雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

伊藤匠七段が新叡王に

2024-06-21 19:10:14 | 日々これ好日

    『 伊藤匠七段が新叡王に 』
 
   将棋の第九期叡王戦五番勝負の 最終局は
   挑戦者の伊藤匠七段が 藤井聡太叡王に勝利して
   タイトルを奪取した
   伊藤匠七段は 待望の初タイトル獲得で
   藤井聡太さんは 一冠を失って 七冠となった
   一つのタイトルを失ったとはいえ
   藤井聡太さんの 圧倒的な強さに 何ら揺らぎはない
   ただ 伊藤 匠さんが 強力なライバルとして
   印象づけた タイトル戦であった
   今後の二人の対局は 長期間にわたって注目され
   将棋界の繁栄を 引っ張り続けるだろう
   「伊藤匠新叡王 おめでとうございます」

                  ☆☆☆

  

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蔭を恋ひつつ

2024-06-21 08:00:09 | 古今和歌集の歌人たち

     『 蔭を恋ひつつ 』


 筑波嶺の 木のもとごとに 立ちぞ寄る
         春のみ山の 蔭を恋ひつつ

              作者  宮道潔興

( 巻第十八 雑歌下  NO.966 )
        つくばねの このもとごとに たちぞよる
               はるのみやまの かげをこひつつ


* 歌意は、「 筑波嶺の 木のもとごとに 立ち寄ってお願いしているのです あの筑波嶺の春の御山のような皇太子の お陰を願っているのです」といった切ないもののようです。
この和歌の前書き(詞書)には、「親王の宮の帯刀(タチハキ・皇太子を警備する役人。)に侍りけるを、宮仕へつかうまつらずとて、解けて侍りける時によめる」とありますので、作者は皇太子の御所の警備を勤めていたが、何か失態があって謹慎処分を受けていた時にこの歌を詠んだ、とありますので、この歌は復帰を願ってあちこちに依頼して回っていたということなのでしょう。

* 作者の宮道潔興(ミヤジノキヨキ)は、平安時代前期の官人です。
宮道氏は、日本武尊を始祖とする一族とされていますが、この頃には、京都近くの
山科あたりで小豪族として根を張っていたようです。朝廷で高官として活躍したという記録は無いようですから、せいぜい七位程度の下級の官人であったと考えられます。いずれも、個人的な推定ですが。 

* 潔興の生没年は不詳ですが、官職歴は残されています。
898 年、内舎人。
900 年、内膳典膳。
907 年、越前権少掾。
以上の三件ですが、いくつかのことが推定できます。
まず、和歌の前書きに登場している親王は、皇太子の保明親王です。
保明親王( 903 - 923
)は、醍醐天皇の第二皇子ですが、伯父にあたる左大臣藤原時平の強権を背景に生後満二か月(904 年。数え年では二歳。)で皇太子になりました。以後二十年に渡り皇太子の地位にあり、天皇の寵愛もあつく藤原氏の期待も大きかったのですが、父に先立って亡くなりました。
ただ、ここから、潔興が皇太子の近くに仕えていたのは、904 年から907 年までの間であると考えられ、掲題の和歌が詠まれたのも、その間のことと推定されます。
しかし、どのような失態で謹慎させられていたのか不明ですが、残念ながら復帰は叶わず、越前権少掾として左遷されたのではないでしょうか。

* 潔興の父(あるいは祖父)の宮道弥益は、醍醐天皇の外祖父にあたり、従四位下宮内大輔に上っており、公卿に至らないまでも歴とした貴族だったのです。そして、その地位に上ったのには、なかなかドラマチックな出来事が伝えられています。
まず、醍醐天皇の父は宇多天皇ですが、宇多天皇の父光孝天皇は、五十四歳という高齢で即位しました。その理由は、光孝天皇は仁明天皇の第三皇子ですが、仁明天皇の跡は第一皇子の文徳天皇が就き、その跡も清和、陽成とその子孫に引き継がれていました。
ところが、陽成天皇の御代に,宮中で殺人事件が発生し天皇が関与しているともされて退位を余儀なくされました。おそらく、藤原氏内の勢力争いが主因と思われますが、後継者の選定が難航し、急遽、先祖返りするような形で光孝天皇が誕生しました。

* 光孝天皇は誠実な人柄だったとも伝えられていますが、皇統を陽成天皇の皇子に戻すべきと考えていたようで、即位とともに自らの二十六人の皇子・皇女を源の姓を与えて皇室を離れさせたのです。
光孝天皇の第七皇子であった定省親王( 867 - 931 )もその一人で、十八歳の頃のことでした。ところが、光孝天皇は即位後三年余りで病気となり、宮廷内の政争も絡み、定省親王を皇族復帰させることになり、887 年 8 月 25 日に皇族に復帰、翌日に立太子、その日のうちに光孝天皇が崩御し、定省親王が践祚し宇多天皇が誕生したのです。
そして、宇多天皇の女御であり敦仁親王の母である胤子は、父は正三位内大臣藤原高藤ですが、母は宮道弥益の娘列子なのです。

* やがて、敦仁親王が醍醐天皇として即位したことにより、宮道弥益は天皇の外祖父の地位を得ているのです。
また、おそらく山科あたりの小豪族に過ぎなかった宮道弥益の娘である列子が、藤原冬嗣の孫にあたる名門藤原北家の御曹司高藤と結ばれた経緯については、今昔物語(巻22)にも採録されている純愛物語があったようです。それによりますと、「高藤が十五、六歳の頃、山科での鷹狩りの途中に雨に遭い、土地の有力者の家に雨宿りしたが、その家の娘に一目惚れし、結ばれる。その後、帰宅が遅れたことから高藤は父に鷹狩りを禁じられる。二人が再開するのは6年後のことで、娘は一人の女の子を連れていたが、その女の子が後に天皇の女御になる。・・・」といった内容です。

* おそらく、作者である宮道潔興の姉(あるいは伯母)である列子と藤原高藤との劇的な出会いがなければ、潔興は山科あたりの有力者として、あるいは下級の官人としての生涯を送ったのでしょう。
ところが、運命は潔興に違う道を用意していて、皇太子の側近くに仕えるようになりましたが、失態により、越前の下級官吏に左遷させられました。その後の消息は不明で、その地で生涯を終えたのか、もし帰京したとしても中央の官吏に復帰するようなことはなかったのでしょう。
また、失態を犯したとされますが、潔興が仕えていたときの皇太子の年齢は、満年齢でいえば、せいぜいゼロ歳から四歳位までのうちの何年かでしょうから、皇太子本人の意志とは考えられず、別の思惑もあったのかもしれません。むしろ、成り上がってきた状態の潔興は、足を引っ張られたような気がしてならないのです。
そして、その事が、潔興の後半生にどのような影響を与えたのでしょうか。
下級官吏とは言え、地方へ下ればそれなりの地位と収入も得られたでしょうから、針のむしろのような宮廷より、良い生活を送ったのではないかと思い描くのです。

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