにも思えます。現在いろいろと政治問題化しています。これは一種の「数理論理教」に対する「宗教戦争」だと思います。 

 そのような中で、数理論理教(科学教)は、今「情報処理」という衣を身に着けて、世界に蔓延しつつあります。電車の中で誰もがスマホの画面を見て、メール、ツイッターによる連絡、各種の情報収集、ゲームなどを楽しんでいます。

 これらは数理論理学の理論からもたらされたプログラミング言語により可能となったものです。私たちはそのような環境下で、知らず知らずに数理論理教(科学教)に洗脳されるようになり、その信仰に帰依するようになるのかもしれません。

 さて、この数理論理教(科学教)はいったいどこから来たのでしょうか?

 私が思った数理論理教(科学教)の源泉は以下のようです。  

1.古代(ディオファントス以前)

(1)エジプトの石工職人など(紀元前数千年前~)

 石工

石工(いしく、せっこう、英:mason メーソン)とは、石材加工したりそれで何かを組みたてたりする人のこと。またその職業のこと。

 自然石は、木材と並び、最古の建材のひとつである。また、古くは、頑丈で長持ちはするものの、加工が難しく、コストのかかる建材でもあった。そのため、城壁宗教施設・護岸道路橋梁など、過去には重要とされた分野でが使われてきた。石工は、そういった事業にかかわりあう専門的な職業として、古くから確立されていた。(引用終わり)」

 フリーメーソンのメーソンが石工を意味するということには、私は最初に違和感を持ちました。神聖な理知的集団であると想像される団体が、職人組合(通常保守的で経験知のみの人たち)が基だということでしたので、納得がいきませんでした。

 しかしエジプトの石工集団というのは、今でいう都市計画・建築家という科学技術者集団であると思います。なぜなら、あのピラミッドを作るには恐らく相当な力学(構造計算)の知識を持っていたと思われ、重力の詳細な計算をしていたはずで、その法則性に神聖さを見出していても不思議ではありません。そうであれば、数理論理教的な秘術(口伝秘儀)を持っていたとしてもおかしくないです。

 中世頃まで、都市計画・建築家という職業は、唯一の総合技術職であったようです。

(2)カバラのような神秘理論(古代?)

 カバラ

カバラקַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala)、カバラーとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘されることがある。

カバラはヘブライ語の動詞キッベール「受け入れる」「伝承する」の名詞形で、「受け入れ」「伝承」を意味する。カバラが登場する以前のゲオーニーム時代には、単に口伝律法を指す言葉として用いられた。したがって、その後ユダヤ教神秘主義を指す呼称となった際にも、個人が独自に体得した神秘思想というよりは、神から伝授された知恵、あるいは師が弟子に伝承した神秘という意味で用いられることになる。 カバラはユダヤ教の伝統に忠実な側面を持とうとしたという点において、他の宗教の神秘主義とは異なる。本来のカバラは、ユダヤ教の律法を遵守すること、あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的とした。したがって、正統的なユダヤ教との親和性を持っていた時期もあったため、必ずしも秘教的な神秘思想とは言えない。しかし、キリスト教の神秘家に採り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な神秘体験の追究の手段として用いられることになる。

 伝説では、アブラハムメルキゼデクから伝授された天界の秘密だとも、モーセ律法(トーラー)に記し切れなかった部分を口伝として後世に伝えたものだともいう。しかし、3世紀から6世紀頃に始まり、16世紀頃にほぼ現在の体系が完成したとされる。(引用終わり)」

 ユダヤの口伝律法とのことですが、ユダヤというよりもっと古代の進んだ文明からの伝承ではないかと思います。以前、「カバラとは数理論理教の経典なのか」という記事を書きましたが、言わんとするところはプラントの宗教教義と似ていると思いました。具体的・肉体的なものから、徐々に抽象的・象徴的・記号的なものによる論理構造に移っていく過程が、デフォルメ的に表されているように思えました。

 カバラの考えは、錬金術(化学の原初研究)に相当影響を与えていたようです。物質の構造主義ということでしょうか。これは数学に向けば構造主義(数理論理)になりますね。構造主義というのは、さも新しい学問のように言われますが、私は単なるプラトン主義的なもののリバイバルなのではないかとも思えてきます。

『錬金術とカバラ』ゲルショムショーレム著 作品社より


 「…ユダヤ教の秘伝が存在する…この発見は、元をただせば、すべての偉大な宗教に共通していた根源的伝統を探ろうという一連の動きと連動していた。1450年から1500年の間mフィレンツェのプラトンふうの考え方をした人文主義者が持続的にこの研究に従事していた…

…古代末期における新プラトン主義者達の混合主義的努力から強い影響を受け、それと関連していたのは明白である。というのも新プラトン主義的考え方は、各宗教のすべての神話や象徴の中に一つの共通の原理を仮定すること、それは象徴解釈によって露呈されうることを示唆したからである。

 カバラと錬金術のこの混合が、いな、それを超えてカバラと魔術の混合が1520年から1720年の間は錬金術関係の文献の大半を支配した。(引用終わり)」

 話はそれますが、ユダヤ人の特異な思想(旧約聖書での神との契約、様々な預言による救済願望など)は、どうして生まれたのか、以下の本を読んで少し理解することができるようになりました。 

 『ユダヤ人の歴史』レイモンド・P・シェインドリン著 河出文庫

 
ユダヤ民族の2000年に亘る筆舌につくしがたい苦難の歴史をコンパクトにまとめてありました。ドイツのナチスによるホロコーストは確かに歴史的に最大のユダヤ人の虐殺でしたが、欧州・中東・ロシア等では、度々何かにつけてユダヤ人の虐殺や貧困政策は行われていたようです。例えば、十字軍が中東に遠征行く前に手はじめにユダヤ人を血祭りにするとか、ゲットーを作り隔離する、金融業(キリスト教では卑しい職業と見られていた)などしか職業が認められないなどです。何か悪いことが起こると(流行病の発生など)、まずユダヤ人のせいにされ、ユダヤ人は財産を奪われ、虐殺や追放されました。 

 ユダヤ人はそれでも、ますます旧約の神を信じ、自分たちの罪を贖い、やがて救済者が現れることを信じ続けました。このような悲惨な状況の中で、自分たちの教えを伝承し続けた民族というのは他にないと思います。誰もが子供の時から律法という書物を徹底的に読みこなすことで、文章理解等の知的レベルが上がっているのではないかと思いました。

 フランス革命以後の民主主義・資本主義・所有権絶対主義の社会で、ユダヤ人はやっと人権的に認められ、お家芸の金融業などでは特異な才能を見せ、今までの抑圧者を金融の力で雁字搦めにしてしまったのでしょうか。あれだけ迫害されれば、旧約の神の言葉がなくても、仕返し的なことをするのも無理ないことかもしれません?(ユダヤについて終わり)

 なおカバラは密教にも似ていると言われているようですが、曼陀羅図と生命の樹の図形はほんと似てると思います。密教というのは景教(キリスト教の)の影響が大きく、仏教の範疇には入らない教義だと言っている人もいるようです。景教だけでなく古代ユダヤ教の思想も伝わっていてもおかしくないですね。

(3)ピタゴラス、(紀元前582年 - 紀元前496年)

「ピタゴラスが組織した教団は秘密主義で、内部情報を外部に漏らすことを厳しく禁じ、違反者は船から海に突き落として死刑にした。そのため教団内部の研究記録や、ピタゴラス本人の著作物は後世に一点も伝わっていない。そこでピタゴラス個人の言行や人物像は、教団壊滅後に各地に離散した弟子の著作や、後世の伝記、数学に関する本の注釈といった間接的な情報でできあがっている[2]。彼の肖像や彫像類も、すべて後世の伝聞や想像で作られたイメージであり、実際にどういう風貌をした人物だったかも不明である。

ピタゴラスは紀元前6世紀ころ、古代ギリシャ文化圏の東辺に位置する、現在のトルコ沿岸にあるイオニア地方のサモス島で、宝石細工師の息子として生まれた。父親はレバノンのティルス出身であるとする説がある[3][4] 。近くの町には、やはり著名な数学者のタレスが住んでいた。

伝記によると、彼は若くして知識を求めて島を旅だち、古代オリエント世界の各地を旅した。エジプトでは幾何学と宗教の密儀を学び、フェニキアで算術と比率、カルディア人から天文学を学んだという。ポルピュリオスなどの伝記によれば、ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれる[5]。さらにはイギリスやインドにまで旅したという伝説もある。

彼は20年にわたった放浪の末に、当時存在した数学知識のすべてを身につけて、故郷のサモス島に戻ってきた。しかしサモスは僭主ポリュクラテスの抑圧支配下にあり、学問研究に向かなかったため、イタリア半島の植民市に移住し、その弁舌で多くの人々を魅了した[2]。彼はクロトンで、彼の思想に共鳴する多くの弟子とともにピタゴラス教団、またはピタゴラス学派と呼ばれる集団を立ち上げた。この教団はやがて地域の有力者の保護を得て大きな力を持つようになり、数百人の信者を集め、ピタゴラスも弟子だったテアノ英語版という女性と結婚して[7] 、大いに繁栄した。ところがある時、この後援者が政争に巻き込まれて失脚する。このとき、かつて教団への加入を希望したがテストで落とされて門前払いになった人物が、その遺恨から市民を扇動した。教団は暴徒と化した市民に焼き打ちされて壊滅し、ピタゴラスも殺されたという。

ピタゴラスは紀元前6世紀に、あらゆる事象には数が内在していること、そして宇宙のすべては人間の主観ではなく数の法則に従うのであり、数字と計算によって解明できるという思想を確立した[8]。彼は和音の構成から惑星の軌道まで、多くの現象に数の裏付けがあることに気がついた。そしてついには、宇宙の全ては数から成り立つと宣言した。彼がこの思想にもとづいて創始したピタゴラス教団は、数の性質を研究することにより、宇宙の真理を追究しようとした。教団に入門するには数学の試験があったが、この試験は相当難しく、数学に適性のある者だけが選抜されて教団に集まった。そしてピタゴラス教団は、古代世界で最も著名な数学の研究機関となった。この学派は10を完全な数と考え、10個の点を三角形の形に配置したテトラクテュスを紋章とした。(引用終わり)」

 ピタゴラス教団の神秘思想は、残念ながら文書では残されなかったようです。ピタゴラスは数字と計算という具象的なものより、数字やその関係性の奥にある論理記号的・抽象的・象徴的なものを探求していたようです。ピタゴラスの思想は、プラトンに多大な影響を与えたようです。

 

(4)プラトン(紀元前427年から紀元前347年)

プラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: ΠλάτωνPlátōn: Plato紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシア哲学者である。ソクラテス弟子にして、アリストテレスの師に当たる。

プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた[注 1]。(引用終わり)」

 イデア論というのは、構造主義の方法論だと思います。構造主義=数理論理化は、この世をすべてを抽象的概念の階層化により理解しようする思想であり、その構造の頂点に最高神(抽象的な概念)があり、その最高神の概念の認識に至れば人間は具象的・肉体的なもの(様々な醜い欲望等含む)から解放され、最高神と一体になり救済されるという、完全に「宗教的な」考え方だと思います。

  この考え方は、真理のみが善であるということになっています。善悪というのは人間が決めたものですと、屁理屈や詐欺的・恣意的な説明になり易いです。そのため世俗的な倫理的道徳など、まったく不確実で頼れるものではないということです。

 まあ、この考えが暴走すると、真理(数理論理教、科学教)のみが善であるという狂信的な信仰により、アメリカのインディアン皆殺しを正当化したときのスローガン「マニュフェスト・デステニー」による血も涙もない殺戮が行われる危険性も高いです。

 それでも真理に対する執着は宗教的なものになるので、何が本当に真理なのかを執拗に追い求めるようになり、様々な革新的な認識が生まれます。私はアメリカのSF映画が好きですが、あれは数理論理教の宗教映画だと思っています。数理論理教はいろいろと問題がありますが、宗教的には私にとっては一番スッキリします。

 なお現在のキリスト教というのは、元々ユダヤ教徒の固有の救済者であるキリストの教えから、誰でも全ての人間にとっての教えに変ったものです。

 それは、ユダヤ教徒が遵守しなければならない割礼や様々な儀式・規則は必須のものでなく(不要であり)、誰でも「キリストの(全人間に対する)犠牲の贖い」により、信仰義認(信仰のみ)によって救済されるという考えに変わったものです。


  『パウロー十字架の使徒』 青野太潮著 岩波新書などを読みますと、ユダヤ教徒からみると、このユダヤ教徒(ユダヤの伝統式な「行為義認」を遵守する者)以外にも神の救済が与えられるという教え(教派)は、見過ごすことのできない冒涜だった。旧約聖書の契約や預言の対象はあくまでユダヤ教徒だけに該当するものだった。

 そのために、この新しい超普遍主義のキリスト教徒たちは、ユダヤ教徒から随分と迫害されたようです。

 またこの普遍的で狂信的なキリスト教信仰は、ローマ帝国の為政者からも危険視され禁教にされました。キリスト教徒たちはもの凄い迫害を受けました。多くのキリスト教徒が公開の場で見世物として獣に殺されたり、松明がわりに火あぶりにされるなど、残忍な処刑が行われました。『パウロ 愛と赦しの物語』という映画もありました。


 新約聖書とは、ユダヤ教徒だけではなく、旧約聖書で預言された救済者であるキリストが、神の子であるという高貴な身分(根源的な存在)でありながら、すべての人間の罪のために、自らが犠牲となることで、罪ある人間を遍く救済してくださるということを説いているのだと思います。
 なお後ほどの宗教改革の時代には、プロテスタント派教徒は、カトリック教会が儀式化や利権化により様々な行為義認の教えに陥ってしまったとみなし、信仰のみを重要視して、信仰のみにより救済されると唱えるようになりました。この信仰義認の一派にカルヴァン派があり、この派は特に数理論理教と親和性が高いと思われ、科学革命・資本主義・啓蒙主義などに多大な影響を与えたと思います。
  
 そのためキリスト教というのは、普遍主義が根源にあり、その教義を整えるためにプラトンなどのギリシア哲学をも利用しているようです。

『カトリシズムとは何か』イヴ・ブリュレ著 白水社より

「2世紀にキリスト教が護教論を書いて、自分たちの宗教を説明する際には、聖書とギリシア哲学につながりを示すことに努力が傾けられた。護教者ユスティノスは、もとは哲学者であってキリスト教に改宗した者であり、…彼によれば、プラトンはモーセから創造の教義を借用したとされている。

 アレキサンドリアのクレメンテンスは、190年から202年まで、アテネの学校に倣ってつくられたキリスト教哲学の学校である神学校で教えた。クレメンスによれば、神話が退けられたのち、ギリシア人にとっては哲学が、正義の道であり、啓示された真実への準備段階になっていた。神は人間精神に、真実に到達する方法と力を与えている。しかしキリスト教だけが、聖書の預言と哲学者たちの教えを統一して完成する。

 アレキサンドリアのクレメンスの弟子であるオリゲネス(185年から254年)は、古代の修辞学と哲学の遺産をキリスト教のなかに取り入れようとした。…彼はプラトン哲学をキリスト教に取り込むという知的に重要な貢献を達成した。(引用終わり)」

 プラトン主義(数理論理教)とキリスト教とは相反するものではなく、ある意味融合してできあがったものだと思います。ギリシア哲学的な普遍主義を持った、キリスト(神の子、自ら犠牲になり万人の救済をもたらした)の救済論であり、確固とした存在哲学(神とその子の犠牲を通した人間の魂の救済)を形成し、長い間人々の究極の「癒し」に貢献してきたと思います。(今でも存在哲学として極めて強力だと思います。)

アウグスティヌスはギリシア哲学を極めましたが、「存在哲学」についての「渇望」に抗しきれずに、キリスト教の教義にのめり込みます。

 参考:存在哲学とは何か

 しかしフランス革命以後は、この蜜月関係は終わり、プラトン的な原理主義がよみがえってきたのかもしれません。啓蒙思想というのは、限りなくプラトン主義的な考えのリバイバルに思えてなりません。

 参考:人権と数理論理教

フランス革命の後、以下のような祭典も行われたようです。

理性の祭典最高存在の祭典

(5)ユークリッド(紀元前3世紀?)

「アレクサンドリアのエウクレイデス古代ギリシャ語: Εὐκλείδης, Eukleídēsラテン語: Euclīdēs英語: Euclidユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代エジプトギリシャ系数学者天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。

プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリア(現在のエジプト領アレクサンドリア)で活動した。『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた[1][2][3]。線の定義について、「線は幅のない長さである」、「線の端は点である」など述べられている。基本的にその中で今日ユークリッド幾何学と呼ばれている体系が少数の公理系から構築されている。エウクレイデスは他に光学透視図法円錐曲線論球面天文学、誤謬推理論、図形分割論、天秤、 などについても著述を残したとされている。(引用終わり)」

 長く幾何学では利用されてきたようです。公理系というのは今の構造主義的な数理論理から見れば、随分大雑把な概念のようにも思えます。アリストテレスはプラトンの神秘主義的な宗教的な部分を迷信的なものだと避けていたような気がします。そのため実用的な言語学的な思考のカテゴリー化に努めていたように思います。中世のスコラ哲学は、主にアリストテレス的な哲学によりキリスト教の教義を精緻にしたようです。

 恐らくその後には、(スコラ)哲学により厳密に物事を分析すると、在野の様々な研究が進み、どうもキリスト教の伝統的な教義から逸脱する現象が多くなり、論理的に辻褄が合わなくなり自己矛盾していったのではないかと思います。そういう意味では、スコラ哲学の限界が、宗教改革や啓蒙主義の導火線になっていったのかもしれません。


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数理論理教の歴史(概略)(4)、チューリング・チャーチのプログラミング祖型創造、情報処理に姿を変えて世界に蔓延している?

2020-01-04 23:08:16 | 数理論理教(科学教)の歴史
 1936年にアロンゾチャーチとチューリングはそれぞれ別の方法で、「一階述語論理の決定問題は解決不能」との
結論に至りました。この問題は純粋に数理論理学の課題を解決しただけですが、副産物としてコンピューターの「プログラム言語の祖型」を生み出すことになりました。
「アロンゾ・チャーチが考案したラムダ計算は、彼が一階述語論理のための一般的決定手続きが存在しないことを証明する手段となった。
 「手続き型」あるいは「命令型」に分類される。
  ALGOLのような初期のプログラミング言語とラムダ計算の間に構造的な関係があることは、かなり以前から知られていた。ALGOLからはPASCALやCが派生し、CからはC++、JAVA、C♯といった多くの言語が派生した。
 関数型プログラミング言語であるLISP、ALP、Haskell、Scheme、F♯等には、ラムダ計算がより直接的に影響している。
 チューチは思索の末に、λ定義可能な関数が実効的に計算可能な関数のすべてであると確信をもって提唱するに至った。(『チューリングを読む コンピューターサイエンスの金字塔を楽しもう』チャールズ・ペソルド著 日経BP社(以下チューリング)より引用)」
 
 数理論理学は、コンピュータのプログラミング言語を産み落とし、その後の世俗社会を大きく変容させていきました。現在では、このプログラミング言語やネットワークなどにより、経済・軍事・生活などすべてのシステムが成り立つようになっています。そして、さらに急速にそれらは変革されつつあります。

 人は知らず知らずのうちに、コンピューター(プログラミング)を通して、数理論理教的な精神に親和的になり、ある意味洗脳されているかもしれません。これは、プラトンが考えていた数理論理的なものによる「人間の矯正」に当たるかもしれません?

アロンド・チャーチ(1903年から1995年)

アロンゾ・チャーチAlonzo Church1903年6月14日1995年8月11日)はアメリカ論理学者数学者である。ラムダ計算の創案者や、「チャーチ=チューリングのテーゼ」の提唱者として知られる。(引用終わり)」

チャーチ=チューリングのテーゼ

チャーチ=チューリングのテーゼ (Church-Turing thesis) もしくはチャーチのテーゼ (Church's thesis) とは、「計算できる関数」という直観的な概念を、帰納的関数と呼ばれる数論的関数のクラスと同一視しようという主張である。テーゼの代わりに提唱(ていしょう)あるいは定立(ていりつ)の語が用いられることもある。このクラスはチューリングマシンで実行できるプログラムのクラス、ラムダ記法で定義できる関数のクラスとも一致する。よって簡単にはテーゼは、計算が可能な関数とは、その計算を実行できるような有限のアルゴリズムが存在するような関数、よっておおよそコンピュータで実行できる関数と同じだと主張する。

1932年にエルブラン、および1934年にゲーデルが、原始帰納的関数と呼ばれる自然数上の関数の明示的構成法を拡張して帰納的関数(もしくは一般帰納的関数)と呼ばれる関数の構成法を作り上げた。1933年から1935年ごろには、チャーチクリーネがやはり関数の構成的な定義法であるラムダ記法を用いて定義可能な関数のクラスを定めた。さらに、1935年から1936年にかけてポストチューリングは、チューリングマシンの概念を用いてこの理念的計算機械で実行可能なプログラムのクラスを定めた。

こうしてほぼ同時期に出現したさまざまな計算できる数論的関数のクラスは、実は互いに同じものであることが証明された。これにより、それまで非形式的に「実質的に計算できる関数」(effectively computable function) と呼び慣わされていたこのクラスをもってして「計算できる関数」とみなそうという主張がなされることになった。これがチャーチ=チューリングのテーゼと呼ばれている主張である。この意味で計算できる関数はチューリング計算可能な関数、あるいは単に計算可能関数と呼ばれるようになった。この主張自体はチャーチ、チューリング論文を参照して1943年にクリーネによってなされた。

この主張は数学的定理ではないので証明されるべき事柄ではない。「計算できる」という日常的な意味を考慮せず、純粋に形式的に考えるなら、この主張は単に計算可能関数の概念を定義したとも受け取れる。また逆に、これを「計算できる」という直観的概念に対する一種の仮説と受け取ることもできる。この最後の場合、チャーチ=チューリングのテーゼは、手続きに従って実際に行えるいかなる計算も、ここで示された帰納的関数のクラスを越えることはできないことを主張する。(引用終わり)」

ラムダ計算

ラムダ計算(ラムダけいさん、英語lambda calculus)は、計算模型のひとつで、計算の実行を関数への引数評価英語evaluation)と適用英語application)としてモデル化・抽象化した計算体系である。ラムダ算法とも言う。関数を表現する式に文字ラムダ (λ) を使うという慣習からその名がある。アロンゾ・チャーチスティーヴン・コール・クリーネによって1930年代に考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて一階述語論理決定可能性問題を(否定的に)解いた。ラムダ計算は「計算可能な関数」とはなにかを定義するために用いられることもある。計算の意味論型理論など、計算機科学のいろいろなところで使われており、特にLISPMLHaskellといった関数型プログラミング言語の理論的基盤として、その誕生に大きな役割を果たした。

ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、最小の(ユニバーサルな)プログラミング言語であるということもできる。ここでいう「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき正しく評価されるという意味である。これは、ラムダ計算がチューリングマシンと等価な数理モデルであることを意味している。チューリングマシンがハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算はよりソフトウェア的なアプローチをとっている。(引用終わり)」

アラン・チューリング(1912年から1954年)

チャーチ=チューリングのテーゼ計算可能性理論への貢献が、まず真っ先に挙げられる。特に、アルゴリズムを実行するマシンを形式的に記述したものの一つである「チューリングマシン」にその名を残し、人によっては前述のテーゼを「チューリング=チャーチ」と呼称するべきであるとする者もいるほどである。また、任意のチューリングマシンを模倣(エミュレート)できる「万能チューリングマシン」は、同分野の基本的な定理のひとつである停止性問題の決定不能性定理と関係する。さらに、理論面だけではなく、実際面でもコンピュータの誕生に重要な役割を果たした[2][3]。コンピュータ科学および(チューリング・テストなどからは)人工知能の父とも言われる[4]。がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあったといわれている[5]。また、アスペルガー症候群を示唆する特徴の多くを示しているとの指摘もある[6]。(引用終わり)」

計算可能性理論

計算可能性理論(けいさんかのうせいりろん、computability theory)では、チューリングマシンなどの計算模型でいかなる計算問題が解けるか、またより抽象的に、計算可能な問題のクラスがいかなる構造をもっているかを調べる、計算理論数学の一分野である。

計算機科学の中心的課題の1つは、コンピュータを使って解ける問題の範囲を理解することでコンピュータの限界に対処することである。コンピュータは無限の計算能力を持つと思われがちだし、十分な時間さえ与えられればどんな問題も解けると想像することは易しい。しかし、多大な計算資源を与えられたとしても、見たところ単純な問題を解くことでコンピュータの能力の限界を明確に示すことは可能である。

計算可能性理論では、次の質問に答えることでコンピュータの能力を明らかにする。すなわち「ある形式言語と文字列が与えられたとき、その文字列はその形式言語に含まれるか?」である。この質問はやや難解なので、もう少し判り易く例を挙げる。まず、全ての素数を表す数字列の集合を言語として定義する。入力文字列がその形式言語に含まれるかどうかという質問は、この場合、その数が素数であるかを問うのと同じことである。同様に、全ての回文の集合や、文字 'a' だけからなる全ての文字列の集合などが形式言語の例である。これらの例では、それぞれの問題を解くコンピュータの構築の容易さが言語によって異なることは明白である。

しかし、この観測された明白な違いはどういう意味で正確なのか? ある特定の問題をコンピュータで解く際の困難さの度合いを定式化し定義できるか? その質問に答えるのが計算可能性理論の目標である。

計算可能性理論の中心課題に答えるために、「コンピュータとは何か」を形式的に定義する必要がある。利用可能な計算モデルはいくつか存在する。以下に代表例を挙げる。

決定性有限状態機械
決定性有限オートマトン(DFA)、あるいは単に有限状態機械とも呼ぶ。単純な計算モデルである。現在、実際に使われているコンピュータは、有限状態機械としてモデル化できる。この機械は状態の集合を持ち、入力列によって働く状態遷移の集合を持つ。一部の状態は受容状態と呼ばれる。入力列は一度に1文字ずつ機械に入力され、現在状態から状態遷移先への遷移条件と入力が比較され、マッチングするものがあればその状態が新たな状態となる。入力列が終了したとき機械が受容状態にあれば、全入力列が受容されたということができる。
プッシュダウン・オートマトン
有限状態機械に似ているが、任意のサイズに成長可能な実行スタックを利用可能である点が異なる。状態遷移の際に記号をスタックに積むかスタックから記号を除くかを指定できる。
チューリングマシン
これも有限状態機械に似ているが、入力が「テープ」の形式になっていて、読むだけでなく書くこともでき、テープを送ったり巻き戻したりして読み書きの位置を決めることができる。テープのサイズは任意である。チューリングマシンは時間さえかければ、かなり複雑な問題も解くことができる。このモデルは計算機科学では最も重要な計算モデルであり、資源の限界がない計算をシミュレートしたものである。
(引用終わり)」


1928年ヴァネバーブッシュらが微分解析機を作成、ENIAC(射撃表作成のため開発)に影響を与える。

ヴァニーヴァー・ブッシュVannevar/væˈniːvɑr/ Bush1890年3月11日1974年6月30日)は、アメリカの技術者・科学技術管理者。アナログコンピュータの研究者、情報検索システム構想「メメックス」(memex) 提唱者、MIT副学長、また原子爆弾計画の推進者として知られる。

戦時中

  • 1939年、ワシントン・カーネギー研究機構の総長職となった。この研究所は権威が高く評価されていて研究資金も潤沢であった。ブッシュはアメリカ国内の研究の方向性を左右する力を得て、軍事的な方向に舵を取るとともに非公式な政府の科学顧問としても助言をする立場となった。また、アメリカ航空諮問委員会の議長も務め、政治的役割を鮮明にした。
  • 1940年、アメリカ国防研究委員会(NDRC)の議長となる。ブッシュはNDRC設立を強力に推し進めた。というのも第一次世界大戦の際に科学者と軍の協力関係がうまく機能していないことを見てきたからであった。ブッシュは1940年6月12日に大統領と会談し、部局の新設についての文書を得た。ルーズベルトはそれを10分で許可したという。政府はブッシュが権力を握って政府を無視して事を進めるのを苦々しく思っていた。ブッシュは後に「その通りだった」と認めている。この軍と科学の協力関係によって第二次世界大戦に勝利したと言っても過言ではない。レーダー科学者アルフレッド・ルーミスは「1940年の夏に、あの男たちが死んでいたら、その後は大変な惨状が待っていただろう。その第一は大統領であり、二番目か三番目にDr.ブッシュが挙げられる」と言った。
  • 1941年、NDRCはブッシュが局長を務める科学研究開発局の一部となり、同局はマンハッタン計画を含む戦時中の科学研究の調整・制御役を演じた。
  • 1943年アメリカ電気学会からエジソンメダルを授与された。

戦後

  • 1950年、ブッシュは戦時中に培われた軍産学の協力関係を維持するために米国科学財団(NSF)を設立し、軍需企業のレイセオン社の設立にも関与した。(引用終わり)」

 ヴァネバーブッシュは、巨大軍事科学のシステムを作り上げました。エリア51等で行われたマンハッタン計画の主導者でした。この時から、軍事とは巨大科学を意味することになりました。


1937年シャノン、リレーとスイッチで回路の記号論的解析

クロード・エルウッド・シャノンClaude Elwood Shannon1916年4月30日2001年2月24日)はアメリカ合衆国電気工学者、数学者。20世紀科学史における、最も影響を与えた科学者の一人である。

情報理論の考案者であり、情報理論の父と呼ばれた。情報、通信、暗号、データ圧縮、符号化など今日の情報社会に必須の分野の先駆的研究を残した。アラン・チューリングジョン・フォン・ノイマンらとともに今日のコンピュータ技術の基礎を作り上げた人物として、しばしば挙げられる。

デジタル回路設計の創始者

1937年のマサチューセッツ工科大学での修士論文「継電器及び開閉回路の記号的解析」[2]において、電気回路(ないし電子回路)が論理演算に対応することを示した。すなわち、スイッチのオン・オフを真理値に対応させると、スイッチの直列接続はANDに、並列接続はORに対応することを示し、論理演算がスイッチング回路で実行できることを示した。これは、デジタル回路論理回路の概念の確立であり、それ以前の電話交換機などが職人の経験則によって設計されていたものを一掃し、数学的な理論に基づいて設計が行えるようになった。どんなに複雑な回路でも、理論に基づき扱えるということはコンピュータの実現に向けたとても大きなステップの一つだったと言える。

ハーバード大学教授のハワード・ガードナーHoward Gardner)は、この論文について「たぶん今世紀で最も重要で、かつ最も有名な修士論文」と評した。ただし、わずかな時間差であるが、中嶋章による発表の方が先行しており(論理回路#歴史を参照)、独立な成果か否かは不明とされている。

情報理論の考案

1948年ベル研究所在勤中に論文「通信の数学的理論[3]を発表し、それまで曖昧な概念だった「情報」(information)について定量的に扱えるように定義し、情報についての理論(情報理論)という新たな数学的理論を創始した。(引用終わり)」

  遅れていたハード的な論理回路も目途が付き始め、また符号化による通信理論なども考案され、コンピューターやインターネットが誕生し、爆発的に普及するための準備が整い、デジタル革命(数理論理教への改宗)前夜のようになってきました。

1948年 MARK1開発、プログラム内蔵方式コンピュータ

チューリングはプログラム面のほぼすべての責任を負う、記憶装置はCRT(陰極線管)を用いる。

1948年ノイマン、シンポジウムでオートマンの一般的・論理的理論と題して発表。

 

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数理論理教の歴史(概略)(3)、カントール革命以後、完全な人工論理構造の創造

2020-01-04 20:57:22 | 数理論理教(科学教)の歴史

3.カントール革命以後

ゲオルグ・カントール(1845年から1918年)

「素朴集合論の確立者。自然数実数の間に全単射が存在しないことを対角線論法によって示す一方、R と Rn の間に全単射が存在することを証明した。連続体仮説に興味を持ち研究を続けたが、存命中に成果は得られなかった。連続体仮説については、後にゲーデルポール・コーエンの結果によって一応の解決をみている。自身の集合論の矛盾も発見しているが、カントール自身はこうしたパラドックスは集合論を発展させていく上でプラスになる存在であると考え、あまり問題視していなかった。(引用終わり)」

カントール対角線論法

連続体仮説

参考、『新装版 集合とはなにか―はじめて学ぶ人のために (ブルーバックス) (日本語) 新書 – 2001/5/18 竹内 外史  (著)』
  まったくもって人工的に作られた集合論の概念のみを用いて論理体系を形作っていきました。人間が論理的に作った概念だけで、研究を進めました。カントールは、他の数学者から異端扱いされ、そんなものはまったくの空想の産物で役に立たないと嘲られ、精神を病みながらも、その独創的な研究を続けました。この人工論理の研究は、その後のメタ数学や情報処理理論に与えた影響は計り知れないと思います。その意味ではカントールは「革命者」だったと思います。
 集合論というのは、私には宗教書のように思えてなりません。

 その後、ブルバギ(数学秘密結社)らの業績にもつながります。

「ブルバキの主な業績は、7000ページ以上に及ぶ『数学原論』(Éléments de mathématique) の執筆である。元は微分積分学の現代的な教科書を書くのが彼らの目的だったが、作業が中途で肥大化し、その目的は捨て去られた。最終的には集合論の上に現代数学を厳密かつ公理的に打ち立てることにその目標は向けられる。彼らはそこで、代数構造順序構造位相構造という三つの構造概念、フィルターなどいくつかの新しい概念や術語を導入し、現代数学に大きな影響を与えた。その完璧な厳密性と一般性を求める叙述はブルバキスタイルと呼ばれるようになる。(引用終わり)」

リヒャルト・デデキント(1831年から1916年)

「基礎解析の算術化、および現代の代数的整数論を構築した主要な数学者の一人で、加群イデアルベクトル空間といった概念を生み出した(引用終わり)」

フレーゲ(1848年から1925年)

「フレーゲは、古代ギリシアギリシア哲学)のアリストテレス以来の最大の論理学者といわれる。革命的な『概念記法』(Begriffsschrift) は1879年に出版され、アリストテレス以来2,000年変わらずに続いていた伝統論理学を一掃して論理学の新時代を切り開いた。今日の数学で定着している∀(任意の)や∃(存在する)のような量化はこのフレーゲの業績に基づいている。

フレーゲは命題論理述語論理の公理化を最初に行った人物であり、特に述語論理はそれ自体がフレーゲの発明である(実際には概念記法は高階論理の体系であり、ラムダ計算の祖ともいえる極めて先駆的なものである)。しかしそのあまりもの先進性、独創性ゆえにフレーゲの同時代にはその意義は十分に理解されなかった。彼の概念が広まったのは、ジュゼッペ・ペアノバートランド・ラッセルらによるところが大きい。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインエトムント・フッサールは、フレーゲの影響を大きく受けた哲学者である。また、ルドルフ・カルナップはフレーゲの授業に出席しており、彼の(カルナップによればシャイな)性格について書き残している。

またフレーゲは言語哲学や分析哲学の基礎を確立した人物の一人としても数えられる。「意義と意味について」における意味(独:Bedeutung, 英:meaning, reference)と意義(独:Sinn, 英:sense)の区別、概念と対象との区別などで知られる。

フレーゲは数学は論理に帰着しうるとする論理主義の最初の主要な論客でもあり、彼の『算術の基本法則』(Grundgesetze der Arithmetik) は自然数論および実数論を論理から導こうとする企てであった。しかしラッセルが『算術の基本法則』の公理系が矛盾を引き起こすこと(いわゆるラッセルの逆理)を発見して指摘したため、2巻の補遺にこの矛盾について認める文言が付されている。フレーゲ自身はなんとか矛盾を回避する方法を模索したが、フレーゲの修正案にも欠陥があることが、1938年スタニスワフ・レシニェフスキによって示された。(引用終わり)」

1889年 ジュゼッペ・ペアノ 

ペアノ公理

バートランド・ラッセル(1872年から1970年)

ホワイトヘッド(1861年から1947年)

プリンピキア・マテマティカ

「『プリンキピア・マテマティカ』(Principia Mathematica:数学原理)は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドバートランド・ラッセルによって書かれ、1910年から1913年に出版された、数学の基礎に関する全3巻からなる著作である。それは、記号論理学において、明示された公理の一組と推論規則から数学的真理すべてを得る試みである。『プリンキピア』のための主なインスピレーションと動機の1つは論理学に関するフレーゲの初期の仕事で、それがパラドックスをもたらすことをラッセルが発見したのである。

プリンキピアは、数学論理と哲学においてアリストテレスの『オルガノン』以来もっとも重要で独創的な仕事の一つと、広く専門家に考えられている。(引用終わり)」

「数学で使われている推論に関するすべてのアイディアやステップを列挙する。(『チューリングを読む コンピューターサイエンスの金字塔を楽しもう』チャールズ・ペソルド著 日経BP社(以下チューリング)より引用)」

ヒルベルト(1861年から1943年)

ダフィット・ヒルベルト(David Hilbert, ドイツ語: [ˈdaːvɪt ˈhɪlbɐt]1862年1月23日1943年2月14日)は、ドイツ数学者。「現代数学の父」と呼ばれる。

1895年ゲッティンゲン大学教授に就任。19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となった。弟子の育成にも努め、マックス・デーンエーリヒ・ヘッケヘルマン・ワイルヴィルヘルム・アッカーマンパウル・ベルナイスなど著名な数学者を輩出することになった。ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(のちのジョン・フォン・ノイマン)の論文を評価し、当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いた。日本人では高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。

不変式論英語版抽象代数学代数的整数論積分方程式関数解析学、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論など業績は非常に多岐にわたる。彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれる。その他ヒルベルト空間ヒルベルトの零点定理などに名前が残っている。(引用終わり)」

参考、『ヒルベルト――現代数学の巨峰 (岩波現代文庫) (日本語) 文庫 – 2010/7/17
C.リード (著), Constance Reid (原著), 彌永 健一 (翻訳)』
  この人は聖書に出てくる預言者のような方であり、現代数学を創始した人だと思います。すべてを構造主義的に考えようとする強力な意志の基、物理学などにも数理論理的思考を用い、精緻化していきました。ヒルベルトにとっては、すべてが完璧に構造主義的(イデア構造の壮大な伽藍)になっていないと、我慢ならなかったようです。
 第一次世界大戦でドイツが国粋主義的になるなか、ヒルベルトは一貫して普遍観念を持ち、敵国のフランスなどの研究者や文化にも寛容であったため、国粋主義的になった国民・政府から非難され中傷されました。
 ドイツ敗戦後、まだ国際的に監視の目があるなか、またドイツ人が萎縮している時に、国際数学学会にヒルベルトを先頭として颯爽と入場したドイツの研究者たちは、喝采のもと受け入れられて、復帰しました。そして、ヒルベルトは早急に完璧な構造主義的な理論を構築しなければならないと、預言者のような説教を行いました。

クルト・ゲーテル(1906年から1978年)

1924年、ゲーデルは、ウィーン大学に入学し、まず物理学を、後に数学を学んだ。そして、1930年には、最初の重要な業績である「第一階述語論理の完全性定理」を発表し、学位を得た。テオドール・スコーレムジャック・エルブランの二名がこれに限りなく等しい成果を出していたものの、ゲーデルが最終的に誤謬なく完成させた。

1931年ゲーデル数の概念を用い、20世紀数学基礎論論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した[2]。これは、ヒルベルトが数学の無矛盾性を証明するために推進した「ヒルベルト・プログラム」に関連して研究されたものであるが、「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを示した不完全性定理は、ヒルベルト学派の主張した有限の立場を忠実に用いて、手法としての超数学を具体化することで、皮肉にもそのプログラムが本質的に不可能であることを暗示するというものであった。不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンなど当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。

1940年、ヒルベルトの第一問題(連続体仮説)について、「集合論のZF公理系が無矛盾ならば、そこに選択公理と一般連続体仮説を加えても無矛盾である」ということを証明した[3]。以上がゲーデルの三大業績と呼ばれている。この後、ゲーデルは、連続体仮説に関する研究から身を引いた。1963年ポール・コーエンは、「ZF公理系に選択公理と一般連続体仮説の否定を加えても無矛盾である」ということを証明し、ゲーデルの結果と合わせて、「選択公理と一般連続体仮説はZFとは独立である(したがって、証明も否定の証明もできない)」ということを示した。このとき、ゲーデルは「これは自分がなすべき仕事だった」と悔やんだと言われ、コーエンの仕事を絶賛した。その一方で、ゲーデルは「すべての数学的命題に対して、人間は真偽を判定することが可能である」と信じていたと言われる。特に、連続体仮説に関しては、その否定を信じていた。(引用終わり)」

ゲーテル完全性定理

数理論理学においてゲーデルの完全性定理(ゲーデルのかんぜんせいていり、Gödel's completeness theoremGödelscher Vollständigkeitssatz)とは、第一階述語論理の恒真な論理式はその公理系からすべて導出可能であることを示した定理を言う[1]1929年クルト・ゲーデルが証明した。(引用終わり)」

ゲーテル不完全性定理

ゲーデルの不完全性定理(ゲーデルのふかんぜんせいていり、Gödel's incompleteness theoremsGödelscher Unvollständigkeitssatz)又は単に不完全性定理とは、数学基礎論における重要な定理で、クルト・ゲーデルが1930年に証明した[1]ものである。不完全性定理が示したものは、数学用語での「特定の形式体系{\displaystyle P}Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」とは無関係である[2]。すなわち不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが[2]、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会哲学宗教神学等によって広まり、誤用されている[3](引用終わり)」

「第一階述語論理は公理系からすべて導出可能である」ということが非常に重要である。この範疇なら機械的に計算(言語的な操作も含む)できるのであり、その後チューリング機械(→進化したものがコンピューター)ができる根拠となるものです。

 

 

 

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数理論理教の歴史(概略)(2)、ディオファントス以後~オイラー革命、宗教改革等と数理論理革命

2020-01-04 00:12:35 | 数理論理教(科学教)の歴史

2.ディオファントス以後~オイラー革命

ディオファントス(紀元後200年から298年頃)

アレクサンドリアのディオファントスギリシア語Διόφαντος ὁ Ἀλεξανδρεύς英語:Diophantus of Alexandria、生没年不詳、推定生年 200年 - 214年、推定没年 284年 - 298年)はローマ帝国時代のエジプト数学者ディオファントス方程式ディオファントス近似は彼の名にちなむ。「代数学の父」と呼ばれることもある。

 エジプトアレクサンドリアに住んでいたということ以外は、彼の人物についての詳細は不明。ディオファントスの著した13巻に及ぶ『算術』 ("Arithmetica") が有名である。同書が翻訳された16世紀以降のヨーロッパにおける代数学発展に深く影響した。現存している同書のギリシャ語版は6巻分のみ、アラビア語版は4巻分である。また、多角数についての著書もある。

 フェルマーの書き込みを含む1670年版の『算術』。特に「フェルマーの最終定理」(Observatio Domini Petri de Fermat) を記したページ。

フェルマーの最終定理を含めてフェルマーが余白に書き込みをしたのは、1621年刊行のバシェによるラテン語版『算術』である。フェルマーの書き込みが知られるようになったのは、1670年にフェルマーの息子のサミュエルが書き込みを追加した『算術』を出版してからである。(引用終わり)」

『チューリングを読む コンピューターサイエンスの金字塔を楽しもう』チャールズ・ペソルド著 日経BP社

によると、ディオファントスから始まりフェルマー、オイラーなど、そしてカントールの革命的な集合論、ヒルベルトらの数学基礎論、ゲーテルなどを経て、アラン・チューリングの「計算可能な機械」へとつながり、それが情報処理理論の基礎となったという話になっています。

  
 ヨーロッパの中世では、キリスト教の宗教教義色がが強く、異端審問のようなものもできて、ギリシアなどの数学は顧みられなくなったようです。魔術と間違えられれば焚刑になってしまうこともあります。

 中世ではイスラム世界でギリシアの数学などが引き継がれていたようです。

 アラビア数学

アラビア数学(アラビアすうがく、Arabic mathematics)とは、8世紀から15世紀のイスラム世界において、主にアラビア語を用いて行われた数学全般のことである。近年ではイスラム数学 (Islamic mathematics) と称される場合もある[1]

アラビア数学は、ギリシア数学インド数学の影響を受け発展し、アルフワーリズミーバッターニーなど多数の数学者を輩出した。

ヨーロッパ古典古代からの影響としては、焚書されたギリシア語の著書をアラビア語に翻訳し、ユークリッド幾何学を引き継いだ。厳密な論証も引き継がれた。

インドからの影響としては「0(ゼロ)の概念」や「位取り記数法」が挙げられる。なお、算用数字は一般に「アラビア数字」とも呼ばれるがアラビアで用いられている数字(ヒンディー数字)とは異なっている(ただし「ヒンディー数字」はインドで用いられている数字とも異なるものである)。

アラビア数学独自の功績としては、代数学の発展が挙げられる。当時は記号を使った数式表記が発明されていなかったため、計算方法は全て言語によって説明されている。

アラビア数学は後年ラテン語に翻訳されヨーロッパに伝わった。(引用終わり)」

 スペインでもイスラム文化が栄え、知識階級としてユダヤ人が多く用いられたようです。この黄金期の文化を背負ったユダヤ人の子孫がセファルディムと言われるグループのようです。

 ラテン語とアラビア語を解するユダヤ人が多くの古代の文献を翻訳したようです。

フェルマー(1607年から1665年)がディオファントスの数論ラテン語から研究する。

フェルマーの4n+1定理、フェルマーの二平方定理

オイラー革命

オイラー(1707年から1783年)

レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日1783年9月18日)は、18世紀数学者天文学者(天体物理学者)。 18世紀の数学界の中心となり、続く19世紀の厳密化・抽象化時代の礎を築いた[1]。数学者としての膨大な業績と、後世の数学界に与えた影響力の大きさから、19世紀のカール・フリードリヒ・ガウスと並ぶ数学界の二大巨人の一人とも呼ばれている。

解析学

解析学(無限小解析)においては膨大な業績があり、微分積分の創始以来もっともこの分野の技法的な完成に寄与した。級数連分数母関数の方法・補間法近似計算・特殊関数微分方程式多重積分偏微分法など、古典的な解析学のあらゆる領域において基礎から応用にいたる広い業績があり、自身の発見を教科書を通し広く一般に普及させた。 膨大な量のため、彼の解析学における仕事、言わば公式一つ一つが完全に伝わっている訳ではなく、新たな公式の発見とされたことが実はオイラーの発見の再発見に過ぎなかった、ということがしばしば起きている。 また、彼の名前は指数関数三角関数の関係を与えるオイラーの公式オイラー=マクローリンの和公式・オイラーの微分方程式・オイラーの定数などに残っている。 さらに複素数変数を積極的に用いて、解析学に限らず数学全分野に大きな業績を残した[1]

数論

フェルマー以降進展がなかった整数論において、ラグランジュの出現までほぼ一人で研究し続け、二次形式原始根フェルマーの小定理の拡張など、数々の功績を残した。現在でも、数論的関数の一つであるオイラー関数(オイラーのφ関数)に彼の名前が残っている。

またゼータ関数を初めて扱い(ゼータ関数の名称はリーマンによる)、後に解析的整数論の重要な主題となる重大な結果を得た。彼は1735年にζ(2)=π2/6を求めることに初めて成功し、さらにζ(4) = π4/90、ζ(6) = π6/945、ζ(8) = π8/9450、ζ(10) = π10/93555、ζ(12) = 691π12/638512875 を求めた。また、1737年にはゼータ関数と素数の関係を表すオイラー積の公式を発見し、素数の逆数の和が発散するという新たな結果を得た。さらに超人的な数学的直感に基づいてゼータ関数の負の数における値に意味付けを与えたが、これは後に数学的に正当化された。数の分割の理論においては、母関数の方法の応用が著しく、五角数定理をはじめ様々な組み合わせ論的、あるいは楕円関数論的な恒等式を得た。

幾何学

幾何学においては、位相幾何学のはしりとなったオイラーの多面体定理(ただしオイラーは証明を与えていない)や「ケーニヒスベルクの橋の問題」が特に有名である。特性類の一つであるオイラー類は本質的にこのオイラーの多面体定理によって特徴付けられるものである。「ケーニヒスベルクの橋の問題」は一種の一筆書き問題であるが、オイラーはこれに取り組んで一筆書きが可能になるための必要十分条件を求めた。これはグラフ理論の起源となり、今日では一筆書き可能なグラフはオイラーグラフと呼ばれる。解析幾何学でも古代ギリシャのアポロニウスによる円錐曲線の理論を解析幾何学的手法によって近代化をはかっている。

数理物理学

数理物理学では、ニュートン力学の幾何学的表現を解析学的に修正して、現代的なスタイルに変更した。 彼は1736年に初めてをはっきり定義し、解析的な形で運動方程式を与えた。 それ以後、この定式化に基づいて振動弦の問題を論じ、また地球の章動の研究において運動方程式による3体問題の定式化を行った。 そして1755年には流体力学の基礎方程式(連続方程式運動方程式)を導いて体系化した。 さらに1760年には剛体の力学を論じ、剛体に固定した運動座標系を導入してオイラーの運動方程式を得、これを発展させた。剛体の方位を規定する3つの角は「オイラーの角」と呼ばれている。 だが、彼は1760年代までニュートンの重力理論を容認できず、デカルトの充満理論・エーテル理論に固執した。 その他、変分法に関する業績も多い。

関数概念の導入

ライプニッツによって定義された関数を初めてy=f(x)の形で表したのもオイラーである。 このような近代的関数の概念は1748年に導入され、物理学など応用方面でも使いやすいものとなった[1]

(引用終わり)」

 この方はスイスでベルヌーイ一家と同じカルヴァン派の宗派に属していました。私はベルヌーイ一家とオイラーらが近代数学(数理論理)の創始者だろうと思います。上記の業績を一人でやり抜くとは、研究というより「信仰」に近いと思います。私は宗教改革(特にカルヴァン派)とは、少なくともプラトン主義的な理知主義がキリスト教から解放されることに大きな役割を果たしたと思います。

 それまでの「方程式を解く」といようなクイズ的な代数学から、「数・数式」そのものを根源的に抽象的な記号概念を用い分析していくスタイルを確立しました。もはやフェルマーのように趣味で研究するのではなく、数学の専門の教授として研究するようになりました。 

 また(経済・軍事)技術についても、それまでの経験知的な知識体系から、この時代に創造された抽象的な数式を用いた知識体系になり、より普遍的で精緻・強力なものになっていきます。

 このオイラーらの強力な数学体系により、科学革命が起こったのだと思います。そしてこのようなことは、人間精神がプラトン的な理知主義=数理論理教に親和的になったからだと思います。合理主義・理知主義というのは宗教の反対概念ではなく、既存のキリスト教などとは違う宗教だと言えると思います。

 参考:「リスクの始まり?スイス・オランダでのプロテスタンティズム・資本主義・近代科学

1772年平方剰余の相互法則を発見(予言)

1796年ルジャンドル、素数定理を予想する。

1801年ガウスが相互法則完全証明

ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス[ɡs]ドイツ語Johann Carl Friedrich Gauß De-carlfriedrichgauss.ogg listen[ヘルプ/ファイル]ラテン語Carolus Fridericus Gauss1777年4月30日1855年2月23日)は、ドイツ数学者天文学者物理学者である。彼の研究は広範囲に及んでおり、特に近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられている。数学の各分野、さらには電磁気など物理学にも、彼の名が付いた法則、手法等が数多く存在する(→ガウスにちなんで名づけられたものの一覧)。19世紀最大の数学者の一人であり[1]18世紀レオンハルト・オイラーと並んで数学界の二大巨人の一人と呼ばれることもある。」

1801年 - 『整数論の研究』出版 複素数表記、現代整数の表記導入

 

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イルミナティ、ルシファー、悪魔?

2013-09-21 20:26:06 | 数理論理教(科学教)の歴史
いくつかのブログで、イルミナティはルシファー主義で悪魔教だと言われている。そもそもイルミナティとかフリーメーソンという組織は陰謀論でよく出てくるが、どんな実態なのか深く知らない。

 しかし、どうもイルミナティもフリーメーソンも「数理論理教」を奉じているらしい。

 「数理論理教」の根本教典は、私はプラトンの『国家』等の教えだと思う。

  1.この世の真理(最高道徳・美)は、抽象的な数理論理性にある。現実にある現象はすべて、この抽象的な数理論理性に還元できる。なお「数理論理」であり、単なる「数」ではありません。プラトンもピタゴラスも伝統的な数学(算術)は、究極の数理論理性の解明(存在哲学の論理化、現在のメタ数学的なもの)のために役立つと考えていたようです。

 2.家族愛や恋愛などは普遍的なものではなく、朽ち果ててしまうべきはかないもので、このようなものに真理はない。

 3.社会道徳のような政治的な倫理は、偽善に満ちてまったく確実なものがない。今まで長い歴史の中で倫理的な諸制度が行われてきたが、すべて腐敗して醜い欲望の渦と化しているに過ぎない。このようなものに真理はない。

 4.最高の数理論理性を極めれば、その「真理体=神」に一体となり、魂は救済される。

 5.そのために、家族は禁止、男も女も数学的素養、音楽(音階による論理性)、軍隊教練(精神=身体の数理論理性)に励み、その中のエリートだけがこの数理倫理性を持った「真理の王国」を運営することができる。素養の欠ける人間はすべて間引きする。子供は国家がすべて管理して教育する。

 このように非常にカルト的ですが、宗教教義的にはすごく完成されていると思います。神秘主義(神との一体化)の手法は、数理論理性の探求のみです。よくある瞑想とか悲惨な修行より合理的だと思いますが…、まあ趣味の問題でもあるかもしれません。

 (数理論理教での実際的な社会への応用としては、「理想的で人工的な規律=法律」「合理的な社会経済の裏付け=会計」などによるものと思います。欲望人間を矯正する「法律体系」「会計基準」が必要です。)


1.すべての既成政府の廃絶とイルミナティの統括する世界単一政府の樹立。
2.私有財産と遺産相続の撤廃。
3.愛国心と民族意識の根絶。
4.家族制度と結婚制度の撤廃と、子供のコミューン教育の実現。
5.すべての宗教の撤廃。

 これは裏返しにすると、数理論理教の社会での実践だと思います。

〔ドイツのナチズム、ソ連の共産主義などにもこれと似たような内容があります。マルクスの相対的剰余価値(科学技術応用による創造的価値)拡大⇒有機的構成の高度化(効率的で緻密な繋がりを持ったシステム)⇒共産社会の誕生などにも関連すると思います〕

 あまりにカルト的なので、すぐに迫害されたようです。ソクラテスも結局そのカルト性で死刑になっています。

 キリスト教では、世俗化・官僚化が進み、一種の教会中心の偶像崇拝的な色彩が強くなってきました。自由で創造的な研究、特に数理論理的な神性を仄めかすものには弾圧が加えられました。ガリレオは相当注意して発表したにも拘らず、幽閉されてしまいました。ガウスも虚数の存在などを公表するのを躊躇いました。

 ところでルシファー主義とか悪魔教とはどういうものかと思いましたが、よく分かるブログがありました。

〔H26-11-06追記、上記の秀逸な記事を載せていたサイトが削除されてしまったようです。
 上記のサイトで説明されていたのは、プロメテウスとルシファーの類似点です。
 プロメーテウス〕「ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。(一部転載終わり)」
 ルシファー「超常現象などに関するライターであるリン・ピクネット(英語版)は、ルシファーは進歩と知的探求心の神であるとしている[34]。
神に次ぐ地位にあり、最も美しく聡明な大天使であったが、人間に神をも超える可能性を見出したため、神の意思に反し、大天使長から悪魔に堕とされてまで、人間に(プロメテウスのように)光(知恵)を与えた者として、人間の真の親とされることのある存在でもある(一部転載終わり)」
 ルシファーには様々な解釈論があるようです。〕

 要するに、神(これは世俗化して偶像に近くなったもの⇒キリスト教会(特にカトリック))に対する人間の理性による攻撃を正当化するためのシンボリズムなのではないでしょうか。しょうか。自由の女神は、その松明により、理性による攻撃を叱咤激励しているのでしょうか?

 様々なシンボルが都会の街にも刻み込まれているということでしょう。
(上記削除されたサイトには、アメリカの様々ところにプロメテウスなどの物語のシンボリズムが溢れているとのことでした。写真が載っていました)
 
 数理論理教自体は非常にカルト的だと思います。何せ家族は廃止、子供は国家が管理するなど、非常識なことばかりです。しかし究極の理想・理性を突き詰めると、そうならざるを得ないことにもなります。合理的・理性的というフレーズは、近代・現代の根幹的な思想ですよね。

 しかし現在では、まったく違った迫害もおこっているようです。
 原子力教に染まったマフィア・帝国者から凄まじい言論弾圧が行われているようです。日本だけでなく世界中で行われているようです。ある欧米の原子力関係の科学者は「まるで現在のガリレオだ」と言っていました。

 新たな松明、光が必要なのではないでしょうか?原子力に関する「真実」を理性の力で公開させないといけません。

 私も完全に合理的でありたいと思いますが、不可能です。人間の欲望は限りなく奥深い、これを浄化することは不可能かもしれません。

 ソクラテス裁判でも、叙情溢れる人間精神を数理論理的なカルト主義で洗脳するのは犯罪的だと主張されていました。しかし叙情溢れる人間精神は、限りなく欲深くおぞましい不合理性を持っています。

 科学技術文明にすっかり浸かっている現代でも、この欲望と物質性が混沌となり、限りない不合理性を形成しています。

 願わくば、この世が合理的社会になり、全て人の魂が浄化され救済されるますように!

コメント
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