先日、ヤフオクで業界紙が出ているのを目にした。
特に内容を記す3枚の写真には想いもなかったけれど、目次ページの中の記載に
「小阪会館」
「永和会館」
の文字を見つけ、いてもたってもいられなくなった。
まだ1巡目で、誰も手を付けていなかったので容易に手に入ったが、2巡目からは少し競りになった。
時は1981年と1985年、それぞれ小学校2年と小学校6年のこと。
片親だったゆえ、ほとんど外食、メシが終わればパチンコ、そしてスナックのルーティン。
大人の遊びを覚えてしまった小学生。自分の中では当たり前になっていたが、周りから見ると異質で、パチンコを知っているのは自分だけだった。
ゆえに、今でもそうだけど、10歳上ぐらいの人と当時の話が出来る。
パチンコは当然18歳未満禁であるが、当時はめちゃくちゃ緩く(1990年前半ぐらいまで緩い)、業界誌にも子供が打っている写真がいくつかあった。
1981年、超特電機がでてきて、10カウント規制がかかった頃。
見開いたページから目を奪われる、そう、この頃見ていた景色。ブラボースペシャル一色。黄色に白の枠って初めて見たことに衝撃。この頃の平和工業はえんじにアイボリーしか記憶がない。
結構何でも知ってそうに思えたが、本の6割は初めて知ったことばかり。かなり衝撃を受ける。
現代から昔を振り返るものといえば、当時の1片でしかない。それも当時のことを知らない人が選択して表に出すので、かなりフィルターがかかることになる。当時の原風景なんて見れる由もない。
この業界誌(現在休刊)、台よりも、ホールや設備、部備品におもきを置いているので、いままで攻略紙で情報を仕入れていた側からすると、表現する角度が全く違うことに気づく。
このブラボースペシャルの写真、客のいないときの全景。攻略紙では取り扱うことはないだろう。
つまり、私たちが見ない(気づかない)世界を見せてくれる雑誌だった。70Pほどだったが、かなり隅から隅まで見て、1時間以上読みふけっていた。
1985年12月から小阪会館。1985年と言えば、阪神優勝の年。
中央のメインにフィーバー、ブラボースペシャル、ゼロタイガー、バトルエース
両隣が電役機、羽根物だったのが、フィーバー増設(写真に写ってる三洋のパニックが入ってたかなー)
端にまだ手打ちのオール10が残ってて、確か瑞穂のが沢山あったはず
電役機が専ら三共で、ジャンボアタッカーを使った台が多く、羽根物はタイガー3があったことを覚えてる。
台間サンドもあったし、鮮明に覚えている。そう、確かにここにいたんです。父親に連れられて、自分が遊んでるような、景色が思い出されます。それもこの時期にいてたっていうのが。
1981年12月から永和会館
この頃はさすがに覚えてませんが、設備変更があったぐらいで(スロを入れた時にカウンター前も閉じた)内装はそのまま閉業されるまでそのままでした。
自分が行ってたのが1990年以降。バイトが終わってから店前に自転車置いてですね、19時半~蛍の光までいてたものです。ここで客と揉めたり、店員と言い争いをしたのが思い出されますね(笑)
島飾り、カウンターなどは鮮明に覚えてます。この頃は三共とマルホンしか置いてなかったようですが、自分が行ってた頃は割とまんべんなく置いていて(三洋の割合が多かった)、近くに藤商事の研究所があったことから、藤の職員もきてました(アヘッド、ダイエー、アトム、21世紀とかでよく見かけました)
永和にはここしかなかったのですが、駅対面にシカゴが出来、CRを積極的に入れたので一時期客がとんでしまったんですよね。
鮮明に覚えてるのは、1995年1月17日、電車が動かず学校が休みになり、大学の友人にも電話がつながらず、バイトも行く日ではなかったので、永和会館にいったんですよ。余震で島全体が揺れまくって、島のリフトが止まってしまったのを覚えてます。(たしかコンチネンタル打ってたはず)そうしているうちに、携帯に神戸の友人から連絡があり、大変な状況を聞いて翌日に甲子園から歩いて西宮までいったんですよね。
ここは、記事にも記載がありますが西支所(市役所)、郵便局、年金事務所など公官庁があったので、太い客が多く、夜は結構賑わったったんですよね。
写真を見た時に、クルクルセブンで食つないでたのが思い出されました。
こちらも、時期はちがいますが、確かにここにいたことが思い出されました。
他にも想い出のホールが盛りだくさん。この頃に帰りたい。
この時代の機種からも懐かしさを感じ、数冊でしたが随分と楽しめました。当時の資料的価値もありますしね。動画の素材にもしようと思います。