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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

たった一夜で白銀の世界になった善光寺平。その歴史を歩く。古代科野国と川中島の戦い(妻女山里山通信)

2014-12-17 | 歴史・地理・雑学
 選挙の前夜、長野市には降雪がありました。前の記事と同じ妻女山展望台からのカットなんですが、一晩で銀世界。全く違う風景になりました。幸い積雪は3センチぐらいだったので、道路の雪はすぐに溶けました。ただ、朝晩は凍結するので、特に山間部や橋の上、交差点等は要注意です。スタッドレスは万能ではありません。妻女山への舗装路も凍結するとカーブが急坂なので、スタッドレスでも登れないこともあります。17日現在、爆弾低気圧が北海道を中心に日本を通過中。善光寺平も一日中雪ですが、幹線道路は積雪していません。18日午前中、夜の降雪で積雪15センチ。国道403号線は圧雪。高速道路は融雪剤で雪はありませんが、チェーン規制がかかっています。

 茶臼山の中腹には日が差していますが、山頂は雪雲の中ですね。手前の広い道は、国道403号線です。昨冬の豪雪時には、除雪車が一度も来ませんでした。私が高校に通っていた頃は、未舗装でしたが、すぐ来てくれたんですけれど。一見豊かになったように錯覚しますが、確実に国力が落ちたんでしょうね。あの頃は県道でした。国道に格上げされたのに、この有り様です。

 妻女山展望台から左へ振り返ると斎場山(旧妻女山)が見えます。この間来た叔母も、地元では妻女山というとあそこだったんだけれどね。いつ変えちゃったんだろ。というので、事の顛末をかいつまんで話しました。屋代の一重山も、小島山がいつのまにか一重山になり、本当の一重山はその下なんですが、忘れられています。国土地理院は、歴史的地名にあまりに無頓着で無責任です。歴史を冒涜しています。
 妻女山展望台を下りると松代藩が立てた善光寺地震の慰霊碑と、大正天皇が皇太子の時に植えたお手植えの松(とっくに枯れました)が、赤坂山古墳の上にあります。そうです。ここは妻女山ではなく、赤坂山なのです。上杉謙信が本陣としたのは、ここではなく斎場山なのです。最初上杉軍は、斎場山を本陣として、斎場山脈のあちこちと眼下の斎場原などに布陣したといわれています。「上杉謙信斎場山布陣想像図」。
 展望台から東屋を経て南へ100mほど歩くと、妻女山松代招魂社。これは戊辰戦争以降の戦没者を祀った神社で、川中島の戦いとは全く関係がありません。瓦には、松代藩の六文銭が刻まれています。

 アニマルトラッキングをしようと思ったのですが、猪狩りの車が5台ほど来ていたので下ることにしました。また、猟師のTさんに猪や鹿の肉を分けてもらいたいなあ。今度もらったら燻製を作りたいなと思いながら下山。
 上信越自動車道の薬師山トンネルの脇に「上杉謙信槍尻ノ泉」。タヌキやニホンカモシカなどが水を飲みに来ます。この泉、江戸時代に大騒動を起こしています。詳しくは、「上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)」を。現在は、道はここで右に折れて高速をくぐっていますが、高速が出来る前は真っ直ぐ下って、会津比売神社の方へ通じていました。
 その会津比売神社。古代科野国の産土神といわれる祭神で古くは山上(御陵願平)にあったと伝わるのですが、上杉謙信が庇護していたために武田信玄に焼かれ、その後ひそりと山陰に再建されたという言い伝えがあります。会津比売神社の祭神・会津比売命については、「上杉謙信も庇護した妻女山(斎場山)の祭神、会津比売命について(妻女山里山通信)」を。科野国造との深い関係など。1145年前に起きた東北大地震・貞観仁和大地震についても書いています。

 次に久しぶりに松代城に行きました。地元の人は、長いこと海津城と言ってきたので、年配の人はその呼び方の方がしっくりきます。再現された太鼓門へ。
 北西にある戌亥隅櫓台(天守台)。天守に相当する櫓(やぐら)は、かなり古い時代に失われたようです。石垣も、古い時代のもので相当乱雑な積み方です。中学の頃は、ここによく遊びに来て、この石垣をロッククライミングよろしく登ったものです。城内には小さな檻があって、西条だかで生け捕りにされた熊が入れられていて、狭いのでいつも哀しそうな目をして八の字を書いて歩いていたのを思い出します。
 櫓台から見た斎場山。武田信玄は、全軍を海津城に入れたと言われていますが、その時に上杉謙信は、陣場平に陣小屋を七棟建てて本陣を移したと伝わっています。斎場山は、実は陣場平と妻女山(赤坂山)を結ぶ尾根の400m向こうにあるのです。そこで、海津城が見える広い陣場平に本陣を移したのでしょう。

 ところで松代には『真田節』というのがありましてね。真田祭はもちろん、各小学校や松代中学の運動会でも踊るのです。私も鉢巻をし、扇子を持って踊りました。今度「モーニング娘。14」に入った羽賀朱音ちゃんも踊ったことでしょう。昨年の真田祭には、兄弟で参加。朱音ちゃんはお姫様の格好をしたそうです

「花ならば 花ならば 駒も嘶(いなな)く出陣の 兜に散った山桜 今も清しく花弁に 薫る眞田の心意気 おおさ 眞田の心意気」
ちなみに、メインで踊っている男性は、私の中学の同級生で仲良しだったキミちゃんのお兄さんだそうです。

 同じく櫓台から南を見ると戸神山脈。清野氏の鞍骨城跡も見えます。近年、歴史マニアの方がたくさん登る様になりました。妻女山から鞍骨城跡、象山へとループコースも組めます。おすすめです。武田別働隊が詰めたのは、この左側の谷です。
 櫓台と斎場山。突然、亡き父が冬に縄をなう足踏みの機械を回しながら歌っていた三橋美智也の『古城』を思い出してしまいました。
 櫓台から東方を見ると、木の陰に尼巌山。左に上杉軍が超えたと伝わる候可峠(そろべくとうげ)と寺尾城跡。戌の満水まで、千曲川はこの松代城のすぐ北側を流れていました。戌の満水では、殿はじめ皆が船で逃げたそうです。その後幕府から一万両を借りて瀬直しをしたわけですが、それが松代藩の財政を圧迫し、庶民を辛苦の底へと突き落とすことになったわけです。

 松代城跡の東から斎場山と陣場平、天城山(てしろやま)への山脈を見たところ。武田信玄は、あの山脈上にズラッと並ぶ上杉軍の旗を見て何を思ったことでしょう。武田別働隊に伝わる啄木鳥戦法については、「『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証【妻女山里山通信】」をお読みください。啄木鳥戦法とは、キツツキがつついて、反対側に虫を追い出して食べるということにまつわる戦法ですが、キツツキにそういう習性はありません。

 翌日、用事の帰りに展望台に寄りました。まず手前から象山、皆神山、立石岳。標高が高くなるに連れ白さが増すのが分かります。次は望遠レンズで中野の高社山。麓の白い所は主にぶどう畑。この山を境に天候が変わります。
 寒くなると、信州でも旧埴科郡と更級郡にしかない郷土料理「おしぼりうどん」の季節です。地大根の絞り汁に味噌を溶いてうどんを食べるという、麺類の最も古い食べ方。今年は色々な辛味大根を作ってみました。上の赤いのは小田切赤首地大根。なんか不思議な旨味があります。左は最も有名なねずみ辛味大根。坂城が有名な産地で激辛ですが、甘みもあり、それを「あまもっくら」と表現します。次は戸隠地大根。戸隠では蕎麦の薬味に使われます。蕎麦には山葵が常道ですが、山葵より蕎麦の風味を殺しません。次は灰原辛味大根。ねずみ大根ほどではないですが、これも辛いです。もちろん甘みもあります。最後はいいづな青大根。いわゆる中国大根で、(江都青長)は、甘みの大変強いおろし(生食)専門の大根です。この大根は、中まで鮮やかな緑色です。辛味大根の辛味成分は揮発性なので、うどんが茹で上がる直前にジューサーにかけます。北信に来たら、ぜひ一度召し上がってみてください。坂城や戸倉上山田温泉に供する店があります。これを食べずして、うどん通を名乗るなかれ。

川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)
「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」
 冬は高速のトンネル前に駐車して徒歩で10分。アニマルトラッキングも楽しめます。また、冬は冬芽の観察もできます。昨年の今頃の記事「熊に見えたり猿に見えたり。愉快な冬芽の季節(妻女山里山通信)」。なかなか愛嬌があります。

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右上で「妻女山」でブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。

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