愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

三河一向一揆関連地図

2013年09月29日 08時51分22秒 | 歴史史料
三河一向一揆の関連地図を作ってみました。

赤が一揆勢、青が家康側です。

三河一向一揆が広範囲で戦われたことが分かります。
今分かっている範囲での地図なので、これから関係している武将が出てくればもっと広範囲になると思います。
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五井城 蒲郡市

2013年09月29日 06時51分50秒 | 蒲郡市

五井城のあったらしい八幡宮を望む。手前の池は、五井城のお堀だったようです。

長泉寺
 五井城の近くに長泉寺というお寺があります。鎌倉時代からの古いお寺のようです。

長泉寺本堂

安達藤九郎盛長
 ここに、安達藤九郎盛長という人の五輪塔がありました。


 安達藤九郎盛長という人は、源頼朝の家臣だったようです。案内板によると、1192年安達藤九郎がこの三河の守護になったそうです。そして「三河七御堂」といわれる寺院を建立したそうです。三河七御堂とは、五井の長泉寺、吉良の金蓮寺、鳳来寺、豊橋の普門寺、財賀寺、法言寺、大塚の全福寺(廃寺)だそうです。これらの寺は、かなり古いということになります。
なお、案内板によると、この長泉寺は、行基の開基といわれているそうです。(724年~728年)すごく古いです。



長泉寺の由緒を伝える案内板

五井松平
 五井松平は、松平信光より分家したものです。

(系図)
松平信光-(始祖)忠景-元心-信長-忠次-景忠-伊昌-忠実-伊耀

 名前を見て、びっくりです。信長という人がいたのです。さらに、始祖忠景をひっくり返した景忠という人もいたのです。
 さて、三河一向一揆のときは、景忠です。景忠は、一揆勢に与した上野城、酒井将監忠尚の娘婿だったようです。それでも景忠は、家康側について一揆勢と戦ったようです。奥さんは大変だったと思います。

五井松平氏のお墓

堀の跡
 八幡宮の前にある池は堀の跡ということになっていますが、お隣の長泉寺の門の前も両側が深く溝状になっていて、堀っぽいので、写してきました。



長泉寺に向かって右側の様子。


同じく左側の様子。
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岡崎城 岡崎市

2013年09月28日 06時23分01秒 | 岡崎市

岡崎城の看板

 9月1日に、岡崎城を訪れました。この記事の画像は、そのときのものです。三河一向一揆の時には、岡崎城は家康の居城です。ここから一揆勢にむけて軍を発進していたようです。
家康と岡崎城
 家康は、広忠の子どもとしてこの岡崎城で生まれています。しかし、今川氏、織田氏の両雄の間で人質生活を余儀なくされ、少年時代は他国で生活していました。永禄3年(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、家康は岡崎城を今川氏から取り戻し、ようやく岡崎城に居城することになりました。以後10年間、元亀元年(1570年)に遠江浜松城に拠点を移すまでこの岡崎で三河統一の戦いを進めました。三河一向一揆はそのときに生じたものです。そして浜松城に拠点を移したときには、状況も変わり甲斐武田氏との抗争が大きな問題になっていました。
大手門
入り口を入ると右手に大手門がありました。大手門は、お城の正門に当たります。

岡崎城 大手門

 この形、どこかで見たような気がしました。西尾城の鍮石(ちゅうじゃく)門(写真右)に似ていると思いました。鍮石(ちゅうじゃく)門には、石垣がないことがちがっていました。その他はそっくりです。

西尾城 鍮石(ちゅうじゃく)門

パフォーマンス
 9月1日は、日曜日でした。家康館の前で、パフォーマンスをやってました。パフォーマンスを見たのは、これで3つ目です。清洲城、名古屋城、そして岡崎城です。西尾城や小牧城、吉田城(豊橋市)などにも櫓や天守が残っていて、それなりの規模なのですが、パフォーマンスはありませんでした。それぞれの市のお城に対する思い入れが異なるようです。


深い掘り
 天守閣に向かう途中にお堀がありました。天守閣の北の方角です。かなり深い堀でした。空掘りでした。


天守閣
 公園の南西側に天守閣がありました。

手前は、龍城神社の建物です。
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カテゴリーの変更

2013年09月23日 05時20分31秒 | 日記
いつも閲覧ありがとうございます。
カテゴリーの変更をお知らせします。

「歴史」カテゴリーが増えてきましたので、「歴史」カテゴリーを以下の2つのカテゴリーに分けることにしました。

「尾張」
「三河」

なお、「番外編」は、以前と同じく県外を扱います。
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福釜城 安城市

2013年09月22日 09時26分25秒 | 安城市
福釜城主松平家栄地

福釜松平氏栄地の石碑

 三河一向一揆で、家康側に立って一揆勢と戦った松平右京亮(松平親俊)は、福釜松平氏の3代目です。 
<福釜松平氏> (始祖)親盛-親次-親俊-康親・・・・

宝泉院
すぐ隣は「宝泉院」です。


西岸寺

 宝泉院は浄土宗なので、福釜松平氏とはうまくいきそうです。ところが、このすぐ近くに真宗大谷派の寺院を発見してしまいました。「西岸寺」です。西岸寺といえば、京都に有名なお寺がありますが、その西岸寺と関係があるのでしょうか。以下、安城市のホームページです。
 真宗大谷派の寺で、松林山(しょうりんざん)清秀院(せいしゅういん)西岸寺(さいがんじ)と言います。本山(ほんざん)である京都の東本願寺から拝受(はいじゅ)(1667年)した高さ56cm余りの阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)がご本尊です。開基(かいき)は1489(延徳(えんとく)元)年松平玄番と、過去帳に記録が有ります。文化財は、室町時代の絵画で「絹本著色方便法身尊像(けんぽんちゃくしょくほうべんほっしんそんぞう)」が市の指定に登録されています。

開基が松平玄番
 まてまて、開基が松平玄番だって?1489年だって?松平玄番といえば、三河一向一揆でも登場する竹谷松平氏の松平玄番?1489年というので、三河一向一揆の74年前です。三河一向一揆発生以前に松平氏で、松平玄番と名乗る武将がいたのかもしれません。どちらにしてもこのお寺は真宗大谷派ですが、松平と深い関係がありそうです。

松平氏の墓
少しはなれたところに福釜松平氏の墓がありました。


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