愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(55) 松平記

2023年12月30日 11時02分36秒 | 松平記

松平記p55

翻刻
はたもとを以もり返し、合戦を被成、米津藤太、渡辺半蔵又
さきにすすみ、半蔵山下八郎三郎と云ものを突伏高名し、
其後二手なからとり返し、板倉弾正、同主水大将二人討捕
被申候間、佐脇の八幡の取手を明渡し申候、味方悉敗軍の
時、名誉の高名致したると渡辺を鑓半蔵と申候
一 永禄四年辛酉八月、三州長澤城代糟谷善兵衛突て出合戦
す、岡崎衆ハ松平勘四郎中山に取手をし、是を防度々相戦
といへとも、不叶家康御出馬被成、御攻被成候、松平勘四郎
同上野介先陣にて合戦し糟谷突て出、せり合を初め駿河
衆大原藤十郎と云物頭一番にすすミ出る処を渡辺半蔵
(組打に高名しける、・・・・)

現代語
旗本を以て盛り返し、合戦をした。米津藤太、渡辺半蔵は又さらに進み、山下八郎三郎という者を突き伏し、手柄を立てた。その後二手になりながら取って返し、板倉弾正、板倉主水の大将二人を討ち取った。(敵は)佐脇の八幡の城を明け渡した。味方(家康軍)が悉く敗軍の時に立派な手柄を立てたと、以後渡辺半蔵を槍の半蔵と呼ぶようになった。
一 永禄4年8月、三河長沢城城代糟谷善兵衛が攻めて来て合戦になった。岡崎衆は松平勘四郎信一が中山に砦をとり、糟谷を防ぐため度々合戦をした。しかし、防ぎきれずに家康が出陣することとなった。松平勘四郎と松平上野介は先陣をつとめ糟谷らとせり合いになった。駿河衆の大原藤十郎という者が一番に進み出るところを渡辺半蔵(が組み伏せ、手柄を立てた。)

コメント
永禄9年の八幡城での攻防が、この「松平記」では渡辺半蔵守綱の手柄話になっています。いろいろ調べると、酒井忠次の働きが大きいとするものもありました。次の糟谷善兵衛との戦いも渡辺半蔵守綱の手柄話になっています。「松平記」の著者と渡辺半蔵は何関係があるのかも知れません。
さて、話に出てくる米津藤太、山下八郎三郎は誰なのか分かりませんでした。糟谷善兵衛が籠った城は、登屋ヶ根城と思われます。また、駿河衆の大原藤十郎とあるのは、ほかの史料では小原藤五郎となっていることがあります。
コメント (2)
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松平記(54) 松平記

2023年12月25日 09時04分55秒 | 松平記

松平記p54

翻刻
本の間を押やふり合戦を初め、先手衆を追払、籠城の岡崎
衆本多百助を初皆突て出でて、合戦し利を得て引とる、一
万あまりの駿河衆三千の岡崎衆をくひとむる事難叶ハ、
家康無双の高名也
一 同五年九月廿五日、佐脇八幡の板垣弾正、同主水を責らる
る、板倉むこの主水突て出岡崎衆を追立る、岡崎衆敗軍し
て二手に成て引、石川新七、同新九、渡辺半蔵三人しんがり
いたし候處に、急に喰付候處に、半蔵一騎のり返し残たる
敵と鑓を合静に引のく處に、矢田作十郎痛手負、かたハはら
に伏たるを引おこしつれて退来る、敵あまた押来る間、御
(はたもとを以もり返し、合戦を被成)

現代語
(今川側の)旗本の間を押し破り、合戦をはじめ、先手の兵を追い払い、(一宮砦に)籠城している岡崎衆本多百助をはじめ皆突き出でて合戦し、味方有利のうちに城に引いた。一万余の駿河衆は3千の岡崎衆を食い止めることができなかった。このことは家康の素晴らしい手柄である。
一 同(永禄)5年9月25日、佐脇・八幡の板垣弾正、同(板垣)主水らを(家康が)攻められた。板垣の婿である主水突き出でて岡崎衆を追い立てた。岡崎衆は敗軍し、二手に分かれて引いた。石川新七、同(石川)新九、渡辺半蔵の3人がしんがりをしたところ、急に敵が食らいつき、半蔵が一騎で折り返して残る敵と槍で闘い引き退いた。矢田作十郎は痛手を負い、旁に伏していたのをおこして退却してきた。敵がたくさん押し寄せてきたので、(旗本を以て盛り返し、合戦をした。)

コメント
6月の合戦では「一宮の後詰」でみごと家康が勝利したようですが、9月にも合戦があり、この時は佐脇・八幡を守る板垣弾正、板垣主水らと戦ったようです。この戦いは、これまでの経過では守勢に立たされていたようで、「岡崎衆は敗軍」とあります。しんがりは石川新七、石川新九、渡辺半蔵の3人です。石川新七と石川新九は、後に、三河一向一揆で一揆方に味方し土呂に籠ったようです。そして、小豆坂で家康軍と戦い、新七の方は水野藤十郎に討ち取られたとの記述があります。(「松平記」による)渡辺半蔵は有名な槍の使い手です。豊田市の寺部城の城主で、後に名古屋徳川家の家老をつとめます。矢田作十郎は、桶狭間の戦いでも丸根砦攻めで名が出てきますが、三河一向一揆で一揆側につき、その中で討死したようです。
コメント
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松平記(53) 松平記

2023年12月19日 10時16分34秒 | 松平記

松平記p53

翻刻
一 永禄五年六月、岡崎衆牛久保牧野新二郎、同出羽守を責ら
るる、吉田城主大原肥前守を責らるる、佐脇の八幡に取手
をとりて、板倉弾正、同主水、三浦佐馬助を、駿河方より籠置、
吉田牛久保を根城とし、氏真三河へ御馬を被出、駿河衆一
万余騎牛久保に張陣有處に一の宮取手に家康衆五六百
にて籠る間、氏真千余の人数にて被攻端城二ツ攻落すと
聞えしかば、家康三千の人数にて一宮の後詰に出られ佐
脇の八幡の間に出張し給ふ、此時駿河にて武田信虎逆心
を起し駿河をとらんとの謀有よし聞え、駿河衆悉さハき
岡崎衆と合戦なるへきやうなし、家康ハ駿河衆先手と旗
(本の間を押やふり)

現代語
一 永禄5年6月、岡崎衆(家康軍)は牛久保の牧野新二郎、牧野出羽守を攻められた。吉田城主大原肥前守を攻められた。今川氏真は、佐脇の八幡に砦を築き、板倉弾正、板倉主水、三浦佐馬助を駿河より籠め置き、吉田城、牛久保城を根城として、三河へ出陣をした。駿河の軍勢は、1万騎余りで牛久保城に陣を張った。一の宮砦には家康方の兵が5・6百で籠っていて、氏真は千人余りの兵で攻撃し、砦を二つ攻め落とした。それを聞いた家康は、3千の兵で一宮の後詰に出撃し、佐脇の八幡の間に出られた。この時に、駿河で武田信虎が逆心をし、駿河を取ろうとしているとのうわさが入り、駿河衆は騒ぎ出し、岡崎衆と合戦になる様子ではなかった。家康は、駿河衆の先手と旗本の間を押し破り、・・・・・

コメント
難解語

後ろから2行目「駿河衆〇さハき」・・・「党」のような、「半」ではないし・・・・
分かりませんでした。

有名な「一宮の後詰」の話です。一万の今川氏真の兵に対して、5百で守る一宮砦(本多百助ら)を3千の兵で家康が後詰をし、今川勢を撃退したという話です。「松平記」では、駿河で武田信虎(武田信玄の父、信玄に追われて駿河に隠居していた)が謀反を起こしたとの噂が、家康の援護射撃となったように描かれています。
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松平記(52) 松平記

2023年12月13日 08時39分10秒 | 松平記

松平記p52

翻刻
候てつき山と申所に御座候を是をつき山殿と申し奉る也
一 右家康駿河と御手切有し故、日比ハ駿河へ付たる岡崎の
譜代衆皆駿河と手切にて岡崎へ参り忠節仕る、然とも三
河遠州の人質ハ大かた駿河方へ越置候、中にも松平備後
守人質に娘を駿河方へ越、吉田の城主大原肥前守もとに
置きたりしを捨て岡崎へ出仕致し、妻子を岡崎の城へ人質
に奉る間、大原是を聞、彼松平備後守娘を初として大竹兵
右衛門、浅羽三太夫等が子共其外にも今度人質を捨て家
康へ出仕致し、忠を成たる三河侍の証人を十一人吉田の
城外龍念寺口にて串さしに致す也

現代語
(三河へ)行かれて、築山と申す所におられた。この方を築山殿と言われなされます。
一 このように家康は駿河(今川)と縁を切ったので、今まで駿河に付いていた岡崎の譜代衆も駿河と縁を切り、岡崎(家康)に忠節することになった。しかしながら、三河や遠江の人質は大方駿河方に残されていた。なかでも松平備後守は娘を駿河に人質として送り、吉田(現豊橋)の城主大原肥前守の元にあったのをそのままにして、岡崎(家康)に仕え、妻子を岡崎に人質として入れ置いた。大原はこれを聞いて、松平備後守の娘や大竹兵右衛門、浅羽三太夫の子ども等、その他家康に出仕した者の人質を吉田の城外にある龍念寺で串刺しにして殺害した。

コメント
吉田城主大原肥前守による人質殺害事件です。大原肥前守は、小原鎮実(おばらしげざね)と言われることが多いようです。松平備後守は、松平清善のことで、竹谷松平氏の4代目だそうです。この時に家康の家臣の人質が多く殺され、徳川の家臣たちの中で今川に対する恨みとなって蓄積されたようです。ウィキペディアでは殺された人をリストアップしています。

松平清善の妻、松平家広の妻、菅沼定盈の妻、菅沼貞景の妻、西郷正勝の妻、水野藤兵衛の妻、大竹兵右衛門の妻、浅羽三太夫の妻、浅羽三太夫の娘、大竹麦右衛門の妻、設楽貞通の妻、奥平貞能の妻

松平清善の娘ではなく、妻になっていますが、どちらが本当か分かりません。いずれにしても戦国時代の武将の家で生まれた女性は夫や父親のために人質となり、必要がなくなれば、断腸の思いはあったでしょうが、殺されてしまうという悲しい運命でした。
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松平記(51) 松平記

2023年12月04日 17時00分28秒 | 松平記

松平記p51

翻刻
し其比家康の御前御子竹千代殿駿府に人質に御座候已
に生害に及ハんとする処に関口刑部殿ハ竹千代殿にハ
祖父にて御座候是ハ義元のいもうとむこなれハいろいろ
御詫言被成いまになからへ御座候を岡崎衆石川伯耆守
来り色々なけき申候て関口殿を頼ミ証人に致し和談に
仕り鵜殿か二人の子と竹千代殿と取替候て岡崎へ返し
入奉る是ハ御元服有て三郎信康と申たる若殿の御事也此後
猶も御手きれ被成駿河と御不通の由氏真大に怒給ひ御しゅう
と関口刑部殿切腹申付らるる、是ハ氏真のおばむこなれども
家康の御しゆうと成とて如此彼娘家康の御前ハ三河へ御座

現代語
駿河衆は大変困り、その頃家康の奥方と嫡男竹千代は駿府に人質となっていた。まさに殺害しようとするその時に、関口刑部殿は竹千代の祖父であり、今川義元の妹婿であったので、いろいろと言い訳や詫び言を言って、命をながらえてきた。そこへ岡崎から石川伯耆守が来て嘆願した。関口殿を証人として和談となった。鵜殿の二人の子らと竹千代殿とを交換し、岡崎方に返した。この竹千代とは元服して三郎信康と申した若殿の事である。この後お手切れになり、駿河と連絡を取らなくなったとのこと。氏真はおおいに怒り、家康の舅である関口刑部殿に切腹を申し付けた。関口は氏真の叔母の婿なれども家康のしゅうとでもあった。家康の奥方は三河へ行き、(築山という所に住まわれた)

コメント
まず、家康、奥方(瀬名、築山殿)、竹千代(嫡男信康)、関口刑部、今川義元、今川氏真の関係を図にします。

関口刑部関連家系図(色の部分が人質交換の対象)


また、鵜殿関係の家系図は以下のようになります。

鵜殿関連家系図(色の部分が人質交換の対象)

鵜殿氏は、今川義元の妹(関口刑部の妻とは別人)を娶り、今川氏とは親戚関係にありました。蒲郡の上之郷城を守っており、三河支配の拠点的存在でしたが、徳川家康に攻められ、鵜殿長照はこの戦いで討死してしまいました。そして息子の氏長、氏次が徳川方に生け捕りにされたわけです。
コメント (2)
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