愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(20) 松平記

2022年03月27日 17時29分53秒 | 松平記

松平記p20

翻刻
河へ敵に成事中々有間鋪と被仰、弾正聞て扨々廣忠ハ良
将也と感し給ふ、されハ竹千代殿をも殺し不申、熱田に置
被申、此時高野藤蔵と申人竹千代殿をいとおしみ小鳥な
と進上申ける、故にのちに高野藤蔵に知行被下しと聞え

一 天文十七年三月十九日、尾州衆岡崎をとらんと安定の城
に弾正着て先手を以て押来る、駿河衆是を聞義元より臨
済寺雪斎和尚大将にて両朝比奈矢はきの下瀬を越て上
和田に陣を取、小豆坂へ上る、尾州衆織田三郎五郎大将分
にて坂中に出合てせり合を初、朝比奈藤三郎一番鑓致し

現代語
(人質を惜しんで駿)河の敵になることはあるまじきこと」と(廣忠は)仰せられた。織田弾正信秀がこれを聞いて、「さてさて廣忠は良将である」と感じ入った。であるならば、竹千代は殺さず、熱田に置いておこうと申された。この時、高野藤蔵と申す人が竹千代をいとおしみ、小鳥などを進上した。それで後に高野藤蔵に知行が下されたそうである。
一 天文17年3月19日、尾州織田信秀は岡崎を取ろうと安城の城に来て、先手になって押してきた。駿河今川衆はこれを聞いて、臨済時太原雪斎和尚を大将とし、両朝比奈は矢作川を下の方から越えて上和田に陣を取り、小豆坂に上った。尾州衆は織田三郎五郎信広を大将とし、小豆坂でせり合いが始まった。朝比奈藤三郎信置が一番鑓を致し・・・・

コメント
高野藤蔵という人は、他の書物で「河野」として登場している場合もありました。
さて、小豆坂の戦いです。これまでの「松平記」では、織田と今川(松平)の戦いは「渡りの戦い」(天文16年9月)がありますが、いわゆる第1次小豆坂の戦いは記載されていません。天文11年の第1次小豆坂の戦いは、「信長公記」に詳しく記載されていますが、松平記には記載されていません。第1次小豆坂の戦いは織田の勝利に終わったとされていますので、「松平記」では特に記載することもないと無視されたのかも知れません。
「両朝比奈」という言葉があります。このころ今川家臣の朝比奈氏は遠江朝比奈家と駿河朝比奈家に分かれていたようです。遠江朝比奈は、泰熙、泰能、泰朝などです。ここに出てくる朝比奈藤三郎は、駿河朝比奈家の信置のようです。
両朝比奈の進軍の経路ですが、「矢はきの下瀬を越て上和田に陣を取、小豆坂へ上る」と記載されています。朝比奈は東の方から進軍してくると想定されますので、矢作川を越えると矢作川の西側に出ます。上和田は矢作川の東側なので、上和田に陣を敷くにはもう一度矢作川を越えなければなりません。そして、小豆坂はさらに東なので、両朝比奈軍は上和田から戻っていって織田と戦うことになります。まことに不都合な進軍経路です。これは織田軍の進軍経路ではないかと思います。
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松平記(19) 松平記

2022年03月24日 10時33分25秒 | 松平記

松平記p19

翻刻
の証人にて御座候、是を御取なされ、岡崎殿を御旗下に可
被成と申す、弾正どの大に御感有、永楽百貫戸田五郎に被下
候、世間にハ右之代にとり申たると沙汰致し候、左様にハ
無之候、さて竹千代殿を熱田に加藤図書と申地下人に御
預置岡崎へ御使有、今度今川殿を離れ、尾張と一味被成可
然、無左候ハバ、竹千代殿を殺し可申由被申越、廣忠流石の
大将にて御返事被申ハ、此方人質の事駿河へハ心さして
遣候処に不〇に其方へ御取被成候、不及是非候、此上ハた
とひ御殺し被成候とも駿河と不和に仕事有まじ、人質は
もとより此方より駿河へ奉りし事なれハ、証人を惜ミて駿

現代語
(竹千代が岡崎からの)証人である。これをお取りになって、岡崎殿(廣忠)を支配下にするべきであると(戸田五郎は)言った。織田弾正信秀は大変喜び、永楽銭百貫を戸田五郎に下された。世間には「右之代にとり申たる」と言っているが、そうではない。さて、竹千代殿を加藤図書という地下人に、熱田という所に預けておいて、岡崎に使者を出した。「このたび今川殿を離れ、尾張と一味になることが適切である。そうしなければ竹千代殿を殺すことになる」と申してきた。廣忠は流石の大将で返事に「こちらは人質のこと駿河へと遣わしたところ、心ならずもそちらに取られてしまった。仕方がないことである。この上はたとへ竹千代が殺されても駿河と不和になることはない。人質はもともとこちらから駿河へ献上したものであるから、証人を惜しんで・・・

コメント
難語句

雪?慮?意?

つぎに、意味の分からないところです。竹千代を横取りした戸田五郎に対して、織田弾正信秀が永楽銭百貫を下したところです。世間に対して「右之代にとり申たる」と沙汰したというのです。どういう意味か分かりません。
さて、自分の嫡男竹千代を取られた廣忠が、たとえ人質が殺されても駿河(今川義元)と不和になりたくないと言います。もし、その通りに人質が殺されれば、家康はここで絶命し、その後の歴史は全く違うものになります。なんとなく、廣忠の美談(江戸時代の道徳で。子どもを犠牲にして忠誠を尽くす)のように感じられました。しかし、それだけ家忠の立場が弱かったということでもあります。
また、戸田五郎が織田信秀から永楽銭百貫もらいました。織田家は、この時には熱田や津島の港を掌握してかなりの金銀を有し、かなり富裕な豪族だったことが分かります。
コメント (2)
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第10回小谷城 愛教労城の会見学会報告 愛教労城の会

2022年03月23日 12時05分32秒 | 愛教労 城の会
 寒暖がめまぐるしく移り変わる3月。この日は風が冷たい日でした。はじめに出丸を見学しました。土塁がぐるっと回っていて、下からの敵を撃退するためのものであることがよく分かりました。今日は、たくさんの遺構を見るため、途中までの登山を省略し、車で中腹(番所)まで行きました。
番所から、一つひとつ確かめるようにしながら登っていきました。番所では案内図を見て、現在の道と当時の道は違っていることが話されました。御茶屋では土塁跡や庭石の跡を確認し、最後奥の方に竪堀を見ました。御馬屋では、周りをしっかりした土塁が囲っていて、「これは別の曲輪ではないか」との感想が出ました。馬洗池は現在も水が溜まっていて、地下水が湧いているのだろうかと思いました。桜馬場の突き当りは、とても見晴らしがよく、小谷城の戦いの舞台である虎御前山、山本山、丁野山、中島砦が一望できました。


 桜馬場で休憩をし、次は赤尾屋敷です。浅井長政が最後に自刃した場所です。大きな段曲輪が見えました。そして、いよいよ黒鉄門です。石垣と土塁でできた立派な門です。ここが小谷城の正門と言えます。その次に大広間。石がごろごろ転がっているようで、よく見るとまっすぐに並んだ石があり、屋敷の礎石と確認できました。ここでお市や浅井三姉妹が暮らしていたわけです。大広間からは天守台の石垣が見えました。大きくはありませんが、形を揃えて積んでいる様子が分かりました。天守台は、鐘丸だったとも言われています。天守台の裏は大堀切。大変大きな堀切で、一同圧倒されました。


 大堀切から上は、小谷城の中でも古い時代のものです。はじめは中丸です。段々になっていて、上から何重にも攻撃ができるようになっていました。その上は、京極丸です。浅井氏が守護である京極氏を形式的に主君とするために造られました。南側に大きな土塁があり、厳重な守りになっていました。京極丸の上は、小丸で、広い腰曲輪がありました。そして、この一連の連郭の頂点が山王丸です。山王丸には、立派な石垣がありました。本丸の石垣とは異なり、大きな石を野面積みによって積み上げていました。山王社の石垣として造られたのではないかという話でした。
 車で中腹まで行きましたが、それでも1時間40分を要し、次から次へと遺構が現れ、充実のひと時でした。
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松平記(18) 松平記

2022年03月13日 22時37分12秒 | 松平記

松平記p18

翻刻
一 三左衛門生害之後尾州衆力を落し、人数をかけ猶岡崎を
取らんと評定す。此由駿河へ聞えしかハ、今川殿より加勢
として遠州衆党岡崎へ参る、其時今川殿より廣忠へ御人
質を可給との儀也、是によりて廣忠の惣領竹千代殿七歳
に成給ふを駿河へ証人に御越被成候、駿河への御供に重
田と申者参しに、此者少相煩道(?)にて遅々致す程に田原の
住人戸田弾正弟、戸田五郎と申者しほ見坂にて竹千代殿
の〇物を奪とり、船にて尾張の国へ参る、此時重田ハとら
るましとて戸田と〇〇に切合、そこにて討死す、扨船にの
せ申尾州へ参り、古わたりの城主織田弾正殿へ差上岡崎

現代語
一 松平三左衛門忠倫が殺害され、尾州衆力を落し、しかし兵を集め猶岡崎城を攻め取ろうと相談をしていた。このことが駿河の今川義元に伝わり、今川殿より加勢として遠州の兵が岡崎に来た。その時、今川義元より人質を出すようにと松平廣忠に話があった。廣忠は、惣領である竹千代(後の徳川家康)7歳を証人(人質)として駿河に送ることにした。その御供として重田と申す者が付いたが、この者はすこし「相煩道」(?)にて遅れ気味となったところへ、田原の住人戸田弾正の弟戸田五郎と申す者がしおみ坂にて竹千代殿を奪い取り、船にて尾張の国へ行った。重田は竹千代を取られまいと戸田と切り合いになったが、そこで討死となった。戸田は、船に竹千代殿を乗せ、尾州へ参り、古わたりの城主織田弾正殿へ差し上げた。岡崎の証人(人質)となった。

コメント
まず、調べても分からなかったくずし字

難くずし字1
「無」とすると、「無物」となり、「竹千代殿の無物を奪とり」とは、何を奪ったのか意味不明になります。


難くずし字2
「前」に似ていますが、「前」は右に点があります。下は繰り返し「々」だと思います。

意味の難しい語句
「相煩道」ってどういう意味でしょう?

松平三左衛門忠倫の暗殺事件の次は、松平竹千代(後の徳川家康)人質強奪事件です。松平廣忠が駿河今川義元の援軍を受ける代わりに人質として嫡男竹千代を駿河に送ろうとしたのですが、途中で戸田五郎なる人物が人質を強奪して尾張の織田弾正忠信秀に差し出したという話です。
戸田弾正は戸田康光と思われます。一般にこの人質強奪は、戸田康光がやったとされていますが、「松平記」では戸田弾正の弟戸田五郎がやったことになっています。戸田五郎が誰なのか、調べましたが、分かりませんでした。
また、竹千代の護送は金田という人物と言われていますが、「松平記」では重田となっています。
さて、この人質強奪事件には、それを否定する説もあります。天文16年9月に岡崎城は織田に攻め落とされており(本成寺「古証文」)、松平廣忠は降伏の証として、竹千代を織田に送ったのではないかといいます。(柴裕之氏の説、ウィキペディア)
この説は、「松平記」と合致しません。このブログ「松平記(17)」で、松平廣忠は、天文16年10月20日に筧平三郎に対して感状を出しています。その説明の中で、筧平三郎は松平三左衛門忠倫を殺害した後に岡崎に戻った旨のことが書かれています。天文16年9月に岡崎城が攻め落とされていれば、筧は岡崎城には帰れませんし、織田に降参した松平廣忠が織田に味方していたものを殺害した筧に感状を出すことはできません。
しかし、史料的には前述(本成寺「古証文」)の方が確からしいので、「松平記」は、後世の創作が入っている可能性が高いと思われます。「三河物語」にも「松平記」と同様の記述がありますが、これは「三河物語」が「松平記」を参考にしたのではないかと思われます。
いずれにしても、竹千代を戸田五郎が奪って織田に連れて行ったというのは作り話っぽいです。
コメント (2)
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第10回愛教労城の会城めぐり 小谷城 お知らせ

2022年03月09日 18時56分31秒 | 愛教労 城の会
愛教労城の会 城めぐりのお知らせ
3月21日(月)春分の日です。
小谷城です。



参加を希望される方は、
mseijyun@gmail.com
080-3612-0027
(南)
まで連絡をください

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