素焼きの人形と夢の話。

2008-08-21 10:02:51 | 日記・エッセイ・コラム

盆も過ぎてそろそろ空も高くなってきた。

牛は諸事情により、この夏のほとんどを実家で過ごした。
座敷に客用の布団を敷き、牛父の仏壇の前で毎夜眠ることになった。
その寝床、枕もとのすぐ脇に、人形がある。

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素焼きの人形である。
折鶴を持った女性に、手を伸ばす童がよりかかっている。
これは牛が幼い頃からずっとあったものだ。牛母は昔、人形を集めていたらしく、このようなガラスケースに入った素焼きの人形が何体かあったのだが、かねてより、牛はことさらこの人形に注意をはらっている。

事の次第はこうである。

まだ牛が小学生の頃。
あれは2年生ぐらいだったのだろうか、遠足で市内にある寺に行ったことがあった。
地名にも寺とつくところの、昔ながらの寺を訪れて、住職の話を聞いたり鐘をついてみたり。
寺のそばには地層があらわになっており、いくつかの窟がある。
昔、その窟で僧が座禅をしたのだという。
小学生の牛は、こんなところで座禅をして過ごすのはどんな思いであろうと、なんだか妙に気になったのだった。

遠足からどのくらい日を置いただろうか。

ある晩、牛は夢を見た。
夢の中で、牛は何か恐ろしいものから逃げている。
人々が早く逃げねばと駆け出す中、牛も怖くなって走り出すのだが、間に合わないと観念して傍らにあった木箱の中に隠れようとする。
怖くてたまらぬのだが、いったい自分が何から逃げようとしているのかさっぱりわからない。
そこで牛は、木箱のふたをそっと押し上げて、外を見た。
女だ。白い着物を着た女がこちらへ歩いてくるのだ。
ひたひたと、急ぐでもないその足取りは、真昼だというのになぜか空恐ろしい。
女が、もしも木箱のふたを開けて牛を見つけたら、きっと牛は殺されてしまうに違いない。
声をたててはいけない、気づかれてはならない。
恐怖にとらわれている間に、ついに女は木箱の前に…
そこで目が覚めた。

恐ろしかった。
寝汗をかいていた。
呼吸が落ち着くのを待って、夢だとわかっても、その情景は目覚めた牛の脳裏から消えることはなかった。
夢だったのだと、言い聞かせるためには牛は布団を抜け出して手洗いへと向かった。
その後なんとか眠りについたものの、翌朝になっても恐怖は消えることが無かった。
学校へ行き、家へ帰っても、牛母は当時働きに出ていたので家には誰もいない。
牛兄もまだ帰らない。
夢の、あの恐ろしさをまだかかえたまま、家の中をうろうろしていた牛はある事に気づいた。
素焼きの人形の童が倒れているではないか。
接間にある棚の一番上に置かれ、半ば忘れ去られている人形だった。
なんとなく気になって、イスを持ってきてその上に立ち、手を伸ばしてガラスケースを開けると、牛は倒れた童を元通り、立たせてやった。

その後、何事も無く数ヶ月が過ぎ、ある晩。
夢の中で、牛は畑のようなところに立っている。
農作業をしているのだ。
ふいに、周囲に居た人々がちりぢりになって駆け出した。
…逃げないと。逃げないと殺される。
でもどこへ?とにかく走って逃げないと。
牛は見覚えのある風景の中を走った。
見ると、地層がむき出しになった崖に、ぽっかりと穴が開いている。窟だ。座禅窟だ。
牛は、あの寺にいるのだ。
それでもどこへ逃げたらよいのかわからない。
迷った挙句振り向いた牛の目に映ったのは…女だった。白装束の女が、まっすぐ牛のほうに歩いてくるのだ。真昼の畑の中を、急ぐ事無く、けっして歩みを止めることも無く。
隠れるところ?修道窟しかない。だけど窟に入るにも高さがあってとてもよじ登れない。
どうしよう、追いつかれたら牛は…!

目が覚めて、それでも泣きそうなくらい恐ろしかった。
手洗いに行って、寝付かれず、それでも恐怖と戦ううちに睡魔に負けた。
翌朝になっても、やはり恐ろしくて一日を過ごした。
そして牛は、何気なく見た素焼きの人形の童が、再び倒れているのに気づいて、元通りに直したのだ。
その時も、牛は気づいていなかったのだが。

数ヵ月後。
またあの夢だ。夢の中でそう思っていた。
白装束の女に追われ、牛は逃げていた。
修道窟のそばを駆け抜けて、逃げた。
恐ろしい。恐ろしくてたまらない。
早く目が覚めればいい。早く。早く!

目が覚めた。
真夜中である。
牛は夢の中の、絶望的な恐ろしさを抱えたまま、階段を下りて接間へ向かった。
…あの素焼きの人形が置いてある接間である。
何をどう思ったのかわからない。しかし。

素焼きの童は、横倒しになっていた。
牛は、ガラスケースを開けて童を起こした。
元通りに、そっと女性にたてかけた。
手洗いに行って、眠って、翌朝を迎えた。

それ以来、牛は夢で白装束の女を見るたびに…いや、夢に見ずともふと思い出す度に、素焼きの人形に目をやっては、童が倒れていないことを確認し、倒れていればすぐに元通りに立ててやるようになった。
それは中学、高校生になっても続き、社会人になってからは忘れがちになったものの、牛母に頼んで、もし童が倒れていたら必ず元通りにしておくよう念をおしていた。
引越しの時にも、廃棄しようと言い出した牛母を止めて、そのまま現在の実家に持ち込んだのである。

何がどうという事も無い。
ただの偶然かもしれない。
夢に見た女と、素焼きの人形の女を同じだと思ってしまったら、そんなに恐ろしいことは無い。
だから牛は、いつも何気なく人形を見ている。

人形が倒れていないかぎり、白装束の女の夢を見ることは、無いのだ。