雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

奇跡がいっぱい ・ 小さな小さな物語 ( 1774 )

2024-06-05 07:59:10 | 小さな小さな物語 第三十部

街角での一風景。
「アラー、また会ってしまったわねぇ」
「ホント、ホント・・。だって、あなた×××へ行くと言ってたでしょう?」
「そう、その予定だったの。ところが、急に気が変ってね。でも、あなたも、別の予定があったのでしょう?」
「あれ、キャンセルされちゃったの。それで、ここに寄ってみようと思ってね」
「ほんとう・・。ふしぎねぇ、二人とも予定が変って、また会えるなんてね」
「ホント、不思議よねえ・・、まるで奇跡ねえ・・。じゃあ、もう一度お茶しよう」
若い女性お二人は、まるでスキップでもする勢いで立ち去っていきました。

決して、立ち聞きしていたわけではないのですが、あるビルのそれほど広くもないロビーで、大きな声で話されていたので、耳に入ってきたのです。
推定しますと、二人は少し前に会っていて、その後にお互いに予定があって別れたのでしょうが、二人とも予定が変更になって行く先を変えたところ、また、出会ってしまったということのようです。
たとえ大きな声で話していたからといって、聞き入るのは余り好ましくないと思うのですが、『まるで奇跡ねぇ・・』という言葉が気になったのです。
ふつう、こうした程度の再開は、「偶然ねえ・・」程度のような気もするのですが、二人がまだ話したりないような状態で、お互いに予定があるためやむを得ず別れたのであれば、二人にとっては、奇跡的な再開だったのかもしれません。

「因果応報」という言葉があります。
辞書によりますと、「 (仏)過去における善悪の業(ゴウ)に応じて現在における幸不幸の果報が生じ、現在の業に応じて未来の果報が生じること。」とあります。
仏教の教えの真髄といったことは、私には荷が重すぎますが、そのままの意味に受け取りますと、「現在の自分の身に起ることは、すべて過去の行いに起因しており、今の行いが将来の自分の身に戻ってくる」といった意味だと思うのです。そう考えますと、「因果応報」という教えには、「奇跡」も「偶然」も存在せず、全て「必然」だということになりそうです。

鬱々とした状態に追込まれたとき、私たちは、「奇跡」を願うことがあります。先の見込みの見えない現状を打破してくれるような「奇跡」を切に願っても、そうそう簡単には「奇跡」など起らないことも、承知しています。
しかし、このように考えることも出来ます。
この地球上に生命体が誕生したのは、海の中だろうと推定されていますが、4億年ほど前に陸地にも進出したようです。その後、進化を続け、もちろん進化といっても、ある固体が次々と進化を続けていったというものではないのでしょうが、人類の祖先と言えるような生命体が姿を現わしたのは、20万年前とも30万年前とも考えられているようです。もちろん諸説がありますが、その時から現代人に至るまでに、数限りない進化が遂げられてきているのでしょう。反対に失っていったものもあるのでしょうが、それも含めて、その過程は「奇跡」の連続だったのではないのでしょうか。そして、それは今現在も続いていると考えられます。
つまり、私たちの身の周りには「奇跡」が無数に存在しているのです。ただ、私たちには見えませんし、接していたとしても気付きません。
けれども、考えてみますと、あれやこれやと不満を述べながらも、何とか一日一日を送らせていただいているのは、数限りない「奇跡」が支えてくれているのかもしれません。
実感できないのが残念ではありますが・・・。


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