最近、大正・昭和前期の本を何冊か読みました。
『血盟団事件』中島岳志著 文春文庫、『昭和戦前期の政党政治』筒井清忠著 ちくま新書、『永田鉄山と浜口雄幸』川田稔著 講談社選書、『高橋是清と井上準之助』鈴木隆著 文春新書、『山県有朋』半藤一利著 ちくま文庫、『マンチェリアン・リポート』浅田次郎著 講談社、『中原の虹』浅田次郎著 講談社、『終わらざる夏』浅田次郎著 集英社文庫、『総力戦体制と「福祉国家」』高岡裕之著 岩波書店、『日本国憲法9条に込めた魂』鉄筆文庫
上記の本を読んで、また関連するサイトを見て以下の認識を新たにしました。(私がただ単に個人的に思っただけのことです。)
1.血盟団事件の原動力は国体思想
血盟団事件、5.15事件、2.26事件の「テロ」の背景(原動力)には、強力な民族主義的な精神主義(国体思想)がありました。
これらは同じ思想的なバックボーンから連続して行われたテロのようです。これらにより最終的に政党政治は潰され、軍部は精神主義を形式的に利用した、ナチス・ソ連の統制経済を模した全体主義体制を構築しました。
この民族主義・選民思想的な精神主義は今日も日本の潜在意識に息づいていると思われ、自由主義に対しては戦前と同じように危険な思想になり得ると思います。
2.大正・昭和前期の政党政治と軍部独裁体制
大正・昭和前期には、民主主義的な政党政治が行われ、日露戦争以降の軍縮(軍事予算の削減)や宥和外交、資本主義の進化などの政策が行われました。政党間で金解禁などの論争もありましたが、欧米との国際協調主義は根本的な政策だとみられていました。
そのため主流派の政治家は中国・満州への軍事進攻は墓穴を掘る、つまり欧米との経済関係が破綻し行き詰ると認識していました。経済が行き詰まれば、戦争などはできません。
特に幣原喜重郎の自由主義体制重視の政治哲学は確固としたもので、イデオロギー化していたようです。(戦後の憲法9条の発案者もこの方のようです。てっきり米国に押し付けられたものと思っていましたが、幣原さんの平和外交の信念(信仰)が、敗戦という好機(またとない機会)に、世界に類のない「永久平和条項」を、米国からの意向という形で実現させてしまったようです。国際連合が実質的に機能するまで、世界で最も合理主義・民主主義的と思われる米国に「安全保障の委託」をする。日本は世界のために「永久平和の人柱」になる?との決意だったようです。本人も米国も驚天動地の心境だったようですが、昭和天皇はあっさりと快諾されたようです。)
しかし昭和初期、幣原さんの理想とはかけ離れた状況へと進んでいきました。ある政党は党利党略や国粋的思想のため、軍部の意向に迎合し接近していきました。また軍部も政党支配(世論操作)の重要性を認識しはじめたことにより(軍部予算の削減など許さん)、政党を徐々に取り込んでいきました(軍部の政治への介入)。そのため、政党政治という民主主義的なシステムは瓦解しはじめ、最後には軍部に脅迫(1のテロなど含め)されるような形で軍部の独裁体制に移行してしまいました。
統制派はテロ事件後、皇道派を粛清し、ナチスやソ連型の全体主義・統制経済の総力戦体制を構築しました。第一次世界大戦を観戦した若手の将校達は、軍・国家体制の改革の必要性を痛切に感じていたようです。軍部は政治に積極的に介入すべきだと考えていたようです。
日本陸軍の創始者の山県有朋は、早くから総力戦のような考えを持ち、邪魔する者をすべて排除してきたようです。日清・日露戦争の勝利は、山県有朋のこの総力戦思想の賜物だったとも思われます。しかし、個人的創造(民主主義や自由主義というシステム)を抹殺させる思想は、やがて「科学戦争」には逆に足かせになったようにも思えます。すべてがイエスマンになってしまったら、「創造(真の科学)」は死滅してしまいます。
統制派でも、永田鉄山という人は卓越した合理的思考をもっていたようで、もし暗殺されなけば、「大平洋戦争の開戦」という愚かな選択まではしなかったのではないかと思ってしまいます。自滅しかありませんでしたから。統制派には、岩畔豪雄のような逸材がいました。岩畔さんは、陸軍中野学校や登戸研究所を作るなど、科学戦を理解しており、米国との開戦に最後まで反対されていました。(またどうもあの悲惨なインパール作戦を考えたのはこの方で、要は敗戦必至の日本の戦後に味方になってくれる大国を確保するため、インド独立の先駆けとなる、無謀な対英作戦を敢行したようです。この特攻作戦は、あと一歩で(一部の無断撤退がなければ)、英国防衛戦(インド支配の英軍)を壊滅させるまで奮戦したようです。独立のためのインド兵士を温存し、日本兵の屍を重ねることでインド独立を実現されるという決断だったようです。戦後、このインド兵らが核になり独立を勝ち取ったようです。この作戦は、戦後を見つめた謀略戦の意味合いがあったようです。あくまで個人的に感じたことです。)
3.明治維新から太平洋(大東亜)戦争まで重税に次ぐ重税
明治維新から太平洋戦争まで、財政的には全くの負け戦であったとのことです。経済的に自立できない間に、莫大な軍事予算を計上し、重税に次ぐ重税により国民は疲弊していきました。日清戦争・第一次世界大戦時は収支は少々良かったようですが、後は全くの赤字財政だった。特に日露戦争後に全く賠償金を取れなかったのは痛かった。それに関東大震災の巨大赤字が重なり、もはや補填できるものではなかった。自転車操業のような財政赤字のままに、日中戦争・太平洋戦争に突入していたったとのことです。
太平洋戦争の終戦後に、当時の映像を見ると、貧困の中でも、国民は何かほっとした顔付きをしていたように思います。国民は、この重税に次ぐ重税、思想の統制に次ぐ統制という「鎖」から解放されて、自由に生きていけるという安堵感に満たされていたような気がします。
4.満州侵略
満州侵略はどんなにきれいごとを言っても、正当化できるものではないと思われます。この侵略は、2の自由主義的な考え方からは日本経済の死(欧米先進国との経済的関係の破綻)を意味しますが、全体主義者の考えでは逆に「日本の生命線(資源・労働者等の宝庫)」として絶対的に必要な戦略だとみなされました。また相次ぐ重税により農村は貧窮して、人身売買(娘の身売り)などが横行して世相が乱れ、やがて2.26事件などのテロも起こり政府は危機感を強め、窮乏する農民のはけ口として満州開拓が注目されるようになったようです。満州支配の尖兵にもされたようで、戦後のソ連侵略では、過酷で悲惨な運命が待っていました。
5.昭和天皇は不世出の英主
昭和天皇は偉大だった思います。「玉音放送」がなければ、一億玉砕の催眠状態から覚醒できなかった。戦後すぐに平和国家として生まれ変われることができたのは、この「覚醒暗示」とその後の全国巡行「追加の暗示(励まし)」によるものが大きいと思います。
昭和天皇は、科学・政治・経済・軍事・人文関係に精通していました。なおかつ胆力もありました(幼少時に乃木将軍などから教育を受けていた)。満州・中国侵略、ナチスとの同盟がいかなることになるかを理解していた思います。天皇主義という方便を駆使する軍閥などにを、昭和天皇は苦々しく思っていたようです。
戦後の昭和天皇の全国巡行は、上記の暗示の強化とともに、自らの責任を国民に直接問うものだったのかもしれない。ほとんど護衛もない中、民衆の中にも入り、もし怨みがあれば殺してくれて本望だという覚悟だったと思います。また昭和天皇の激励も強力だった。昭和天皇が作業着を着て三池炭坑の奥深くの坑道内に入り、ここが日本再生のために一番重要であると檄を飛ばし、炭坑幹部に「どうかよろしく」と頼み、炭坑幹部が頭を垂れ感涙にむせぶ中、作業員の万才万才のエールに苦笑いしながら応える姿をみると、天皇という配役を演じきっている、不世出の英主としか思えません。天皇などいらないと放言していた若き頃の自分に恥じ入るのみです(馬鹿者でした)。
6.厚生省は優生学から生まれた
厚生省は、ナチスの優生学のような趣旨から作られた官庁のようです。そのため、総力戦のために必要な施策を行うことが第一で、様々な厚生政策は個々の国民のためではなく、国家のためになることのみ行われていた。窮乏した農民の組織的な満州移民政策もその一環のようです。考えてみれば、日本の官庁は総力戦体制のためにあり、その政策を行うという選民的特権意識を持って、自らの利権拡大を当然のことと思っているのかもしれない。そういう意味では、戦後も存続した官庁とは経済総力戦の装置としてフル稼働し、自らの利権もアメーバのように浸食拡大したのかもしれない。
7. 血盟団事件とは何だったのか
「…宗の僧侶である井上日召は、茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に、近県の青年を集めて政治運動を行っていたが、1931年(昭和6年)、テロリズムによる性急な国家改造計画を企てた。「紀元節前後を目途としてまず民間が政治経済界の指導者を暗殺し、行動を開始すれば続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。
井上はこの構想に基づき、彼の思想に共鳴する青年たちからなる暗殺組織を結成した。当初この暗殺集団には名称がなく「血盟団」とは事件後、井上を取り調べた検事によりつけられた名称である。
井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定し、配下の暗殺団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。
井上はクーデターの実行を西田税、菅波三郎らを中心とする陸軍側に提案したが拒否されたので、1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月11日の紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉ら地方の同志に伝えるため四元が派遣された。ところが、1月28日第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の古賀、中村、大庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定した。2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めた。
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司(小学校訓導[2])
西園寺公望(元老)を池袋正釟郎(東大文学部学生[2])
幣原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘(東大文学部学生[2])
若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄(東大法学部学生[2])
徳川家達(貴族院議長)を須田太郎(国学院大学神道科学生[3])
牧野伸顕(内大臣)を四元義隆(東大法学部学生[2])
井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正
伊東巳代治(枢密院議長)を菱沼五郎
団琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二
犬養毅(内閣総理大臣)を森憲二(京大法学部生[3])
井上準之助暗殺事件
1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺団の一人である小沼正が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。また、予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。
暗殺準備
四元は三田台町の牧野伸顕内大臣、池袋正釟郎は静岡県興津の西園寺公望、久木田祐弘は幣原喜重郎、田中邦雄は床次竹次郎、須田太郎は徳川家達の動静を調査していた。第一次上海事変での藤井斉の戦死を知った井上らは陣容強化のため大川周明を加えることを画策し、2月21日、古賀清志は大川を訪ねて説得し、大川はしぶしぶ肯いた。また2月27日、古賀と中村義雄は西田税を訪ね、西田の家にいた菅波三郎、安藤輝三、大蔵栄一に、陸軍側の決起を訴えたが、よい返事は得られなかった。
一方、井上は井上準之助暗殺後に菱沼五郎による伊東巳代治の殺害は困難になったと判断し、菱沼五郎には新たな目標として政友会幹部で元検事総長の鈴木喜三郎を割り当てた。菱沼は鈴木が2月27日に川崎市宮前小学校の演説会に出ることを聞き、当日会場に行ったが、鈴木の演説は中止であった。
團琢磨暗殺事件
翌日再び目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨となった。團琢磨が暗殺対象となったのは三井財閥がドル買い投機で利益を上げていたことが井上の反感を買ったとも、労働組合法の成立を先頭に立って反対した報復であるとも言われている。菱沼は3月5日、ピストルを隠し持って東京の日本橋にある三井銀行本店(三井本館)の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた團を射殺する。菱沼もまたその場で逮捕された。
逮捕・裁判
小沼と菱沼は警察の尋問に黙秘していたが、両人が茨城県那珂郡出身の同郷であることや同年齢(22歳)であることから警察は付近で聞き込み、まもなく2件の殺人の背後に、井上を首魁とする奇怪な暗殺集団の存在が判明した。井上はいったんは頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが[注釈 1]、結局3月11日に警察に出頭し、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。しかし、関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。四元は公判で帝大七生社と新人会の対立まで遡り、学生の就職難にあると動機を明かした。
五・一五事件
古賀清志と中村義雄は3月13日に、血盟団の残党を集め、橘孝三郎の愛郷塾を決起させ、陸軍士官候補生の一団を加え、さらに、大川周明、本間憲一郎、頭山秀三の援助を求めたうえで、再度陸軍の決起を促し、大集団テロを敢行する計画をたて、本事件の数か月後に五・一五事件を起こした。
西田税が陸軍側を説得して同事件への参加を阻止したことから、これを裏切り行為と見た海軍側は暗殺を計画し、血盟団員の川崎長光を刺客に放った。事件当日、川崎は西田の自宅を訪問し短銃で重傷を負わせたが、暗殺には失敗する(西田税暗殺未遂事件)。 また事件当日、同じく団員だった大学生の奥田秀夫は、三菱銀行前に手榴弾を投げ込み爆発させた。
関係者のその後
その後、1940年(昭和15年)に(井上・小沼・菱沼・四元ら)は恩赦で出獄する。
井上は、戦後右翼団体「護国団」を結成して活動を続けた。1967年(昭和42年)3月4日死亡。
小沼は、戦後は出版社業界公論社社長を務める傍ら右翼活動を続け、『一殺多生』を著わす。1978年(昭和53年)1月17日死亡。
菱沼は、帰郷して右翼活動から一線を引いていたが、小幡五朗と改名し、1958年(昭和33年)に茨城県議会議員に当選し、その後8期連続当選、県議会議長を務めて県政界の実力者となった。1990年(平成2年)10月3日死亡。
四元は、出獄すると井上日召らと共に近衛文麿の勉強会に参画、近衛文麿の書生や鈴木貫太郎首相秘書を務めた。1948年(昭和23年)の農場経営を経て、1955年(昭和30年)より田中清玄の後継で三幸建設工業社長に就任(2000年 - 2003年会長)。この間、戦後政界の黒幕的な存在として知られ、歴代総理、特に細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。2004年(平成16年)6月28日老衰のため死亡する。享年96。
川崎長光は出獄後、郷里の茨城に帰って保育園を経営した。長らく政治に係ることはなかったが、2010年、99歳にして初めてインタビューに応じ、事件を語っている。
井上は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」「一殺多生」などの言葉を遺している。血盟団によるテロ計画のアジトとなった立正護国堂は、現在もなお、正規の日蓮宗寺院・東光山護国寺として残っている。境内には、「井上日召上人」を顕彰する銅像や、「昭和維新烈士之墓」などがある。
一連のテロに恐れをなした池田成彬ら財界人は三井報恩会などで俗に言う「財閥の転向」を演出することになる。(引用終わり)」
この血盟団事件の中心人物の井上さんという僧侶の思想は結構奥深いものがあると思います。井上さんはマルクス主義からキリスト教、仏教など様々な思想に出会う中、最後に「日本国体主義」のような思想に傾いていったようです。
この「日本国体主義」とは私的には以下のように思いました。
天皇主義と日蓮主義の融合、この考え方はこちらの方の思想に近いと思いました。
天皇主義とは、世界の根本的な中心は日本であり、その日本の存在的な中心が天皇皇統であり、日本人はすべからく天皇の子孫である。日本人は世界を統治する権利がある。
また日蓮主義とは、精神的な信仰上の問題としてだけでなく、この信仰をこの世俗社会で具現化するために、政治・経済などの幅広い社会的領域に積極的に働きかけ、この信仰を「国教」にするような考え方だと思います。
この主義の宗派の経典は一種独特な内容になっていると思います(単に個人的に感じたことです)。その経典の前半は文学・芸術的比喩による物語的な宗教的なお話で、女性も救済されるという当時としては平等主義的な主張もふくまれています。しかし、後半はまるで…のような組織拡大の実践方法が書かれてあるようように思えました。祈ることより、どれだけ教化できるかがより重じられます。岩波文庫のあとがきには、確かインドで仏教が廃れる寸前に書かれたものであると書かれていたと思います。そのため戦闘的教化の「檄文」のような内容にもなっているのかと思います。
そして天皇主義と日蓮主義が融合するとは、このようなことかと思います。
また井上さんがこのようなテロを考え付いた背景には、継続的な財政赤字による国民への重税により、特に農民が窮乏し(娘の身売りや悲惨な状況だった)、それに対して財閥や大地主・都市部の商工業者のみが潤い、政治家が賄賂まみれであったことが大きいようです。(私もこの時代に生まれ、貧しい農村で、近所の娘が売られて、富みに溢れた都会で慰めものにされていたのを見たら、間違いなくこのようなテロに参加していたと思います。)
精神的な国体主義者たちは、根本的に自由主義経済・物質文明への反感(嫌悪)を持っていたと思います。そのために彼らは、秩序のある倫理的な道徳体制を取り戻すために、天皇による直接的な指導を望み、天皇との間に入って間違った政策をしている政治家・経営者等を排除しなければならないと考えたようです。
そして重税で喘ぐ国民も、この井上さんの考え方に共感を持っていたようです。
しかし、この事件、続く5.15事件、2.26事件のテロにより、日本の政体が全体主義(軍国主義)に決定的に移行することになったと思います。
特に、軍事予算拡大の最後の歯止役だった高橋是清が暗殺されたのは痛恨の極でした。もはやなし崩し的に軍事予算は膨張し、民間の自由主義的経済が疲弊する中、満州・中国の資源・労働力を確保するために邁進するしかなくなった。窮乏した農民の厚生政策の一環として、貧困者は満州開拓・防備のために、華々しい宣伝の元で移民させられた。
そして、この「日本国体主義」は、科学の基盤である「数理論理教」とは相容れない内容の思想なので、科学的な合理思考を麻痺させ、窒息させることになりました。
日本人は世界の中心的な根本存在である天皇の子孫であるとする「神秘思想」は選民思想に似た危険性を持っていると思います。
またこの一連のテロはどのような思想的背景があるにしろ、正当化できるものではないと思います。井上準之助や高橋是清などかけがえのない人材を失うことになりました。
8.立正安国論と選択本願念仏集
以下私見です。
(1)鎌倉地震(当時の首都の住民の約半数が亡くなる)などの惨禍が続く中、日蓮さんはその根本原因を探るため万巻の経典等を読破して、次のような結論に達したように思います。
ある宗派のように正教を曲げて教えていることが問題だ。今こそ正教の教えのみを国が認め、他の正道から外れた宗派は公的に排除されるべきだ。(幕府からの援助を止めるべきだ。物理的排除しろなどとは言っていません。)
(2)日蓮さんは様々な経典から引用して、対話形式による華麗な脚色(方便)を用いて、理路整然と自説を説かれました。仏教の経典が正しいという前提では、日蓮さんの弁論に立ち向かえる相手はいなかったかもしれません。日蓮さんは天才だったと思います。
(3)また日蓮さんは無私無欲で、ただ全ての人を救済すべく真摯に考え、刑死も恐れず建白されました。尊敬されるべき人だと思います。
(4)また日蓮さんに槍玉にあげられた宗派の教祖も、全ての人を救済するために深く悩まれ、学問的な正(統的な)教を敢えて捨て、誰でも救済されるように、簡単で分かりやすく、ストレスを解消しやすい教えを説いたのだと思います。
私は『選択本願念仏集』(岩波文庫)を読んだとき、これは当時としてはずば抜けてリベラルな思想を表明したものだと思いました。以下単に私が思ったことです。
すべての人が救済さるために、どうしたら良いのか。膨大で難解な、思想の大伽藍のような仏教経典は、残念ながら役にたっていないのではないか(研究者の自己満足に過ぎないのではないか)。仏教界は、華美な儀式や神秘的な読経などにより、財力を得て権力化しているのではないか。民衆には、誰でも救われる、簡単な実践による信仰により救済されることの安堵感により、この世で精一杯頑張ってもらいたい。そのような励みになるシステムが必要ではないか。誰でも平等に救われる。それを進めると、貴族や仏教界や様々な権力層から危険視され弾圧を受けるかもしれない。しかし、これはやり遂げなければならない。私は難しい仏教の話は分からないので、こんな説教をしているとでも言っておこう。一応、浄土教からの引用ということで、教えを形作るけど、要するにすべての人がほぼ無条件に平等に救済されるということは、仏教経典などには関係のない、実践的な社会政治的な問題になる。すべての人が救済されるという仏の教えは、経典の難解な思想の中やあの世ではなく、この欲望に満ち溢れている現世の社会で実現されなければならない。そのためには、民衆には、簡単な信仰実践により救済の安堵感を与え、死を恐れることなく、現況の悲惨な状況にも左右されずに、この世でできる限り積極的に生きてもらいたい。そして最低限、仏の教え(簡単な信仰実践)は守ってもらい、もし財力を築くとか権力を得た場合にも、奢ることなくその教えを守ってもらいたい。
またこれらの教祖を産み出した大学のようなシステム(比叡山)を作られた方も尊敬されるべきだと思います。
(5)ただし、日蓮さんは当時は最高の知識である仏教の経典から結論を出しました。もし、日蓮さんが現代にタイムスリップしたら、そして図書館で科学書など含め万巻の書物を読んだら、どのような結論を出すのでしょうか。