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三ノ輪 一葉と吉原ゆかりの地

2016年08月31日 | 散歩
 今日は一葉と吉原ゆかりの地を散策する。

 「三ノ輪」駅下車。国際通りを少し南下すると、

<千束稲荷神社>
 樋口一葉ゆかりの神社。


千束稲荷神社
樋口一葉の「たけくらべ」にお祭りの様子が描かれている。
樋口一葉「たけくらべ」に出てくる千束稲荷のお祭り  「・・・は千束神社のまつりとて、山車屋臺に町々の見得をはりて土手をのぼりて廓内(なか)までも入込まんづ勢ひ・・・」「打つや皷の調べ、三味の音色に事かゝぬ塲處も、祭りは別物、酉の市を除けては一年一度の賑ひぞかし、三嶋さま小野照さま、お隣社づから負けまじの競ひ心をかしく・・・」「横町も表も揃ひは同じ眞岡木綿に町名くづしを、うしろ鉢卷に山車の花一枝、革緒の雪駄おとのみはすれど、馬鹿ばやしの中間に入らざりき、夜宮は事なく過ぎて・・・」


千束稲荷神社の鳥居と拝殿


樋口一葉記念碑
正面碑文 『明日ハ鎮守なる千束神社ノ大祭ナリ今歳は珠ににぎはしく山車などをも引出るとて人々さわぐ』 樋口 夏と記されている。

 国際通りをさらに南下すると、


大音寺
 一葉「たけくらべ」の冒頭に、
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來(ゆきゝ)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前(だいおんじまへ)と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、・・」
とこのお寺がでてくる。

 国際通りを横切って、竜泉三丁目に行く。


竜泉界隈の古民家
なんだか一葉が住んでいた住居じゃないかと勘違いする程、当時を彷彿とさせるものがある。


一葉記念館(右)と一葉記念公園(左)

<一葉記念公園>


一葉記念公園
手前にあるのは、菊池寛の碑文。
<碑文>
 ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居のあとなり。一葉この地に住みて 「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を 慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。
 菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなり き。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和 二十年三月この辺一帯焼野ケ原となり、碑も共に溶く。
 有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家として の面目
これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐ に由なし。
僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
       昭和二十四年三月
            菊  池   寛撰


たけくらべ記念碑
碑文は女史の旧友歌人佐佐木信綱博士作並びに書による次の歌二首が刻まれている。

 紫の古りし光にたぐへつべし
  君ここに住みてそめし筆のあや

 一葉女史たけくらべ記念碑

 そのかみの美登利信如らもこの園に
  来あそぶらむか月しろき夜を

              佐佐木信綱


滑り台に人力車の絵
一葉の小説には人力車が多く出て来る。

<一葉記念館>
 昭和36年に、我が国初の女流作家の単独資料館として開設され、平成18年11月1日に、リニューアルオープンした。


一葉記念館入口


一葉一家が住んでいた当時の竜泉の町並み


一葉の住居家並みの絵


一葉の住居の模型
左が一葉の居宅。


「奇蹟の14カ月」の展示
なんと、わずか14カ月で作品の大半を書き上げている。


「仕入れと図書館通いの日々」の展示
苦しい生活の中で上野の図書館に通い、多くの小説を読破していた。

 一葉記念館をあとにして、竜泉通りを行くと、


樋口一葉旧居跡

 国際通りの竜泉交差点角にある、蕎麦屋で昼食。


そばや「角萬」
蕎麦は蕎麦というジャンルを飛び越えたようなワイルドな太麺で有名!
 
 国際通りを南下すると、

<鷲神社>
 酉の市で名高い。


鷲神社(おおとりじんじゃ)


樋口一葉文学碑
 『たけくらべ』
此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天氣に大鳥神社の賑わひすさまじく、此處をかこつけに檢査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき・・・

 千束三丁目にはいる。

<吉原弁財天>


吉原弁財天


吉原観音
吉原観音は、千束三丁目にある花園公園の吉原弁財天のなかにある。関東大震災では遊女をはじめ多くの人々が池に逃れ、490人が溺死する悲劇が起こった。この観音は溺死した人々の供養のために大正15年(1926)に造立されたもの。

 これより吉原遊郭があった吉原仲通りを進む。

<吉原>


吉原仲通り


吉原神社
吉原遊郭とともに歩んできた神社。


大門のあった付近る
独特の曲がり道は周囲から吉原を隠すために設計されたと言われている。


見返り柳
かつて吉原に遊びに来た客たちは、後ろ髪を引かれる思いでこの辺りで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」の名がつけられた。

 土手通りに出る。


桜鍋中江と土手の伊勢屋

 手通りを三ノ輪へ

<淨閑寺>
 安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。


淨閑寺


新吉原総霊塔
350年の歴史を誇る浄閑寺には、2万人の遊女が供養墓の下で眠っている。その基壇には「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれている。



「生まれては苦界、死しては淨閑寺」の碑
川柳作家・花又花酔の句。


永井荷風文学碑

詩碑に刻まれている詩。

震災    永井荷風

今の世のわかい人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
團菊はしおれて櫻痴は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の聲も亦絶えたりき。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を焼きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残煙となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の芸術を。
くもりし眼鏡をふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の兒ならずや。
去りし明治の兒ならずや。

震災によって、東京から江戸と明治が消えていったことを詠嘆調でうたっている。
九代目団十郎、五代目菊五郎、一葉、紅葉、緑雨もいなくなった。 師と仰いだ柳村(上田敏)、鷗外漁史(森鷗外)も既になく、震災後の東京は、「明治の児」荷風にとって異質の町になったと嘆く。
しかし、モダン都市東京の復興と同じく、荷風の立ち直りも早い。
更に、辺境を求めて彷徨いながらも、反面では、その東京を大いに楽しむことも忘れていない。

 一葉と吉原ゆかりの地を巡る散歩、なかなか充実した内容だった。

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