雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

待つ能力 ・ 小さな小さな物語( 1775 )

2024-06-08 08:09:18 | 小さな小さな物語 第三十部

渋谷のハチ公前は、昔から待ち合わせ場所として有名ですが、最近は外国からの旅行者にも人気が高く、大変な混雑の上に、一部のマナー違反の人による迷惑行為も増えていると報じられています。
「オーバーツーリズム」という言葉もすっかり定着した感がありますが、京都などは、市民生活への悪影響が限度を超えつつあるようだとも報道されています。
それほど有名な場所でなくても、ちょっとした街などでは、待ち合わせるのに便利な場所や目印があるようです。伝言板などという代物はすっかり姿を消したようで、スマホさえあれば、30分も1時間も待ちぼうけするようなことはないのでしょう。
便利といえば便利ですが、あの何ともいえない切ない時間を経験する機会を失っているのだと考えますと、少し残念な気もします。

「待つ」という言葉は、かなり多彩な意味を持っています。
歌謡曲などには、演歌に限らず様々な形で「待つ」姿が登場しています。日常生活においても、単なる待ち合わせ、帰りを待つ、来訪者を待つなど、様々な場面が考えられますし、会社勤めであれば、さらに多くの「待つ身」「待たせる身」が渦巻いていることでしょう。
少し長いパターンとなれば、子供の成長を待つなどはその典型ですが、心変わりを待つ、怒りが静まるのを待つ、病状の回復を待つなど深刻なことも少なくありません。

こう考えますと、「待つ」という行動、あるいは心理は、大変な能力と覚悟が必要な気がします。
それは、「忍耐力」と似た面もありますが、まったく別の能力だと思います。
「待つ」先には、善悪にかかわらず結果が待っているとは限らず、相当長い時間、時には生涯をかけた覚悟を必要とする場合があるようです。
よく知られている「岸壁の母」という演歌は、歴史の悲劇を背負った「待つ」を歌い上げたものですし、今なお進展の見られない拉致問題も、当事者だけではどうすることも出来ない、強制された「待つ」であり、悲しい限りです。

私たちの日常生活において「待つ」場面は再三登場します。それぞれの場面において、どれだけ待てるのか、どのように待つのかは、各人の能力が試されている場合が多く、時には、それが人柄や品格を示す量りになることもあります。待たせる身になった場合も、同様だと思います。
そして、私たちは、生涯をかけての「待つ」を突きつけられることがあります。おそらく、すべての人が経験する事だと思うのですが、人それぞれに受け取り方に差はあるかもしれません。
さらに、中には、今生において結論を見ることのない「待つ」もあるかもしれません。これも、おそらく、人それぞれとは思いますが、幾つもの切なく重い「待つ」を、一つ一つ断ち切りながらも、遂には心に抱いたまま次の世に旅立つことになるのかもしれません。
まあ、それはそれで、一つの生き方だとは思うのですが。


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