愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

富山城 富山県富山市

2020年01月19日 12時19分55秒 | 富山県
昨年11月に訪れた富山県のお城の続きです。今回は、富山城です。

増山城を見終わった後、宿に帰るまでに多少時間ができました。「早すぎるなあ」そこで、富山で城と言ったら、これしか知らなかったので、富山城に行くことにしました。

ワクワクしていきましたが、思ったより小さく、本丸でしょうか。こじんまりした郭と最近できたのでしょうか、真新しい「天守」がそびえていました。

周りには水堀のような川がありました。

松川
写真の左に見えるのは、遊覧船です。

さらに南に進みますと、お城のような建物がありました。佐藤記念美術館というそうです。

佐藤記念美術館

今は近くにある富山市郷土博物館と同じ経営になっているそうです。


富山城シルエット

門のあたりから写しました。なかなか見栄えのする城です。ただ、これが堀を渡るとすぐのところにあり、天守というより門の櫓のようなイメージです。造った人も櫓をイメージして作られたのではないでしょうか。しかし、なぜかこの建物が「模擬天守」と言われています。「大手門櫓」とか「西門櫓」の方がかえって本ものっぽいと思いますが。ま、どちらにしても「模擬」ですので、あまり深入りする必要もないのかも知れません。
こちらの画像もなかなか見栄えがします。

紅葉と富山城

ということで、富山城は見栄えのいい城であることが分かりました。
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増山城(5) 富山県砺波市

2019年12月10日 17時40分16秒 | 富山県
順路に沿って行きますと、足軽屋敷跡が見ました。

足軽屋敷跡

さらに北東に進んで行きますと、神保夫人入水井戸というのがありました。説明版によると「増山落城の折、神保氏の夫人が勇敢にも女数人とともに敵陣に切り込み、兵60人を斬って自ら城に火を放ち、家宝をたずさえて投身したと伝えられている。」そうです。

神保夫人入水井戸

井戸を過ぎ、さらに北東に進むと増山城の城域を抜け、亀山城へと道は続いていました。

亀山城への道しるべ

亀山城はちょっと急な山でした。登るのが大変でした。

亀山城登城道 虎口かな


亀山城本丸
亀山城の頂上(本丸)は、なだらかな平地でした。

亀山城を登ったら、急に満足感が充満し、帰途に就くことにしました。途中、三の丸により、駐車場に無事着くことができました。

ところが、城下町の方に総構えの土塁が残っているということを思い出し、行ってみることにしました。

土塁の説明版

土塁

やれやれ、やっと見学が終わったと思ってふと道の方に目をやると、ニホンカモシカの親子が横切っていきました。「はあ?」という感じで、写真を撮ることもできませんでした。後で調べたら、増山城はニホンカモシカの生息地でもあるそうです。心の準備ができていなかったので、残念でした。

増山城 おしまい
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増山城(4) 富山県砺波市

2019年12月09日 06時33分01秒 | 富山県
無常曲輪からまた戻り、先ほどの石垣跡から東に進みますと、二の丸になります。二の丸がこの増山城の中心の曲輪だったそうです。

二の丸

この二の丸に鐘楼堂がありました。

二の丸鐘楼堂

二の丸の中では一段高くなっていました。鐘楼というと、お寺の鐘を思い出してしまうのですが、お城の鐘楼とはどんなものだったのでしょう?まさか、「敵が来たぞ、ゴーン」ではないと思いますが。

さて二の丸から隣の曲輪「安室(あぢち)との間の堀切(横堀)がありました。そして、「安室屋敷」には梯子を登っていくようで、その梯子が見えました。

「安室屋敷」への梯子

安室(あぢち)とは、現地案内板によれば「家督を嫡子に譲って隠居した人の住居」を意味するそうです。なお、金沢弁では、「分家」という意味があるそうです。ただし、漢字は分かりません。


「安室屋敷」の土塁


「安室屋敷」東側の高まり ここに屋敷に入る検問みたいなものがあったのでしょうか。ここから木がなければ、三の丸、馬洗池が見え、二の丸への侵入者を見張ることができます。


馬洗池
今でいう駐車場でしょうか。たぶん安室屋敷の横の空堀を通って二の丸に上がったのではないでしょうか。

馬洗池まで来ると一通り増山城の中心部は見たことになると思い、次の亀山城をめざすことにしました。馬洗池からすぐ、三の丸と安室屋敷の間の堀底を通りますが、その切岸の高さに感動しました。

安室屋敷東側切岸

増山城 続く
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増山城(3) 富山県砺波市

2019年12月08日 06時40分26秒 | 富山県
「馬の背ゴ」から少し登ると「又兵衛清水」(またべえしょうず)という清水がありました。家臣の又兵衛という人が発見したそうです。


又兵衛清水

又兵衛清水をもどって少し上がると石垣跡の看板のあるところに来ました。

石垣跡 
いわゆる石垣ではなく大きな石を配している感じでした。鏡石だけ残り、あとの石はみんな崩れてしまったのでしょうか。珍しい石垣跡でした。

石垣跡から右に折れますと、一の丸に行きます。

一の丸

一の丸から和田川が見えました。この和田川はダムをつくった関係で広く大きくなり、その周りの村落を川底にしてしまいました。その村落は増山城の城下町だったということです。まことにもったいない話だと思いました。

和田川 これは北の方の川で、水没したのはもう少し南西側(川上)の方です。

一の丸から石垣跡まで戻り、今度は南の方へ行きます。「無常」「鐘楼堂」などの曲輪のあるところです。なお、図では無常曲輪の西側に畝状竪堀群があるということで、それも見たいと思いました。しかし、「ああ無情」なにも見えませんでした。残念。

無常曲輪から下の覗く

しかし、この無常曲輪の東側はすごい谷になっていて、自然のものなのか、掘りこんだ人工のものなのか迷うような感じになっていました。いずれにしても、この無常曲輪東側からの侵入は困難だと思いました。それにしても「無常」というのはどういうネイミングでしょうか。仏教に関係しているのでしょうか。F郭といい、無常といい、すごい曲輪の名前に驚くばかりです。

増山城 続く
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増山城(2) 富山県砺波市

2019年12月07日 11時13分05秒 | 富山県
ちょっと登ると大手口というのがありましたが、何の痕跡もなく案内表示板だけありました。


大手口の案内表示

説明の下の方に落語家がいます。春風亭昇太です。かれは、テレビなどでも山城紹介の番組に出て、山城普及に一役買っています。山中城(静岡県)や小谷城(滋賀県)の紹介番組を見たことがあります。

さらに登ると、見えました、堀切です。

増山城堀切

向かって左側の堀切です。右側にも見え、登城道以外のところからは侵入させないという守りでした。だいたいは山の尾根にあるのですが、こういうところにある堀切は初めて見ました。すごい迫力でした。

さらに登っていくと「F郭」が見えました。

F郭

F郭とは後世に付けた名称で戦国時代にアルファベットを用いたわけではありません。城郭研究者が名付けたそうですが、アルファベットは初めてです。せめて「いろは」ぐらいで付けていただけると雰囲気が壊れなかったかもしれません。でも、姫路城に「いの門」とかあるので、当時からの名称と間違えるかもしれないと思い、わざとアルファベットにしたのかも知れません。考えさせられる曲輪の名前でした。

このF郭から下を見下ろすと、登城道が真正面に見えました。ここを登ってきた敵兵はひとたまりもありません。すごい曲輪です。

F郭から見下ろす
このF郭のすぐ隣は「馬の背ゴ」です。


「馬の背ゴ」へ

「馬の背ゴ」はF郭の防御、さらに西側からの登城道「七曲」を守るための曲輪と思われます。また、その名称に疑問がわきました。「馬の背ゴ」とは、どういう意味か。馬の背までは何とか理解できます。「ゴ」はなんでしょうか。「馬の背曲輪」だと少し意味が分かります。分かる人、教えてください。


「馬の背ゴ」の土塁 たいへん立派な土塁がありました。

増山城 つづく
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