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数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

「日本国体主義」?血盟団事件とは何か、戦前政党政治・自由主義の終焉

2018-01-01 23:21:16 | 国内政治
最近、大正・昭和前期の本を何冊か読みました。

 『血盟団事件』中島岳志著 文春文庫、『昭和戦前期の政党政治』筒井清忠著 ちくま新書、『永田鉄山と浜口雄幸』川田稔著 講談社選書、『高橋是清と井上準之助』鈴木隆著 文春新書、『山県有朋』半藤一利著 ちくま文庫、『マンチェリアン・リポート』浅田次郎著 講談社、『中原の虹』浅田次郎著 講談社、『終わらざる夏』浅田次郎著 集英社文庫、『総力戦体制と「福祉国家」』高岡裕之著 岩波書店、『日本国憲法9条に込めた魂』鉄筆文庫
 
 
 
 
 
 
 上記の本を読んで、また関連するサイトを見て以下の認識を新たにしました。(私がただ単に個人的に思っただけのことです。)

1.血盟団事件の原動力は国体思想
 血盟団事件、5.15事件、2.26事件の「テロ」の背景(原動力)には、強力な民族主義的な精神主義(国体思想)がありました。
 これらは同じ思想的なバックボーンから連続して行われたテロのようです。これらにより最終的に政党政治は潰され、軍部は精神主義を形式的に利用した、ナチス・ソ連の統制経済を模した全体主義体制を構築しました。
 この民族主義・選民思想的な精神主義は今日も日本の潜在意識に息づいていると思われ、自由主義に対しては戦前と同じように危険な思想になり得ると思います。
2.大正・昭和前期の政党政治と軍部独裁体制
 大正・昭和前期には、民主主義的な政党政治が行われ、日露戦争以降の軍縮(軍事予算の削減)や宥和外交、資本主義の進化などの政策が行われました。政党間で金解禁などの論争もありましたが、欧米との国際協調主義は根本的な政策だとみられていました。
 そのため主流派の政治家は中国・満州への軍事進攻は墓穴を掘る、つまり欧米との経済関係が破綻し行き詰ると認識していました。経済が行き詰まれば、戦争などはできません。
 特に幣原喜重郎の自由主義体制重視の政治哲学は確固としたもので、イデオロギー化していたようです。(戦後の憲法9条の発案者もこの方のようです。てっきり米国に押し付けられたものと思っていましたが、幣原さんの平和外交の信念(信仰)が、敗戦という好機(またとない機会)に、世界に類のない「永久平和条項」を、米国からの意向という形で実現させてしまったようです。国際連合が実質的に機能するまで、世界で最も合理主義・民主主義的と思われる米国に「安全保障の委託」をする。日本は世界のために「永久平和の人柱」になる?との決意だったようです。本人も米国も驚天動地の心境だったようですが、昭和天皇はあっさりと快諾されたようです。)
 しかし昭和初期、幣原さんの理想とはかけ離れた状況へと進んでいきました。ある政党は党利党略や国粋的思想のため、軍部の意向に迎合し接近していきました。また軍部も政党支配(世論操作)の重要性を認識しはじめたことにより(軍部予算の削減など許さん)、政党を徐々に取り込んでいきました(軍部の政治への介入)。そのため、政党政治という民主主義的なシステムは瓦解しはじめ、最後には軍部に脅迫(1のテロなど含め)されるような形で軍部の独裁体制に移行してしまいました。
 統制派はテロ事件後、皇道派を粛清し、ナチスやソ連型の全体主義・統制経済の総力戦体制を構築しました。第一次世界大戦を観戦した若手の将校達は、軍・国家体制の改革の必要性を痛切に感じていたようです。軍部は政治に積極的に介入すべきだと考えていたようです。
 日本陸軍の創始者の山県有朋は、早くから総力戦のような考えを持ち、邪魔する者をすべて排除してきたようです。日清・日露戦争の勝利は、山県有朋のこの総力戦思想の賜物だったとも思われます。しかし、個人的創造(民主主義や自由主義というシステム)を抹殺させる思想は、やがて「科学戦争」には逆に足かせになったようにも思えます。すべてがイエスマンになってしまったら、「創造(真の科学)」は死滅してしまいます。
 統制派でも、永田鉄山という人は卓越した合理的思考をもっていたようで、もし暗殺されなけば、「大平洋戦争の開戦」という愚かな選択まではしなかったのではないかと思ってしまいます。自滅しかありませんでしたから。統制派には、岩畔豪雄のような逸材がいました。岩畔さんは、陸軍中野学校や登戸研究所を作るなど、科学戦を理解しており、米国との開戦に最後まで反対されていました。(またどうもあの悲惨なインパール作戦を考えたのはこの方で、要は敗戦必至の日本の戦後に味方になってくれる大国を確保するため、インド独立の先駆けとなる、無謀な対英作戦を敢行したようです。この特攻作戦は、あと一歩で(一部の無断撤退がなければ)、英国防衛戦(インド支配の英軍)を壊滅させるまで奮戦したようです。独立のためのインド兵士を温存し、日本兵の屍を重ねることでインド独立を実現されるという決断だったようです。戦後、このインド兵らが核になり独立を勝ち取ったようです。この作戦は、戦後を見つめた謀略戦の意味合いがあったようです。あくまで個人的に感じたことです。)
3.明治維新から太平洋(大東亜)戦争まで重税に次ぐ重税
明治維新から太平洋戦争まで、財政的には全くの負け戦であったとのことです。経済的に自立できない間に、莫大な軍事予算を計上し、重税に次ぐ重税により国民は疲弊していきました。日清戦争・第一次世界大戦時は収支は少々良かったようですが、後は全くの赤字財政だった。特に日露戦争後に全く賠償金を取れなかったのは痛かった。それに関東大震災の巨大赤字が重なり、もはや補填できるものではなかった。自転車操業のような財政赤字のままに、日中戦争・太平洋戦争に突入していたったとのことです。
 太平洋戦争の終戦後に、当時の映像を見ると、貧困の中でも、国民は何かほっとした顔付きをしていたように思います。国民は、この重税に次ぐ重税、思想の統制に次ぐ統制という「鎖」から解放されて、自由に生きていけるという安堵感に満たされていたような気がします。
4.満州侵略
満州侵略はどんなにきれいごとを言っても、正当化できるものではないと思われます。この侵略は、2の自由主義的な考え方からは日本経済の死(欧米先進国との経済的関係の破綻)を意味しますが、全体主義者の考えでは逆に「日本の生命線(資源・労働者等の宝庫)」として絶対的に必要な戦略だとみなされました。また相次ぐ重税により農村は貧窮して、人身売買(娘の身売り)などが横行して世相が乱れ、やがて2.26事件などのテロも起こり政府は危機感を強め、窮乏する農民のはけ口として満州開拓が注目されるようになったようです。満州支配の尖兵にもされたようで、戦後のソ連侵略では、過酷で悲惨な運命が待っていました。
5.昭和天皇は不世出の英主
 昭和天皇は偉大だった思います。「玉音放送」がなければ、一億玉砕の催眠状態から覚醒できなかった。戦後すぐに平和国家として生まれ変われることができたのは、この「覚醒暗示」とその後の全国巡行「追加の暗示(励まし)」によるものが大きいと思います。
 昭和天皇は、科学・政治・経済・軍事・人文関係に精通していました。なおかつ胆力もありました(幼少時に乃木将軍などから教育を受けていた)。満州・中国侵略、ナチスとの同盟がいかなることになるかを理解していた思います。天皇主義という方便を駆使する軍閥などにを、昭和天皇は苦々しく思っていたようです。
 戦後の昭和天皇の全国巡行は、上記の暗示の強化とともに、自らの責任を国民に直接問うものだったのかもしれない。ほとんど護衛もない中、民衆の中にも入り、もし怨みがあれば殺してくれて本望だという覚悟だったと思います。また昭和天皇の激励も強力だった。昭和天皇が作業着を着て三池炭坑の奥深くの坑道内に入り、ここが日本再生のために一番重要であると檄を飛ばし、炭坑幹部に「どうかよろしく」と頼み、炭坑幹部が頭を垂れ感涙にむせぶ中、作業員の万才万才のエールに苦笑いしながら応える姿をみると、天皇という配役を演じきっている、不世出の英主としか思えません。天皇などいらないと放言していた若き頃の自分に恥じ入るのみです(馬鹿者でした)。
6.厚生省は優生学から生まれた
 厚生省は、ナチスの優生学のような趣旨から作られた官庁のようです。そのため、総力戦のために必要な施策を行うことが第一で、様々な厚生政策は個々の国民のためではなく、国家のためになることのみ行われていた。窮乏した農民の組織的な満州移民政策もその一環のようです。考えてみれば、日本の官庁は総力戦体制のためにあり、その政策を行うという選民的特権意識を持って、自らの利権拡大を当然のことと思っているのかもしれない。そういう意味では、戦後も存続した官庁とは経済総力戦の装置としてフル稼働し、自らの利権もアメーバのように浸食拡大したのかもしれない。
7. 血盟団事件とは何だったのか
「…宗の僧侶である井上日召は、茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めて政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てた。「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。
 井上はこの構想に基づき、彼の思想に共鳴する青年たちからなる暗殺組織を結成した。当初この暗殺集団には名称がなく「血盟団」とは事件後、井上を取り調べた検事によりつけられた名称である。
 井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定し、配下の暗殺団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。
 井上はクーデターの実行を西田税、菅波三郎らを中心とする陸軍側に提案したが拒否されたので、1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月11日の紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉ら地方の同志に伝えるため四元が派遣された。ところが、1月28日第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の古賀、中村、大庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定した。2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めた。

池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司(小学校訓導[2])
西園寺公望(元老)を池袋正釟郎(東大文学部学生[2])
幣原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘(東大文学部学生[2])
若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄(東大法学部学生[2])
徳川家達(貴族院議長)を須田太郎(国学院大学神道科学生[3])
牧野伸顕(内大臣)を四元義隆(東大法学部学生[2])
井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正
伊東巳代治(枢密院議長)を菱沼五郎
団琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二
犬養毅(内閣総理大臣)を森憲二(京大法学部生[3])
井上準之助暗殺事件
 1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺団の一人である小沼正が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。また、予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。

暗殺準備
 四元は三田台町の牧野伸顕内大臣、池袋正釟郎は静岡県興津の西園寺公望、久木田祐弘は幣原喜重郎、田中邦雄は床次竹次郎、須田太郎は徳川家達の動静を調査していた。第一次上海事変での藤井斉の戦死を知った井上らは陣容強化のため大川周明を加えることを画策し、2月21日、古賀清志は大川を訪ねて説得し、大川はしぶしぶ肯いた。また2月27日、古賀と中村義雄は西田税を訪ね、西田の家にいた菅波三郎、安藤輝三、大蔵栄一に、陸軍側の決起を訴えたが、よい返事は得られなかった。
 一方、井上は井上準之助暗殺後に菱沼五郎による伊東巳代治の殺害は困難になったと判断し、菱沼五郎には新たな目標として政友会幹部で元検事総長の鈴木喜三郎を割り当てた。菱沼は鈴木が2月27日に川崎市宮前小学校の演説会に出ることを聞き、当日会場に行ったが、鈴木の演説は中止であった。

團琢磨暗殺事件
 翌日再び目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨となった。團琢磨が暗殺対象となったのは三井財閥がドル買い投機で利益を上げていたことが井上の反感を買ったとも、労働組合法の成立を先頭に立って反対した報復であるとも言われている。菱沼は3月5日、ピストルを隠し持って東京の日本橋にある三井銀行本店(三井本館)の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた團を射殺する。菱沼もまたその場で逮捕された。

逮捕・裁判
 小沼と菱沼は警察の尋問に黙秘していたが、両人が茨城県那珂郡出身の同郷であることや同年齢(22歳)であることから警察は付近で聞き込み、まもなく2件の殺人の背後に、井上を首魁とする奇怪な暗殺集団の存在が判明した。井上はいったんは頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが[注釈 1]、結局3月11日に警察に出頭し、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。しかし、関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。四元は公判で帝大七生社と新人会の対立まで遡り、学生の就職難にあると動機を明かした。

五・一五事件
 古賀清志と中村義雄は3月13日に、血盟団の残党を集め、橘孝三郎の愛郷塾を決起させ、陸軍士官候補生の一団を加え、さらに、大川周明、本間憲一郎、頭山秀三の援助を求めたうえで、再度陸軍の決起を促し、大集団テロを敢行する計画をたて、本事件の数か月後に五・一五事件を起こした。
 西田税が陸軍側を説得して同事件への参加を阻止したことから、これを裏切り行為と見た海軍側は暗殺を計画し、血盟団員の川崎長光を刺客に放った。事件当日、川崎は西田の自宅を訪問し短銃で重傷を負わせたが、暗殺には失敗する(西田税暗殺未遂事件)。 また事件当日、同じく団員だった大学生の奥田秀夫は、三菱銀行前に手榴弾を投げ込み爆発させた。

関係者のその後
 その後、1940年(昭和15年)に(井上・小沼・菱沼・四元ら)は恩赦で出獄する。

 井上は、戦後右翼団体「護国団」を結成して活動を続けた。1967年(昭和42年)3月4日死亡。
小沼は、戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、『一殺多生』を著わす。1978年(昭和53年)1月17日死亡。
菱沼は、帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、小幡五朗と改名し、1958年(昭和33年)に茨城県議会議員に当選し、その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。1990年(平成2年)10月3日死亡。
四元は、出獄すると井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。1948年(昭和23年)の農場経営を経て、1955年(昭和30年)より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年 - 2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。2004年(平成16年)6月28日老衰のため死亡する。享年96。
川崎長光は出獄後、郷里の茨城に帰って保育園を経営した。長らく政治に係ることはなかったが、2010年、99歳にして初めてインタビューに応じ、事件を語っている。
井上は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」「一殺多生」などの言葉を遺している。血盟団によるテロ計画のアジトとなった立正護国堂は、現在もなお、正規の日蓮宗寺院・東光山護国寺として残っている。境内には、「井上日召上人」を顕彰する銅像や、「昭和維新烈士之墓」などがある。

 一連のテロに恐れをなした池田成彬ら財界人は三井報恩会などで俗に言う「財閥の転向」を演出することになる。(引用終わり)」

 この血盟団事件の中心人物の井上さんという僧侶の思想は結構奥深いものがあると思います。井上さんはマルクス主義からキリスト教、仏教など様々な思想に出会う中、最後に「日本国体主義」のような思想に傾いていったようです。
 この「日本国体主義」とは私的には以下のように思いました
 天皇主義と日蓮主義の融合、この考え方はこちらの方の思想に近いと思いました。
 天皇主義とは、世界の根本的な中心は日本であり、その日本の存在的な中心が天皇皇統であり、日本人はすべからく天皇の子孫である。日本人は世界を統治する権利がある。
 また日蓮主義とは、精神的な信仰上の問題としてだけでなく、この信仰をこの世俗社会で具現化するために、政治・経済などの幅広い社会的領域に積極的に働きかけ、この信仰を「国教」にするような考え方だと思います。
 この主義の宗派の経典は一種独特な内容になっていると思います(単に個人的に感じたことです)。その経典の前半は文学・芸術的比喩による物語的な宗教的なお話で、女性も救済されるという当時としては平等主義的な主張もふくまれています。しかし、後半はまるでのような組織拡大の実践方法が書かれてあるようように思えました。祈ることより、どれだけ教化できるかがより重じられます。岩波文庫のあとがきには、確かインドで仏教が廃れる寸前に書かれたものであると書かれていたと思います。そのため戦闘的教化の「檄文」のような内容にもなっているのかと思います。
 そして天皇主義と日蓮主義が融合するとは、このようなことかと思います。
 また井上さんがこのようなテロを考え付いた背景には、継続的な財政赤字による国民への重税により、特に農民が窮乏し(娘の身売りや悲惨な状況だった)、それに対して財閥や大地主・都市部の商工業者のみが潤い、政治家が賄賂まみれであったことが大きいようです。(私もこの時代に生まれ、貧しい農村で、近所の娘が売られて、富みに溢れた都会で慰めものにされていたのを見たら、間違いなくこのようなテロに参加していたと思います。)
 精神的な国体主義者たちは、根本的に自由主義経済・物質文明への反感(嫌悪)を持っていたと思います。そのために彼らは、秩序のある倫理的な道徳体制を取り戻すために、天皇による直接的な指導を望み、天皇との間に入って間違った政策をしている政治家・経営者等を排除しなければならないと考えたようです。
 そして重税で喘ぐ国民も、この井上さんの考え方に共感を持っていたようです。
 しかし、この事件、続く5.15事件、2.26事件のテロにより、日本の政体が全体主義(軍国主義)に決定的に移行することになったと思います。
 特に、軍事予算拡大の最後の歯止役だった高橋是清が暗殺されたのは痛恨の極でした。もはやなし崩し的に軍事予算は膨張し、民間の自由主義的経済が疲弊する中、満州・中国の資源・労働力を確保するために邁進するしかなくなった。窮乏した農民の厚生政策の一環として、貧困者は満州開拓・防備のために、華々しい宣伝の元で移民させられた。
 そして、この「日本国体主義」は、科学の基盤である「数理論理教」とは相容れない内容の思想なので、科学的な合理思考を麻痺させ、窒息させることになりました。
 日本人は世界の中心的な根本存在である天皇の子孫であるとする「神秘思想」は選民思想に似た危険性を持っていると思います。
 またこの一連のテロはどのような思想的背景があるにしろ、正当化できるものではないと思います。井上準之助や高橋是清などかけがえのない人材を失うことになりました。

8.立正安国論と選択本願念仏集
以下私見です。
(1)鎌倉地震(当時の首都の住民の約半数が亡くなる)などの惨禍が続く中、日蓮さんはその根本原因を探るため万巻の経典等を読破して、次のような結論に達したように思います。
 ある宗派のように正教を曲げて教えていることが問題だ。今こそ正教の教えのみを国が認め、他の正道から外れた宗派は公的に排除されるべきだ。(幕府からの援助を止めるべきだ。物理的排除しろなどとは言っていません。)
(2)日蓮さんは様々な経典から引用して、対話形式による華麗な脚色(方便)を用いて、理路整然と自説を説かれました。仏教の経典が正しいという前提では、日蓮さんの弁論に立ち向かえる相手はいなかったかもしれません。日蓮さんは天才だったと思います。
(3)また日蓮さんは無私無欲で、ただ全ての人を救済すべく真摯に考え、刑死も恐れず建白されました。尊敬されるべき人だと思います。
(4)また日蓮さんに槍玉にあげられた宗派の教祖も、全ての人を救済するために深く悩まれ、学問的な正(統的な)教を敢えて捨て、誰でも救済されるように、簡単で分かりやすく、ストレスを解消しやすい教えを説いたのだと思います。
 私は『選択本願念仏集』(岩波文庫)を読んだとき、これは当時としてはずば抜けてリベラルな思想を表明したものだと思いました。以下単に私が思ったことです。
 すべての人が救済さるために、どうしたら良いのか。膨大で難解な、思想の大伽藍のような仏教経典は、残念ながら役にたっていないのではないか(研究者の自己満足に過ぎないのではないか)。仏教界は、華美な儀式や神秘的な読経などにより、財力を得て権力化しているのではないか。民衆には、誰でも救われる、簡単な実践による信仰により救済されることの安堵感により、この世で精一杯頑張ってもらいたい。そのような励みになるシステムが必要ではないか。誰でも平等に救われる。それを進めると、貴族や仏教界や様々な権力層から危険視され弾圧を受けるかもしれない。しかし、これはやり遂げなければならない。私は難しい仏教の話は分からないので、こんな説教をしているとでも言っておこう。一応、浄土教からの引用ということで、教えを形作るけど、要するにすべての人がほぼ無条件に平等に救済されるということは、仏教経典などには関係のない、実践的な社会政治的な問題になる。すべての人が救済されるという仏の教えは、経典の難解な思想の中やあの世ではなく、この欲望に満ち溢れている現世の社会で実現されなければならない。そのためには、民衆には、簡単な信仰実践により救済の安堵感を与え、死を恐れることなく、現況の悲惨な状況にも左右されずに、この世でできる限り積極的に生きてもらいたい。そして最低限、仏の教え(簡単な信仰実践)は守ってもらい、もし財力を築くとか権力を得た場合にも、奢ることなくその教えを守ってもらいたい。
 またこれらの教祖を産み出した大学のようなシステム(比叡山)を作られた方も尊敬されるべきだと思います。
(5)ただし、日蓮さんは当時は最高の知識である仏教の経典から結論を出しました。もし、日蓮さんが現代にタイムスリップしたら、そして図書館で科学書など含め万巻の書物を読んだら、どのような結論を出すのでしょうか。

 
 
 
 
 




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朝鮮戦争とは何だったのか?戦後の思想洗脳戦争の始まり?原子力安全神話の遠因

2014-03-16 20:09:59 | 国内政治
〔以下すべて私の単なる妄想です。 詳しくは各人でお調べ下さい。〕

 〔「洗脳」と「マインドコントロール」は意味合いが違うようですが、以下では両者を区別しておりません〕
 
「朝鮮戦争」とは、日本では主に「経済特需」など経済的な側面のみが取り上げられているように思えます。平和憲法下の日本では何か「対岸の火事」であったような雰囲気さえあります。
 しかし、朝鮮半島は「日本の沖縄戦」を超える惨劇になり、まさしく「無間地獄」となりました。特に建前上の革命内戦ということにより、宗教戦争(イデオロギー戦争)の様相を帯びるようになり、夥しい数の朝鮮市民の粛清・虐殺が行なわれました。

 そして、この「思想洗脳戦争」の結果として、韓国と日本において宗教の教団類似の「反共保守思想の狂信的な団体」が意図的に作られ、共産側のオルグに対抗して、強力な教化活動を進めたようです。
 これは米国の対共産勢力に対する「世界的な思想洗脳戦の一環」として行なわれたようです。CIAなどの謀略組織も当然がかかわっていると思われます。
 
 この「反共保守思想の狂信的団体」は強力な「巨大利権集団」となり、日韓で政治的に強い影響力を持つことになったようです。そしてソ連崩壊後も、この利権組織は強固なままのようです。
 他のブログ・サイトでを見ていますと、CIAが活動資金を「麻薬取引」から得ていたとのことです。非合法活動の資金を公に予算化できないので、裏の稼業で資金を得て、反共産組織(ゲリラ・独裁右翼政権など)にばら撒いていたようです。この反共産組織には、上記の「宗教類似の狂信団体」や「保守系政党」も含まれていたのでしょうか?
 しかし「麻薬取引」とは、手っ取り早くカネになる魔法のような手段のようです。日本も満州帝国では相当手広くやっていたようです。このようなうまみを知ってしまうと、なかなか止められなくなるかもしれません。
「日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。
 共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。
 1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。
 この時の毛沢東の主な政策は、阿片の生産である。共産党支配下で栽培しそれを連合軍に売り資金を蓄え、来るべく国民党軍との内戦に備える戦略である。(引用終わり)」
 参考:『日中戦争』児島襄著 
(この本は今から15年ほど前に読みましたが、国民党が何回も中国共産党を包囲殲滅しようとすると、恐らく共産党の挑発(謀略)により日本軍が攻撃せざるを得なくなり、国民党がそれに応戦するという図式が続いていたようです。そういう意味では、中国共産党にとって、日本軍は「救いの神」だったのかもしれません。)
 
 今では、この「思想洗脳戦」は少々中身を替えているようですが、つまり「共産ユートピア幻想」はなくなりましたが、資本主義体制に変貌した大中華帝国や資源戦略に邁進する大ロシア帝国は、かつての帝国主義国が行ったような諜報・謀略戦略の一環として洗脳戦を仕掛けているようです。かつてのような露骨な共産主義のオルグはなくなったようですが、特に大国化した中国のソフトな教化活動は、その豊富なマネーも伴い活発化しているようです。それに対抗して「反共保守の狂信団体」の存在意義も未だあるのでしょうか?しかし「反共保守の狂信団体」はあまりにも利権化し、単なる拝金集団・アンダーグラウンド集団になってしまっているようにも思えます。
 
 日本では、朝鮮戦争によってもたらされた強力な「思想洗脳戦争」により、アカ(共産又は社会主義)かクロ(保守反共)かでしか価値判断ができないようになってしまったのではないでしょうか。合理的に考えるよりも、絶えずこの二者択一の選択の問題にされてしまったような気がします。そして現在でもこの対立は鮮明のようです。

 高村薫さんが、日本の原発問題は、絶えずイデオロギーを通してしか議論されてこなかったとおっしゃっていました。まさにこの「思想洗脳戦争」の影響のことを指摘されていたのではないでしょうか。確かに朝鮮戦争でのイデオロギーによるオセロゲーム(思想洗脳による友軍化)の影響は凄まじいものがあった(夥しい粛清・虐殺を余儀なくされた)ので、それに対抗する狂信的な保守思想(教え)がどうしても必要であったのは仕方がないことかもしれません。
 しかし、原発問題(原発の純粋な科学技術的な危険性)は、「思想洗脳戦争」の後遺症によって、アカかクロか、善か悪かのように、絶えずドラマ化されて、単純化されて議論されることが多かったように思われます。そのような中では、真に技術的で合理的な議論などできませんでした。



 また『米戦時情報局が見た中国共産党の日本人洗脳工作山本武利(早稲田大学政治経済学術院教授)』20世紀メディア研究所で、秀逸な記事があります。(一部転載します)

「…捕虜となれば、自国で不名誉な扱いを受けるばかりか、原隊に帰っても、部隊指導者が彼らを見せしめに処刑することが分かって、原隊への復帰を希望しない日本兵が急増するようになった。「戦陣訓」のしばりによって、日本兵捕虜には敗戦協力しか帰国の途はないことに八路軍は気づいた。そこで敵軍工作部は反軍国主義、さらには社会主義思想注入のための再教育を捕虜に受けさせる。さらに思想改造をしたかれら捕虜を前線に送り込み始めた。」

「… 監視ネットワークが下は日本人解放連盟や共産主義者同盟の幹部から上は毛沢東の各段階に存在していた。こうした毛沢東の相互監視による洗脳化工作は他の同時期のファシストや独裁者よりも陰湿かつ厳しかったという説がある。

「…「一般の工作単位(職場)を事実上の監獄に変えてしまうというやり方は毛沢東の発想による重要な新機軸で、毛沢東は中国を統治した全期間を通じてこの方法を使いつづけた。この点においては、毛沢東はヒトラーもスターリンも遠く及ばないシステムを作り上げたといえる。すなわち、人民の中から一部を看守に仕立て、それまで同じ職場の同僚だった人々を一方は囚人、一方は看守という立場にして同じ敷地内に生活させる、というシステムである(共産中国においては、職場と住居が同じ敷地内にある場合が多かった)。このようにして、毛沢東は共に働き生活する人間どうしのあいだに大きなくさびを打ち込んだだけでなく、拷問を含む抑圧に手を染める人間の数を大幅に増やした。スターリンやヒトラーの場合、こうした目的にはおもに秘密警察のエリート(KGBやゲシュタポ)を使い、犠牲者も一般の目に触れない場所に隔離されていたが、毛沢東はこうした活動の範囲を大きく広げたのである」(『マオ』上巻)。」

「… 初期の日本兵への工作や捕虜への教育を通じて、天皇批判のプロパガンダは日本人や日本兵には絶対に避けるべきことだと中国共産党は認識した。それはアメリカ軍と同様であった。対日プロパガンダにおいて、本来なら天皇に当るところに軍国主義者を据えた。そして軍国主義者と人民を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を中国人や兵士に呼びかける心理工作を繰り返した。延安を訪れる連合国側のジャーナリストやアメリカ軍の将校に対し、共産党色を隠し、穏健な民主主義者のポーズを取った。こうした手法が5年後の毛沢東の中国支配の道をひらいた。」

「 70年間にわたり、教科書問題でも、靖国問題でも、二分法のプロパガンダが日本人に向けて断続的になされてきた。しかし人民に戦争責任がなく、むしろ被害者であるという論理は欺瞞的である。日本人民が中国侵略を支え、中国人民が文化大革命を進めたにもかかわらず、人民への追及は故意に避けられた。さらに言えば文革で4人組と人民を区分し、毛の責任を故意に無視したように、人民や天皇の戦争責任を無視し、A級戦犯のみに責任を被せた。中国侵略批判での「天皇」隠し、文革批判での「毛」隠しは、最高責任者への責任追及を避ける隠蔽的二分法である。GHQも中国共産党もその手を使ってきた。」

 それにしても中国の人心掌握術は4000年の権力闘争により洗練されたものになっているようです。
 「軍国主義者が悪かった、国民は犠牲者だった」というのは、考えてみれば本当に無責任としか言いようがないですね。
 原発公害も、「原子力マフィアが悪かった、国民は犠牲者だった」という論理は通用しませんよね。この国策原発を進めてきた年代の有権者(国民)は等しく責任があると思います。どうしてこのようなことになってしまったのか、真剣に議論しないといけないと思います。
 また違ったタイプの「洗脳思想」に染まらないために。
 

 (朝鮮戦争の概略)

1.朝鮮戦争は、当時の朝鮮の人口3000万人に対して、犠牲者・被害者が実に約500万人と言われています。戦線が南北に大きく動いたことにより(アコーディオン戦争とも言われています)、朝鮮の全土を巻き込んだ凄惨な地獄絵図となりました。

2.共産革命の名のもと、思想洗脳による異端裁判のようなむごたらしい処刑・虐殺が後を絶ちませんでした。またその反動の右翼テロや、アカ思想を抹殺・制圧するための粛清・虐殺も相次ぎました(無実の罪を着せられた例も多いようです)。戦線が大きく南北に動いたことから、占領地での双方からの粛清・虐殺は阿鼻叫喚をきわめました。
 

3.朝鮮から大量の「難民」が日本に逃れてきました。

4.日本は米国からの軍事介入要求を「平和憲法」を盾に拒みました。アメリカの若者が犠牲になっているにも拘らず、朝鮮半島全土が赤化したら日本の共産革命の内戦が勃発するのが必定だったにも拘らず、米国が押し付けた「平和憲法」を武器に、ひたすら朝鮮戦争特需(巨大な乗数効果)の恩恵のみを受け、経済的復興に邁進しました。(旧日本軍人などが密かに朝鮮戦争に加わっていたようですが)
 
〔日本は、朝鮮戦争による現韓国・米国(国連軍)の犠牲により、共産革命による内戦を避けることができました。もし朝鮮半島が北朝鮮軍(ソ連・中国軍)により完全占領されていたなら、韓国の100万人単位の難民が日本に押し寄せてきて、また日本での共産革命の本格的な内戦が始まっていたことでしょう。そうなれば日本民族同士で苛烈な殺し合いが行なわれていたかもしれません。朝鮮戦争は他人事ではなかったのです。〕
 

5.共産革命については、夢のようなユートピアと語られることもありましたが、今となっては人権侵害の最たるものの象徴のようにも思えてきます。
 マルクスが語った共産社会は、相対的剰余価値(科学技術を応用した創造的な競争から生まれる価値)の拡大にともなう有機的構成の高度化(公平な競争による効率的な社会システム)によりもたらされるものでした。言論統制や思想洗脳(偶像崇拝的な思想の強制)などによっては、創造的活動は窒息してしまいます。

6.朝鮮戦争は、米ソ中の外交ゲーム(戦争)であり、一歩間違えれば「第三次世界大戦」に突入していたかもしれないです。中国軍(義勇兵)の犠牲も多大なものでした、後半はほとんど米中戦争の様相になっていました。

 参考:『朝鮮戦争』児島襄著 中公文庫、『講和条約』児島襄著 中公文庫
 
 
 Wikipedia「朝鮮戦争」から転載します。< >は私のコメントです。
「朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争]」

「1945年8月15日、第二次世界大戦において日本は連合国に降伏したが、その時点で日本が併合していた朝鮮半島北部に連合国の1国のソ連軍(赤軍)が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていた。同じく連合国の1国で反共主義を掲げていたアメリカは、ソ連の急速な進軍で朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。
 その後、米ソの対立を背景に南部は大韓民国、北部は北朝鮮として建国。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。」

「ソ連占領下の北半部では、1946年2月8日金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた暫定統治機関としての北朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月20日に北朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行して共産主義国家設立への道を歩み出した。これに対抗して李承晩は、南半部のみで早期の国家設立とソ連の排斥を主張し始めた(6月3日の「井邑発言」)。金九などはこれに反発して離反した。
 そのころ国内はインフレが進行し失業者が急増。5月には水害と疫病(コレラ)が発生し1万人規模で死者が出た。8月に入ると食料も不足し、各地で暴動が発生する。軍政庁は韓国民主党と結んで左派ともども武力で暴動鎮圧を図ったため市民が一斉に反発した。9月にはゼネスト発生。10月には全国で230万人が参加する騒乱となった(大邱10月事件)。軍政庁は戒厳令を敷き鎮圧したが、このことがアメリカ軍政への支持を決定的に失わせた。軍政庁は一連の騒動の責任を左派、特に朝鮮共産党から11月に結成した南朝鮮労働党に求め、朴憲永などは弾圧を避けて北へ逃れた」

「1947年3月12日、トルーマン大統領は、イギリスがギリシャ内戦への関与から撤退した後にアメリカが引き継ぎ、これを機に世界的な反共活動を支援すると宣言(トルーマン・ドクトリン)。それ以降、南朝鮮では共産勢力の徹底した排除が行われた。そこへ反共活動のため渡米していた李承晩が戻り、反共とともに南朝鮮政権樹立運動を活発化させる。1947年6月には軍政と対立したまま李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立。7月には左右合作を目指していた呂運亨が暗殺され左右が決裂。それを機に北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。」

「金日成は1948年3月に、南半部(北緯38度線以南)への送電を停止(1910年から1945年の間、朝鮮半島を統治していた日本は山の多い半島北半部を中心に水豊ダムなどの水力発電所を建設し、そのため南半部は電力を北半部に依存していた)。一方、李承晩は韓国内で朝鮮労働党を参加させない選挙を実施し、正式国家を樹立させることを決断した。1948年、済州島では南朝鮮労働党を中心として南北統一された自主独立国家樹立を訴えるデモに警察が発砲し、その後ゲリラ化して対抗。その鎮圧の過程で政府の方針に反抗した軍部隊の叛乱が発生(麗水・順天事件)。さらに潜伏したゲリラを島民ごと粛清、虐殺する事件も発生した(済州島四・三事件)。」


反共・反日の李 承晩は、李氏朝鮮の王族の末裔・官僚の血筋でしたが、没落してプロテスタントの監理教会派に入信後、米国で哲学博士号を取られました。日本敗戦後に大韓民国初代大統領になり、朝鮮戦争による過酷な思想洗脳戦を指揮しなければならなくなりました。数十万人にも上る国民を虐殺しなければならなくなった心中を察しますと、一体何が正義なのか?深く思い悩まれたことと思います。
 この途方もない不条理から逃れるために、日本に逃げてきた「難民」の方もいるようです。>



「1948年8月13日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言。金日成はこれに対抗し9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上当事国間の「国境」となった。
 その後、金日成は李承晩を倒し統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーブ条約に調印し、11月に国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした。」

「反共と同時に反日家でもあった李承晩は、今度はポツダム宣言で日本が放棄したとする日本領土について、返還を主張し始めた。大統領就任3日後の1948年8月18日、記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。1949年1月7日には対馬領有を宣言した。それ以前にも李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領から除外するよう執拗に要求していたが、アメリカは再三にわたって拒絶していた。

 1950年1月12日、アメリカ政府のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」)し、台湾、インドシナなどとともに朝鮮半島には言及がなかった(これは、アメリカの国防政策において「太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であったが、朝鮮半島は地政学上大陸と太洋の境界に位置していることや、長く日本の統治下にあったこともあって、判断が難しい地域でもある)。

 さらに、極東地域のアメリカ軍を統括していた連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは占領下に置いた世界有数の大国・日本の統治に専念し、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった。金日成はこれらを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と受け取った。」

 <アチソン国務長官の発言「アチソンライン」、マッカーサーの朝鮮半島への無関心など、確かに金日成が「韓半島南半分の放棄」と受け取っても仕方ない状況だったかもしれません。マッカーサーは北朝鮮(中国・ソ連)が攻撃してくるとは、まったく考えてもいなかったようです。日本のある知事からは北朝鮮の不穏な動きが伝えられていたようです。参考『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一 』湯浅博著 >

「これらの状況の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(電報の内容を故意に曲解し「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりした)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。

 これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。」

「開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6000を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)を有するのみであった。

 これに対して、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8000、さらにソ連製を中心とした戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンIl-10やアントノフAn-2などのソ連製を中心とした航空機211機を有していた。また、1949年夏より、中国人民解放軍で実戦経験(国共内戦)を積んだ朝鮮系中国人部隊が編入され始めており、これによって優れた練度が維持されていた。

 また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710メートル(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525メートル(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と劣っていた。」

<これだけ戦力の格差があるなら、、金日成(及び軍幹部)は朝鮮南部など一気に占領できると思っても仕方がなかったかもしれません。軍事均衡が崩れると、侵略という脅威が間違いなく現実化します。しかし、米国はなぜこれほどの軍事的不均衡を放置していたのか、過失としか思われないところもあると思います。>

「1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。 このことを予測していなかった李承晩とアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。

 なお北朝鮮では、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているほか、中華人民共和国でも現在に至るまで「アメリカ合衆国による北朝鮮への軍事進攻によって戦争が始まった」と学校で教えられ、中国国家主席習近平も「6.25は平和を守ろうとする侵略に対立した正義のある戦争」であると表明している。 が、この様な北朝鮮や中華人民共和国による主張はソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式に否定されている。

 前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車であるT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。ただしその一方、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も整いつつあった。」


日本のある勢力も呼応していたというサイトもあります。なおその勢力は、その後分裂して、今は民主主義の政党政治を支持しているようです。中国とも文化大革命時に絶縁したようですが、改革開放政策が始まり、関係修復しているようです。
 それにしても、未だに中国も北朝鮮も「韓国の先制攻撃が開戦の理由」と言い張っているのですから、思想洗脳戦争もずっと続いているのだと、つくづく思いました。>

「南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、6月27日に李承晩大統領による保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令が出された(保導連盟事件)。同日、韓国政府はソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日、ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。

 韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは日本軍出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。」


「国連軍の苦戦[編集]6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない。

 朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。

 準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)。」

「また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠清北道や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた」


「この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し(離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている。金日成は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めた。」

「マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。

 また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。

 補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺が起きた。」

「10月1日、韓国軍は「祖国統一の好機」と踏んだ李承晩大統領の命を受け、第8軍の承認を受けて単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮の朴憲永は中華人民共和国首脳に参戦を要請。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告、さらに中華人民共和国の参戦による戦線拡大を恐れていたトルーマン大統領も、マッカーサーに対して中国人民解放軍参戦の可能性を問い質した。しかし、マッカーサーはチャールズ・ウィロビーら部下の将校からの報告を元にこれを即座に否定した。

 国連安保理では、国連軍による38度線突破の提案はソ連の拒否権により葬られたが、10月7日、アメリカの提案により国連総会で議決した。これにより10月9日にアメリカ軍を中心とした国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌(北朝鮮は1948年から1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧した。

 さらにアメリカ軍を中心とした国連軍も、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視し北上を続け、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、日本海側にある軍港である元山市にまで迫った。さらに先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた」

「ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、同盟関係の中華人民共和国に肩代わりを求めた。毛沢東と数名の最高幹部は参戦を主張したが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。

1.中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
2.長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
3.中華人民共和国建国後も中国国民党政府の支配下のままとなった台湾への「解放」や、チベットの「解放」など、国内問題の解決を優先すべき

 しかしこの様な国連軍の攻勢を受けて、これまで参戦には消極的だった中華人民共和国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することを決定する。派兵された「中国人民志願軍」は彭徳懐を司令官とし、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍だった。参戦も、威勢のいいスローガンとは裏腹に大きな不安を抱えての参戦だった事が判明し、周恩来はソ連軍の参戦を求めたがスターリンに「アメリカ軍との直接対決は避ける」と呆気なく断られ、彭徳懐はソ連なしでのアメリカ軍との戦争を恐れたと言う。

 参戦が中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され、結果的にそれが成功したため、毛沢東の威信が高まり、独裁に拍車がかかったという見方がある。毛沢東にはスターリンから参戦要請の手紙が届けられたようである。

 中朝国境付近に集結した中国人民解放軍は10月19日から隠密裏に北朝鮮への侵入を開始した。10月25日、迫撃砲を中心とした攻撃に韓国軍はこれを北朝鮮軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国人民解放軍の大部隊が鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。

 中国人民解放軍は11月に入り国連軍に対して攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破し南下を続けた。国連軍は上記のように中国人民解放軍の早期参戦を予想していなかった上、補給線が延び切って、武器弾薬・防寒具が不足しており、これに即応することができなかった。また、中国人民解放軍は街道ではなく山間部を煙幕を張って進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。

 11月24日には国連軍も鴨緑江付近より中国人民解放軍に対する攻撃を開始するが、中国人民解放軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。しかしマッカーサーやウィロビーなどの国連軍上層部は東京に留まり、最前線への視察に出ることはなかった。

「MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が命を落とした。2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。

 中国軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、人命を度外視した人海戦術、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。

 それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。」

「1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する。

 またマッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯、第二次世界大戦と国共内戦終結後もその殆どがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで検討された。

 この頃マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用の提言など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言が相次いだ。

 マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任した」(一部転載終わり)


<マッカサーの取った行為は、軍人としては至極当たり前なものだったと思います。朝鮮戦争の後半は、実質「米中戦争」だったのですから、中国(中共)の補給基地を叩くというのは戦略上当たり前だと思います。戦場では若い米国兵の血が流されており、その原因は北朝鮮(中国)の宣戦布告なき奇襲攻撃(先制攻撃)によるものなのですから、「戦争」であれば当然中国の補給基地を壊滅させるべきかと思われます。確かに第三次世界大戦の恐れや、政治外交的な解決の努力も大切かと思われますが、この中途半端な休戦により、今の中共や北朝鮮という独裁制のモンスターが育ってしまったのではないでしょうか。>














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インディアン戦争という名の虐殺史

2013-10-08 20:48:31 | 国内政治

 『インディアン虐殺』、米国では『インディアン戦争』と呼ばれているらしい。

  Wikipediaに詳しく書かれています。


「そもそもの白人とインディアンとの戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものである。コロンブスは中米のインディアン諸部族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させた。インディアンたちを黄金採集のために奴隷化し、生活権を奪ったためにインディアンたちは飢餓に陥り、疫病が蔓延し、その数をさらに減らした。白人のもたらした疫病が中米のインディアンを減らしたのではない。コロンブスによる大量虐殺が、疫病によるインディアンの激減を招いたのである。
   …「アメリカ合衆国」成立前の東海岸では、ジョージ・ワシントンがインディアン民族の絶滅政策を進めた。ワシントンの手法は焦土作戦だった。ワシントンの軍隊は、イロコイ連邦やニューイングランド全域のインディアンを「根絶やしにせよ」とのワシントンの命令を受けていた。
  …アメリカ独立戦争以後、「豊かで安い土地」を求めて白人入植者が西進するようになると、当然そこに住むインディアンは邪魔者となり、これを排除しようとする合衆国政府とインディアンの撲滅戦争と化した。インディアンは領土を追われ、連邦政府が信託保留する土地、「保留地 (Reservation)」に押し込められることを強要され、激しく抵抗するようになる。
 …イギリスがアメリカへの入植を始めた1610年代や1620年代は平穏に過ぎたが、ピクォート戦争の起こった1637年頃から、入植地の安全を図るためと、さらなる入植地の拡大のために、植民白人はインディアン部族間の争いを利用し、代理戦争を行わせるようになった。この戦争は17世紀(フィリップ王戦争、ウィリアム王戦争および18世紀初頭のアン女王戦争)からウンデット・ニーの虐殺で1890年にアメリカの辺境が「消滅」するまで、インディアンの土地を白人入植者のために没収し、インディアンを征服して白人に同化させると同時に、インディアン保留地へ強制移住させる、という結果になっていった。(引用終わり)」

 とにかく虐殺の連続です。今から500年くらいから150年前に起きたホロコースト・ジェノサイドです。



 もう常軌を逸しているとしか思えませんが、これが人権を旨とする米国の前史のようです。

 興味ある記述がありました。

「コロンブスの上陸以来、白人たちはインディアン部族が、アフリカの部族社会のような「酋長が支配する首長制の部族社会である」と勘違いした。実際にはインディアンの社会は合議制の完全民主主義社会であり、「王」や「首長」のような個人権力者は存在しない。「大いなる神秘」のもと、人と動物すら明確に区分されず、すべてが平等に共有されるのがインディアンの社会であり、まして大地は誰のものでもなかった。
 合衆国は植民化を進めるにあたり、まずインディアンから領土を「購入」しようとし、「物品」と引き換えにこれを行った(つもりだった)。しかしこれは、インディアンの共同体から見れば「白人が贈り物をして、ここに住まわせてくれと言って来た」ということである。白人は「ここから出て行ってくれ」と言ったつもりだが、インディアンはこれを理解していない。彼らに「土地を売り買いする」という文化習慣が無いからである。
 …インディアンは和平を結ぶ際、和平の「ロングハウス」、「ティーピー」などで「会議の火」を囲んで車座になり、「聖なるパイプ」で煙草を回し飲みし、「大いなる神秘」に和平を誓う。すべての存在が「大いなる神秘」の中にあると考えるインディアンにとって、大いなる神秘との盟約であるこの行為を破ることは絶対にあってはいけない誓いである。
 白人たちは上記したように「土地を買った」つもりでいるので、この誓いを破った。インディアンを追い出そうとし、あまつさえこれを武力で虐殺したのである。「インディアン戦争」は起こるべくして起こった(引用終わり)」
 
 アメリカ大陸への入植は大きな意味では「経済行為」だったと思います。「土地を買う」ということは近代資本主義では当たり前の行為であり、買った者は所有者として絶対的な支配権があります。しかし、これは一種の人為的な取り決めであり、根本的な真理でもなんでもありません(貧乏人の僻みかもしれませんが…)。

 ユダヤの陰謀論にもいろいろありますが、ユダヤ人にとってカネで土地を買い支配権を得られることは、最も都合の良いことだと思う。金融・不動産を占拠してしまえば、その国を乗っ取ったも同じものになります。

 インディアンの虐殺も、アメリカ経済発展のためにどうしても必要だったということでしょうか? 以前ブログで『人権と数理論理教』という記事を書きましたが、要するに科学的(数理論理的)思考=近代民法理論(所有権絶対)=資本主義精神(利潤の絶対化)を持たない人間には「人権」はないようです。むしろ邪魔な存在になり、虐殺=民族浄化すべきと考えられているようです。

 それにしても、これを可能にしているのは、「科学応用兵器」です。



 南北戦争では米国人同士が戦い、約62万人の死者を出していますが、この間の兵器(特に銃)の進化も凄まじかった。技術的要素がまだ大きかったようですが、基本的には科学的知識に裏付けられていました。特許もちゃんと出されています。

 米国人はきっと、我々はこれで!=「銃」でこの広大な大陸を制覇し、近代的な文明を築いたんだという自負があるかもしれません。「銃」=科学技術の恩恵(神からの恩恵)のシンボル、我々は「銃」で、この地の支配者(神の民)になった。ユングの集合無意識ではありませんが、米国民族の「銃(科学技術)」への信仰は実存的なもののように思えます。現在も銃の規制が難しいようですが、米国民にとってはアイデンティティなのかもしれません。
   

 話は変わりますが、公害問題でもこの「インディアンの虐殺」のような謀略が行われることが多いと思います。経済行為(科学技術の社会への影響)には公害が付きまといます。そして被害者はいつも科学(社会科学・自然科学・精神科学)で武装された人たちによって弾圧されます。一方的に被害を受けても、なお弾圧されます

 20世紀になっても、そして今現在も収奪は続いています。

「20世紀になってからの「レッド・パワー運動」に代表される、権利回復要求運動が現代のインディアン戦争となった。黄金に代わってウラニウムや石炭、水といった保留地の地下資源が、合衆国の収奪対象となった。現代の「インディアン戦争」は、地下資源の収奪と環境汚染、そして「西部劇映画」や「インディアン・マスコット」問題に象徴されるメディアやスポーツにおける歪曲された民族イメージのステレオタイプ化が大きなテーマとなっている。」

 資源を求めて、(危険な)工場用地を求めて、奴隷のような労働者を求めて、かつてのフロンティア運動のような、現代の虐殺(文明的な虐殺)が行われているようです。



 


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太平洋戦争とはなんだったのか、日本の偶像崇拝教下の数理論理革命の破綻

2013-08-25 19:33:23 | 国内政治
 太平洋戦争とは何だったのか?左翼系は「侵略戦争」、右翼系は「正義の戦い」と呼んでいるようだ。

 オランダのアムステルダム市長、その後内務大臣に選ばれたエドゥアルト・ヴァン・ティン氏は、親善パーティで次のような歓迎の挨拶をされたそうです。アムステルダムの光芒(照らされた日本の誇り)

 確かに太平洋戦争には、アジアの西洋列強に虐げられた人々を開放し独立させた功績もあるでしょう。それが日本人(黄色人種)でも勝てたのだから、自分たちにも勝てるだろうという考えにさせたのも一種の効果はあったと思います。また日本軍の圧制に対して立ち上がったことにも逆説的ですが意味があると思います。しかしその面だけを持って、この戦争が「聖戦・正義」だったとは言えないと思います。

 それに対して、左翼のいうように一方的な侵略戦争だったという見方はどうでしょうか。確かに中国戦線では、ゲリラ戦になり市民も兵士も見極めができなくなり(ゲリラ戦の戦術)、市民の大量殺戮も行ったようです。それに占領した主要都市で、物資の強制徴収と貨幣(軍票など含む)の大量発行を行ったことにより悪性のインフレを引き起こしました。また沖縄での市民に対する仕打ちは弁解しようもない。それではあの戦争は単なる犯罪行為だけだったのでしょうか?

〔H26-03-15追記・整理
 慰安婦については、認識を改めました。下記H25-12-14追記による記載も誤りではないですが、より包括的(世界的)に見た場合、確かに日本の慰安婦問題だけが特別に非道という訳ではないようです。
(一部転載します)
「第二次世界大戦当時の戦地性政策の三類型 
 秦郁彦によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス[126])、レイプ型(ソ連、朝鮮[127])の3つの類型があった」

 日本の「慰安所形式」はドイツに見習って作られていたようです。きれいごとではないですが、戦場での最低限の秩序を確保し、性病を防ぐ目的があったようです。

 「自由恋愛型」とは聞こえが良いですが、強姦近いような性犯罪も多いようです。

「自由恋愛型とは英米軍が該当し、私娼中心で公娼制度を公認しないもので、その理由は世論とくに女性からの批判によって公娼制を公認できなかったためとされる[128]。その代わり、現地の娼婦の利用を黙認したが、性病が蔓延したともいわれる[129]。(バトラーらのフェミニズムによる批判や廃娼運動については前述#近代公娼制を参照)。植民地においては慰安所が存在し、また英米軍が占領後に日本軍慰安所を居抜きで使用した場合もある[130]。アメリカ軍もフィリピンなどの植民地慰安所をのぞくと慰安所を設置しなかったが、ノルマンディーに上陸したアメリカ軍が多数のフランス女性をレイプし、性行を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほどの状態になったためル・アーヴルでは市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している[131][132]。」

 そして酷いのが「レイプ型」です。これは強姦・虐殺という惨たらしい行為です。

「ソ連(ロシア)では慰安所は設置されていないがレイプが黙認された[143]。ヨシフ・スターリンは敵国の女性を戦利品とする「戦地妻」を容認し、「わが軍兵士のふるまいは絶対に正しい」と兵士を鼓舞した[144]。ソ連軍は占領したドイツで集団強姦を広範囲に行い[145][116]、レイプの被害者数はベルリンでは9万5000〜13万、東プロイセン等では140万人、ドイツ全域で200万人にのぼった[146]。ソ連軍は満州や朝鮮半島では日本人女性の強姦行為を各地で繰り返し[127]、ソ連軍によって監禁された約170名の日本女性が強姦を受け、23人が集団自決した敦化事件も起きている。また大古洞開拓団(三江省通河県)ではソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、2名の志願慰安婦を提供した事例もある[147]。満州開拓団にソ連軍が進駐した際には兵士の妻でなく単身女性が慰安婦として提供された黒川開拓団や郡上村開拓団の例がある」

敦化事件」は酷すぎます。建前上は共産革命とか言っていますが、おぞましき実態がそこにあります。 

「朝鮮人(朝鮮保安隊)も朝鮮半島の吉州郡や端川市などでソ連兵とともに非戦闘員の女性引揚者への集団強姦行為をおこない、強姦後に虐殺するケースもあった」

 なお朝鮮戦争のときの「韓国軍慰安婦」の問題も酷すぎます。というか朝鮮戦争の時の虐殺などの非道は目を覆うばかりです。戦争というのは、人間を極限まで非道にしてしまうものです。

 しかしこの朝鮮戦争の問題は、米ソ中の外交戦争ゲームのような側面もあります。日本にとってはこの「犠牲」によって平和を享受でき(共産革命の内戦の回避)、また朝鮮特需により経済復興を果たしました。〕

〔H25-12-14追記 『従軍慰安婦問題の歴史的研究―売春婦型と性的奴隷型』倉橋正直著を読んだところ以下のようだった。

 従軍慰安婦には、「売春婦型(日本内地の公娼制度と同じ仕組み)」と「性的奴隷型」があったとのことです。

 「売春婦型」は主に中国(日中戦争から太平洋戦争終結まで)で行なわれ、軍隊の進軍とともに民間人の商人が付いて行き、占領地に兵隊相手の日本町を形成させたとのこと。その町では兵士のリフレッシュのために、飲食店・菓子屋・風呂屋・売春宿などが主な業種だったようです。日本では軍が兵士の福利厚生をまったく面倒を見なかったので、この民間商人たちが肩代わりして、儲けていたようです。売春システムは、内地のものとほとんど同じものであったとのことです。
 ですから「性的奴隷型」と比べてれば、一つの職業?として見れるようです(戦前は親に「前借」というお金を渡し、子供(女性)を形に取ることもあったようですが)。

 「性的奴隷型」は1940年頃から、上記の民間の商人が行かないような場所、主に中国以外の南洋などの激戦地に、特に朝鮮の方を強制的に連行していったようです。これが韓国などで主張されている従軍慰安婦問題のことだと思います。日本政府はこの「性的奴隷型」を公式には認めない方針のようです。(追記終わり)〕


 思えば、17世紀頃から中国やインドなどのアジア諸国が西洋列強に暴力団の因縁のような言いがかり(アヘン戦争など)で侵略され、奴隷のような状況に陥った。それを目の当たりに見た明治維新の革新家たちが立ち上がったことに「原点」はあると思う。

 日本は形振り構わず、西洋の科学及びその社会制度を取り入れ、植民地化されないように軍事・経済を強化してきた。

 ただし科学が高尚な思想・哲学から進化してきたことなど顧みず、ただ軍事・経済の強化に繋がる表面的な手段としてのみ導入した。

 国家社会主義、大東亜共栄圏、これらは東洋の人為的な「理想政治」で西洋の過激な科学教(数理論理教)の侵略(帝国主義⇒科学応用軍事兵器による破壊と科学応用経済システムへの取り込み)を防ごうと企てたものだろうか。

 軍部独裁の日本は、日中戦争の特別会計を隠れ蓑にして対米英戦争に余剰金を注ぎ込み(利権拡大の要因もあったと思うが)、民主国家(米国など)の平時には戦争体制が整わない隙を狙い、先制攻撃を仕掛けたのかもしれない。

 科学技術とはどういうものなのか、数理論理教の宗教的核心はどういったものなのかをまったく考慮せず、そのうわべの技術(利便性・軍事性)のみを真似して兵器や産業機器を大量に作った。そして精神的には、合理的(数理論理的)思考を麻痺させる偶像崇拝思想(神国思想など)を蔓延させた。

 日本の市民はただのロボットされたかのようだ。徴兵された兵士は「生きて虜囚の辱めを受けない」など幾つものプログラムで強制洗脳され、ただの獰猛な戦争ロボットに変身させられた。兵士に徴兵されなかった国民も「一億玉砕」「鬼畜米英」などの非合理的な思想を強制洗脳されて、ある意味生産ロボットにされた。

 米国が広島・長崎に原爆を投下したことについては、いろいろな議論があるようだ。しかし、米国から見て、日本の兵士も国民もあまりにも合理的思考から外れたクレイジー(偶像崇拝的)な思想に染まっているので、もはや人間として扱う必要はないと判断したのではないか。自国の合理的思考を持った「人間」の損耗を減らすために、このクレイジーなロボット達を全て破壊しようとしたのではないか。

 なぜ国民は合理的な議論ができなかったのだろうか。なぜロボットにされてしまったのだろうか。国家総動員体制のため、ドイツで行われたメディアによる強制洗脳の手法が全面導入されたということもあると思うが。そもそも合理的思考する精神的(宗教的)なバックボーンがなかったということでないか。

 軍部・官僚は「国策」を遂行する中で、国策産業資本家(三菱・三井・住友などの財閥)とともに巨大な利権者になり、「国策・正義」にかこつけて結局は利益(私腹)を肥やすことだを目的にするようになったのではないか。国民を強制洗脳により安価なロボットにして、また占領地からの安価な労働力も使用して、自分たちの都合の良い「消耗品」にした。

 日本軍部やその関係者は、特別会計の残余財産、貴金属や大量の物資を敗戦後隠匿したようだ。これは本来ならすべて国民に還元すべき財産だったはずだ(または占領地の市民に返すべきものだった)。戦時国債・軍票は紙くずになり、食べるものにも事欠く国民を尻目に、この隠匿財産はいったいどこに消えたのだろうか。この隠匿財産を調査するために、今の地検特捜部の前身の部署がGHQにより作られたとのことだ。そもそもからして地検特捜部は胡散臭い組織(諜報・謀略的な組織)だ。

 恐らくこの隠匿財産は、米軍関係者と特別会計利権集団で山分けされ、その後の日本の権力構造の核となったのではないか。

〔H26-10-24 追記
 なお、アメリカが日本を太平洋戦争に追い詰める策略を行ったという記事などを見かけることがありますが、「日独伊三国同盟」が実質的に英米に対する最後通牒的な意味合いがあると思います。それはドイツ諜報・謀略戦略の勝利ともいえます。もはやこれ以降は、米国は対日戦争準備を始め、戦端のタイミングを見計らっていたようです。
 参考『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一 』湯浅博著 >
 またルーズべルトは知人から日本の世界征服計画を聞いていたとのことです。とても日本に対して妥協する道はなかったようです。
 参考『ルーズベルト秘録』産経新聞〕
 
 
 今、福島原発公害は核燃料のメルトアウト、使用済み核燃料の長期に亘る管理対応(極めて困難⇒絶望的)などにより、最悪の事態(破綻状態)になった。国策原発推進者は、太平洋戦争の正義のような理由(国策)をかこつけて、この破綻(大量の放射能汚染の継続(永遠的)⇒膨大な健康被害の発生・天文学的な損害賠償費用)を無理やり隠蔽しようとしている。米国の原子力・核戦略による圧力もあると思うが、自分たちの利権の防衛、被害の復興までも利権拡大のため利用しようとと血眼になっているようだ。太平洋戦争時の国民のように、福島市民を「消耗品」にしようとしているか?

 もし使用済み核燃料までもが溶融・漏出した場合、首都圏は高度な放射能汚染地帯になる(チェルノブイリのセシウム換算で10倍、核種によってはそれ以上)。もはや日本は経済・政治的に「死に体」の状況になるだろう。

 国際的にも大量の放射能漏れによる健康被害・作物被害・土壌・海洋汚染の責任を問われる。もはや米国にも見放されて(放射能まみれのところに基地は置けない)、米国・ロシア・中国・韓国などにより共同(分割)占領されることも考えられる(賠償資金がないため)。そして東京裁判のような国際裁判が行われ、東電はじめ官僚(検察・最高裁含め)、政治家、企業経営者なども断罪されるかもしれない。

〔平成26年2月14日追記 太平洋戦争の軍事的な概要をコンパクトにまとめたサイトがありました。OKコラム 太平洋戦争とは何か?(経緯・歴史
 なかでも「マリファナ沖海戦」が太平洋戦争での実質的な勝敗を決した戦闘になりました。
 
 日本の優れた戦闘員の精神力や航空技術(航続距離の優位など)では、米国のレーダー技術(近接信管含め)(高度な科学応用技術)に対してまったく対抗できなかったということです。単なる崇高な精神力や経験知的な技術・兵器では、高度科学(数理論理)応用技術・兵器にまったく歯が立たなかった訳です。
 この後は、サイパンからB29が本土空襲を行うなど、インディアン戦争が虐殺史に変容したように、見るも無残な結果となってしまいました。〕


 


 
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日米安保・地位協定、原子力協定、米国システムへの積極的な同化

2013-06-24 20:15:17 | 国内政治
さて福島原発公害事件の矮小化には、米国原子力戦略の意向、いや命令が決定的な要因になっているようです。恐らく数々の公害(健康被害)法廷闘争も、米国の「意志」の前には何等の効果もないかもしれません。ただし米国の「意志」といっても原子力戦略に実質携わっているのは一握りの集団で、大多数の米国人には情報適格性はないでしょう。

 日本は米国の強力なシステムに完全に取り込まれている。ハリー・マグドフという米国の学者が「植民地なき帝国主義」という言い方で、建前上独立している国を実質的にコントロールするシステムを詳述していました。条約、協定、基地、金融システム、エネルギー、CIAなどの諜報・謀略組織などによりコントロールするとのことです。
 
〔参考:『帝国主義 : 植民地期から現在まで』. ハリー・マグドフ著 大阪経済法科大学経済研究所訳 
 
 歴史的な植民地化の方法としては二つのやり方があったとのことです。
 1.土地にいる原住民をすべて虐殺してまったく新たなシステムを構築する
 2.原住民を労働者などとして利用して、その文化・システムを改造する

 私は、この植民地化はある国とある国(又はある民族の支配地)との関係だけではなく、同じ国の中でも、工業化された企業・政治利権集団と農業・漁業などの村落共同体との関係でも当てはまると思います。要するに、工業化(科学技術応用経済)するための社会改造であり、社会改造できないときは虐殺(現代では利益誘導・思想洗脳による従属化(考える自由の剥奪)など)して新たなシステムを構築するということです。これは「公害」の中核的な問題だと思います。〕

 日本にとっては、日米安保とその具体的な国内行政の取り決めである日米地位協定はもっとも重要だと思う。米国は勝手に軍事基地をどこにでも造り、そこは日本の治外法権となります。
 関東・甲信越の米軍の航空管制はいったいどのような法的根拠があるのかと思っていましたが、要するに横田基地があるので、それに関係する飛行ルートはすべて管理できるということらしい。地位協定からとんでもない飛躍があると思いますが、外務省は強引に整合性があると弁解しているようです。この例を見ると何でもありのようです。

 wikipeadia横田飛行場 横田空域より引用

「横田進入管制区、通称「横田空域」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に及ぶ広大な空域の航空管制は横田基地で行われている。「横田ラプコン(RAPCON: Radar Approach Control の略)」とも呼ばれるこの空域はアメリカ空軍の管制下にあり、民間航空機であっても当該空域を飛行する場合は米軍による航空管制を受けなければならない。しかし、事前協議によって飛行経路を設定する必要があり手続きが煩雑である。このため、羽田空港を発着する民間航空機は同空域を避けるルートで飛行している。特に羽田空港や成田空港から西日本や中国・韓国方面へ向かう民間航空機の飛行ルートに目に見えない壁として立ちはだかり大きな障害となっている。これが航空路が過密化し、航空機同士がニアミスを起こす危険な要因の一つとなっている。

 同空域は1992年(平成4年)に約10%、2008年9月25日に約20%が返還され、現在は高度約7000mから約2400mの、東から西に高い6段階の階段状となっている。2008年の一部返還により、羽田空港を利用する民航機が横田空域を迂回したり同空域を越すための上昇率が多少減るため、年間約180億円(羽田空港の再拡張前は130億円)の経済効果があると試算されている。約180億円の内訳は、燃料費削減による効果が約66億円分、飛行時間短縮による運航コスト低減効果が36億円分、旅客利便性向上効果が77億円分とされる。羽田空港の年間発着回数は約296,000回から407,000回へと増加する。時間短縮効果は、羽田出発便のうち中国地方・九州北部行きで3分、関西地方・九州南部・沖縄行きで約2分、羽田到着便では2分以上とされる」

 この米国のシステムに日本が取り込まれていることに関して、左翼の方が言うように日本の為政者・政治家が間違った政策をとったからでしょうか?

 私はほとんど日本が選択できる余地はなかったと思います。

 米国にとって日本は旧ソ連(ロシア)・中国に対して絶対不可欠な「基地」であり「補給兵站」であると思います。日本人が勝手に自主独立的な行動を取ることは絶対許さないと思います。軍事革命(科学の進歩による兵器の高度化に見合った戦略・戦術革命)により、冷戦期のような絶対的な価値はないようにも思えますが、それでも欠かせない橋頭堡だと思います。米国内にも多極派・冷戦派などの政策の違いもあるようですが…。米国の両派とも、日本の自主独立路線を絶対認めない、許さないと思います。

 日本がロシアか中国に付けば、太平洋の西半分は危険地帯になり、米国西海岸も直接攻撃される可能性が高まります。

 (私の妄想です)
〔またサムライという人権思想からかけ離れた野蛮人が軍事武装すれば、何をやらかすか分からない。なにしろ全員玉砕が美徳の輩だ。この黄色いサルらは常にシステムで縛りつけないと危険だと思っているかもしれません。
 それに日本はプルトニウムを大量に保有し、H2ロケットなど高度な科学技術力もある。米軍兵器のライセンス製造もおこなっている。このような国は本当に敵にしたらいけない、絶対敵にならないように監視する必要があるとも思っているかもしれません。〕

 そうなると米国のシステムに取り込まれながら、積極的にそのシステムに同化していく方法しかないのかもしれません。いくらきれいごとを言っても、米国の科学(数理論理)応用兵器には歯が立たちません。刃向かえば、徹底的に抹殺されるかもしれません。軍事侵攻の前に諜報・謀略作戦により傀儡化されるとは思いますが…(今も傀儡かもしれませんが?)。

 しかし、中国やロシアに従属するよりも米国に同化する方がマシだと思います。

 日本が完全に自主独立するのは至難の業だと思います。科学(数理論理)戦争で米国に勝利するのは今のところ不可能だと思います。

 米国に完全に同化すれば、ガリアがローマ化したように、いずれ米国市民権に近い権利を得られるのでしょうか?

 日本の積極的な米国システムへの同化政策の最たるものは、日米原子力協定かもしれません。
 20世紀に科学(数理論理)は、原子力の威力によって超絶した「宗教」になったと思います。想像を絶する破壊力とエネルギーの威力を顕示して、奇跡を示し神聖化されたと思います。
 その宗教の主教は科学者(数理論理学者)たちであり、そこには倫理というものがまったくなく、真理(数理論理への還元)のみしかありません。
 そして、その科学(数理論理)の威力のおこぼれをもらうため日本は米国と原子力協定を締結したように思います。日本が他の国から科学(数理論理)のおこぼれをもらわないように画策したとう面もあるらしいです。

 日本は勝手に原発を止めることができないようです。日米原子力協定で米国の原子力政策の一翼を担わされているようです。
 また日本はこのシステムに積極的に同化するため、懇願して六ヶ所村の再処理施設も認めてもらったようです。核抑止力の一翼も担い、あわよくば自ら核大国になり米国に一泡吹かせようなどと考えたのかもしれませんが…?

 もはやこの同化政策はますますエスカレートしていくようです。TPPもこの同化政策の一つかもしれません。
 左翼や右翼の方やが言うような自主独立な政治などというのは、今の米国システムの中ではまったく実現不可能のように思えます。それこそ内戦のような血なまぐさい革命でも起こらないかぎり無理だと思います。しかしその後待っているのは中国やロシアの従属国かもしません。

 唯一科学(数理論理)応用兵器で勝てれば夢ではなくなるかもしれませんが…。そのためには数理論理教に改宗して、すべての資源を基礎科学に注ぎ込むしかないでしょう。


 参考:「日米原子力協定」については、座間宮ガレイさんのブログで詳しく説明されています。また米国巨大科学の支配については、『エリア51』アニージェイコブセン著 太田出版が分かりやすいと思います。

 
 
 

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