愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(60) 松平記

2024年01月31日 16時28分52秒 | 松平記

松平記p60

翻刻 
(家)康衆を引入んと相図をしけるが、不叶して、外のくるハを
焼て早々にげ出ける間、頓而家康御勘気をゆるし給ふ。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門屋敷を城に構へ
大津半左衛門、乙部八兵衛籠りける間、深溝の松平主殿押
寄日々のせり合の戦有、然処乙部八兵衛、主殿助方へ返忠
致し、引入れける間、大津ハ不叶、針崎へ引退、夏目ハ引事も難
叶、土蔵の中へ入て隠れ居たりし処、主殿助衆堅守護して
不出、已に責殺んとしけるに、乙部色々詫言申、今度の忠に
申替て命を助け給へとなげく間、此段家康へ申上らるる
処に、家康大に御感有命を助させ給ひ、後には三郎殿衆に
(成にけり)

現代語
(戸田三郎右衛門は)家康の兵を寺の中に引き入れようと合図をしたが、うまくいかなかった。そこで外の曲輪を焼き、逃げて行った。やがて家康は勘気を許された。
一 額田郡野羽郷の古城に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構え、そこに大津半左衛門、乙部八兵衛が籠っていた。深溝の松平主殿伊忠と日々せり合っていた。しかしながら乙部八兵衛が松平主殿助方に寝返りをし、兵を城に引入れた。大津半左衛門はたまらず、針崎勝鬘寺へ引き退いた。夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵に入って隠れていた。松平主殿助は固くとり囲み、出られないようにした。すぐに責め殺してしまおうという時、寝返った乙部八兵衛が色々と命乞いをし、今度の寝返りに免じて夏目の命を助けてほしいと訴えた。主殿助はこのことを家康に報告したところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けられた。後に松平三郎信康の家臣になった。

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戸田三郎右衛門は、家康の人質時代に今川に行くところを、さらわれて織田に売られてしまうという事件がありました(なかったという説もあります)が、その時の首謀者が戸田康光で、この事件に怒った今川義元によって戸田氏は攻められて居城田原城は落城することになりました。戸田康光は、戸田三郎右衛門の伯父にあたります。戸田三郎右衛門の父戸田光忠(康光の弟)は、田原城落城の折、岡崎に逃れて、やがて家康と縁戚を結び家康の家臣となります。今回は、一揆勢に付いたということで、勘気を被ったのでしょうか。
夏目次郎左衛門の話は有名で、「どうする家康」では、コメディタッチで家康がすぐ名前を間違える武将夏目広次として登場します。このあと、夏目は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死しますが、この時のことがあって身代わりをしたと言われています。

夏目広次を演じる甲本雅裕さん(NHK大河ドラマ「どうする家康」より)
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松平記(59)その2 松平記

2024年01月29日 07時33分47秒 | 松平記
小谷甚左衛門
 設楽郡若しくは碧海郡の武将らしい。三河一向一揆が蜂起すると甚左衛門は鳥居又右衛門重正らとともに一揆方に与し、佐々木上宮寺に入って松平氏に反した。ただし『参州一向宗乱記』は甚左衛門が松平氏方に属していたとして、永禄7年(1564年)松平氏方の斥候が上宮寺方に討たれて首を曝された際、甚左衛門はこれに憤って先駆けして一揆勢を討ち、上宮寺と鳥居党の戦端を切ったとしている。また、天正3年の大賀弥四郎事件(武田氏内通計画)に加わった。しかし同志の山田八蔵重英が翻意して城主松平信康に密告して計画が露見したため、甚左衛門は渡辺半蔵守綱の追走を振り切って遠江二俣城へ逃走し、やがて甲斐国へと逃れたという。(ウィキペディア)
太田善太夫
 永禄6年(1563)に生まれた太田吉政はヒットした。(もちろん別人)上宮寺のサイトには、「三河太田発祥の地記念碑」なるものがあり、上宮寺開創である聖徳太子の手助けをした太田力丸に関するものとして、建てられています。その横に「太田の先人であり戦国時代に活躍した太田善太夫吉政(おおたぜんだゆうよしまさ)の墓碑も安置されています。」とありました。これは、それっぽいので、一度確認しなければと思います。
安藤金助 特にヒットせず。
山田八蔵
 山田八蔵重英(しげふさ)。小谷甚左衛門で述べたように、大賀弥四郎内通事件でその陰謀を徳川家康に通報した人物。「この功により碧海郡柿崎に500石の加増を受け、後に同郡大浜や額田郡上地も加増された。上の経緯から「訴人八蔵」の異名があったという。天正16年(1588年)岡崎で同輩の渥美弥三郎と口論し、殺害された。所領はすべて没収となった。天正17年(1589年)養子の重次が仇討ちを果たして認められ、翌年に300石を与えられて家名を再興した。」(ウィキペディア)
安藤太郎左衛門
 三河に安藤氏という国衆があり、その一族であると思います。誰か特定できませんでした。
太田弥大夫 特にヒットせず。先に調べた太田善太夫と関係があるのかも知れません。
太田彦六郎 特にヒットせず。先の太田善太夫、太田弥太夫と同族かも知れません。
安藤治右衛門
 安藤定次のこと。「徳川家康に仕え、永禄6年(1563年)の三河一向一揆に加わったが赦免される。家康の子松平信康にも仕え、信康の死後は石川数正や内藤家長に属した。天正18年(1590年)の小田原征伐では内藤軍に属し武功を挙げた。」(ウィキペディア)この人は、徳川家康の関東移封の際、相模国鎌倉郡阿久和村に知行を得、それ以降子孫は、「阿久和安藤家」として幕末まで続いたそうです。
矢田作十郎
 松平広忠、徳川家康2代に仕え、勇猛で知られた武将だったようです。この戦いの渦中、小豆坂で討死をしてしまいます。
戸田三郎右衛門
 この後記述されるように、はじめは一揆側に付きましたが、徳川家康側にもどり一揆勢と戦いました。
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松平記(59) 松平記

2024年01月26日 08時08分06秒 | 松平記

松平記p59

翻刻
当て野寺、佐々木、桜井とも間一里有、北面にハ上野城有、其
間一里半有、東ハ長澤より駿河迄敵也、野寺より一揆は起
りしかとも、是ハ岡崎より遠かりし間、其間に佐々木、桜井
を隔たり、大津半右衛門、犬塚甚左衛門、同八兵衛、同又内、同
善兵衛、五味三右衛門、中川太左衛門、牧吉蔵、倉地平右衛門、
小谷甚左衛門、太田善太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左
衛門、太田弥大夫、同彦六郎、安藤治右衛門、矢田作十郎、戸田
三郎右衛門、其外侍百余騎、佐々木、野寺の寺内に籠る。但戸
田三郎右衛門、心ならず家康の御勘気をかうふりし間、一
揆共に催されしが、家康へ返忠を致し、寺内を焼たてて家
(康衆を引き入んと相図をしけるが・・・)

現代語
野寺本證寺、佐々木上宮寺、桜井松平家次とも間は約4㎞ある。北の方には上野城酒井忠尚があり、その間は約6㎞、東の方は長澤松平より向こうは駿河まで敵である。野寺本證寺より一揆は起こったのだけれども、そこは岡崎より遠かったので、その間に佐々木上宮寺、桜井松平家次が敵になった。大津半右衛門、犬塚甚左衛門、同八兵衛、同又内、同善兵衛、五味三右衛門、中川太左衛門、牧吉蔵、倉地平右衛門、小谷甚左衛門、太田善太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左衛門、太田弥大夫、同彦六郎、安藤治右衛門、矢田作十郎、戸田三郎右衛門らその他百騎以上が佐々木上宮寺、野寺本證寺に立て籠もった。ただし、戸田三郎右衛門は、家康への忠節はありながら家康の機嫌を損ね、一揆共に誘われたのであるが、一揆共にそむき、上宮寺の寺内を焼き、(家康の兵を引き入れようと合図をしたが・・・・)

コメント
本證寺、上宮寺、桜井松平家の位置関係については、前回の地図を参照してください。
一揆側に加勢した武将が列記してあります。一応ネットでどんな武将なのか調べてみました。しかし、ヒットしない武将も多々ありました。これを御覧になった方で、情報をお持ちの方は、教えてください。

大津半右衛門
 「松平伊忠」の項目で、「(伊忠が)三河一向一揆では、一揆方として深溝城近郷の野羽城(六栗城との説も)に籠る大津半右衛門、乙部八兵衛、夏目吉信を攻略、乙部八兵衛を内応させて夏目吉信を生け捕りにした。」(ウィキペディア)
犬塚甚左衛門 ヒットせず。
犬塚八兵衛 ヒットせず
犬塚又内
 前橋城酒井雅楽守家の用人で、姫路への移転を密かに工作していた武士としてヒットしました。姫路への移転は成功したのですが、姫路で台風の被害に遭い、結局別の家老川合定恒に殺害されてしまいました。「姫路物語」という文書になって残っているそうです。しかし、話は寛延2年(1749年)のことなので、三河一向一揆(1563年)から186年先のことです。犬塚又内は別人です。(ウィキペディア)
犬塚善兵衛 ヒットせず
五味三右衛門 ヒットせず
中川太左衛門 ヒットせず
牧吉蔵
 「三河牧氏」の項目に突然、「幡豆郡志古屋村の地侍に牧吉蔵あり。」と出てきます。(ウィキペディア)また、「城郭写真記録・愛知の城館」というサイトで、「三河 志子屋砦」の項目に、「築城年、築城者は定かではない。荒川城の支城として味崎砦、志篭谷砦が築かれ、牧野〔牧〕吉蔵が護ったと云う。1563~1564年「三河一向一揆」の際、本証寺に拠って家康と戦っている。牧野氏は信州から三河へ移り、大郷山の林間に居を構えていたが、1185年牧野権之丞が志籠谷に移住したことに始まる。弟の権右衛門は碧海郡井ヶ谷へ、更にその子孫は碧海郡下青野へ移り住んだと云う。」
倉地平右衛門
 「倉地平左衛門 永禄6年(1563年)三河一向一揆が蜂起すると平左衛門は一揆方に与し、戸田忠次・矢田作十郎らとともに佐々木上宮寺に入って松平氏に反した。天正3年(1575年)岡崎城士・大賀弥四郎らの武田氏内通が発覚したが、平左衛門は首謀者の一人だった。この謀反が露見するや平左衛門は逃走したが、今村勝長・大岡清勝によって討ち取られた。」(ウィキペディア)

続きは、次回以降に
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松平記(58) 松平記

2024年01月09日 11時16分42秒 | 松平記

松平記p58

翻刻
かつかせ給ふ。其忠節故、家康の妹婿にし奉り諸人奉仰し
處に、義昭にす々められて是又敵に成給ふ。桜井の松平監物も
御敵に成、上野の城主酒井将監ハ岡崎御家老の一の大名
なりしが、是も一揆にくミし御敵と成。東三河には長澤と
こ井より東ハ駿河方也。岡崎方ハ竹谷の城松平玄蕃頭、か
たの原にハ松平紀伊守又松平主殿助、土呂、針崎、東三河両
三人衆の敵にはさまれ昼夜相戦ふ。西尾に酒井雅楽助在
城して、野寺、荒川と取合、本多豊後守、土居に在城し土呂、針
崎に向て合戦す。松平勘四郎、同右京亮、野寺、桜井と取合昼
夜相戦ふ。岡崎の南ハ土呂、針崎其内一里にハ近し。南西に
(当て野寺、佐々木、桜井とも間一里有)

現代語
(荒川甲斐守は、はじめ味方になり、西尾城を)攻められた、その忠節のため家康の妹婿にして、皆荒川甲斐守をお迎えしたところ、東條義昭にすすめられて敵になってしまった。櫻井の松平監物(信定)も敵になり、上野の酒井将監は岡崎の家老であったが、これも一揆に与し、敵となられた。東三河では長澤と五井より東は駿河方であり、岡崎方は竹谷城の松平玄蕃守、形野原の松平紀伊守や松平主殿助、土呂、針崎、東三河の三人衆にはさまれ昼夜奮戦している。西尾城には酒井雅楽助が在城して、野寺、荒川と取りあいをしている、本多豊後守は土居に在城し、土呂、針崎に向かって合戦をしている、松平勘四郎、松平右京亮は野寺、桜井と取り合いし昼夜愛戦っている。岡崎の南は土呂、針崎まで一里(約4㎞)以内であり、南西には野寺、佐々木、桜井まで間が一里(約4㎞)である

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この図は2013年にこのブログにアップした図です。三河一向一揆の一揆側(赤色)対家康側(青色)の配置図です。結構入り組んでいます。松平の家臣だった武将で一揆側に味方している武将もいて、複雑です。櫻井の松平は信定の後継で、信定は家康の父広忠を岡崎から追い、放浪させた人です。松平宗家に対して対抗心を持っている人でした。その孫が家次で、宗家に対する気持ちは変わらず、家康に対抗して一揆方に付きました。上野の酒井将監は自立性の強い武将で、これまでに何度も織田に付いたり、松平に付いたりしています。一揆とはあまり関係がなかった、家康との戦いが一揆と重なっただけという説もあります。いずれにしても家康にとっては家臣であった酒井が向かってきたということになります。
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松平記(57) 松平記

2024年01月06日 07時06分59秒 | 松平記

松平記p57

翻刻
不叶、此由酒井雅楽助に申、酒井聞て使を以て断申けれハ、
其使を切ける間、家康是を聞召、酒井雅楽助を検断に被仰
付、寺中の狼藉のもの共いましめ給ひ。彼寺の坊主の檀那
并末寺中の末山土民百姓一味して一揆を起し、駿河衆の所々
に残りし衆へ触送り、逆心を催し先三ヶ所の寺を城にか
まへ、家康譜代衆も皆此宗旨の檀徒ハ一味し、家康へ逆心
をなす
一 吉良東條義昭ハ、一度和談被成、岡崎と無事に被成候へ共、
今度一揆共す々め申候間、又敵と成、東條へ入城有て、逆心
を起し給ふ。荒川甲斐守殿初より御味方に成、西尾の城を

現代語
寺には叶わなかったので、このことを酒井雅楽助に話した。酒井はそれを聞いて使いを出して抗議をしようとしたが、寺側はその使いを切り捨ててしまった。家康がこれを聞き、酒井雅楽助に検断するよう申つけられ、上宮寺の狼藉者を戒められた。すると、上宮寺の坊主、檀那衆、末寺末山の人々が徒党を組み、三河に残っている(家康に敵対する)駿河衆に触れ回り、家康に反抗するように申し入れた。まず三ヵ寺を城に構え、家康の譜代であってもこの宗派(浄土真宗・一向宗)の檀徒は一味に加わり、家康に反抗することになった。
一 吉良東條義昭は、一度家康と和談し、岡崎と争わないことになったのだが、この一揆勢たちにすすめられて、家康の敵に回ってしまった。東條城に入り、家康に謀反を起こした。荒川甲斐守は、はじめ味方になり、(東條義昭の)西尾城を(攻められた)

コメント
酒井雅楽助は正親とされます。大河で活躍した酒井忠次と親戚ではあると思いますが、直系のつながりはないです。酒井家は2系統が知られており、雅楽助系と左衛門尉系です。どちらも徳川幕府では重臣中の重臣の家柄になります。なお、このあと出てくる酒井忠尚(上野城主)は、左衛門尉家の系統のようです。さて、この雅楽助が検断をしたということは上宮寺、さらには本證寺、勝鬘寺等真宗各寺院の不入の権利、営業の自由を蹂躙されたに等しい状態です。また、三河は桶狭間の戦い(永禄3年)により今川の権威が崩れ、新興勢力の松平や一向宗の勢力が拮抗していた情勢だった(永禄5年)と思われます。松平にとって三河での権力を確立するうえで引けない状況だったのかも知れません。しかし、家康は自身の譜代の中からも一向宗に与し反抗するものが出、家康3代危機といわれるピンチを迎えることになりました。
一方の東條義昭ですが、名門吉良の出身で、名前だけでなく実質的にも三河を支配したいと考えていたのではないかと思います。一度は家康に敗れてしまいました(藤波畷の戦い)が、この一揆をチャンスととらえたのか一揆側にまわり家康に再び挑むことになりました。
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