愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

本宿城と本宿界隈(3) 岡崎市

2022年04月26日 12時40分24秒 | 岡崎市
④ 三方ヶ原戦死者の墓
また、法蔵寺には、なぜか三方ヶ原の戦いで戦死した武士の墓がありました。有名な二人が看板で説明されていました。
夏目次郎左衛門吉信
鳥居四郎右衛門忠広

三方ヶ原の戦いで死んだ武将の説明書き

法蔵寺を出て、東海道を西へずんずん行くと、右手に先ほど見てきた本宿古城の説明板がありました。これは、本宿町中集会所の塀に張られていました。

本宿古城の説明版

⑤ 本宿村道路元標
更に東海道を西へ進みました。右手に、今度は「本宿村道路元標(もとじゅくむらどうろげんぴょう)」と云うものがありました。

道路元標

道路元標とは、「道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物。旧道路法(1919)により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるものとしていた。」(日本大百科全書(ニッポニカ)より)だそうです。本宿村は、東海道の経過地点ですということをあらわすために造られたのでしょうか。

⑥ 十王堂
こんな看板がありました。

十王堂
中をのぞきましたら、集会所のようになっていて、おばさんたちが何か話し合っていました。昔はちゃんとしたお堂だったのでしょう。

⑦ 一里塚
最後、東海道から右折すれば「本宿町広畑」の交差点に抜ける曲がり角に一里塚がありました。

一里塚

以上、位置関係は下の図のようです。

本宿界隈

本宿城と本宿界隈 おしまい
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本宿城と本宿界隈(2) 岡崎市

2022年04月25日 16時12分57秒 | 岡崎市
ここから国道1号線の側道に出て、東の方に歩きました。しばらく歩いていると、分岐点がありました。東海道と国道一号線の分かれ道です。そして本宿界隈の大きな案内板が設置されていました。

東海道の方に進み、引き返すかたちで西の方に進みました。左手(北)に大きなお寺がありました。法蔵寺です。

法蔵寺山門

③ 近藤勇首塚
このお寺に近藤勇の首塚があるようです。

近藤勇首塚

なぜ三河のこのお寺に近藤勇の首塚があるのか、その理由が説明板に書かれていました。

石碑、胸像の説明版

近藤勇首塚の由来
新選組隊長近藤勇は、慶應4年(明治元年)4月25日、35歳で東京都板橋の刑場の露と消えました。
刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
また、勇の首は処刑後、塩漬けにして京都に送られ、三条大橋の西にさらされました。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼することにしました。
しかし、和尚はその半年前から三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので、法蔵寺に運ぶことにしました。
この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。しかし、当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして杳華していました。
そして、いつか石碑の存在も忘れられてしまいました。昭和33年、総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。
今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。
 法蔵寺 執事


新選組ファンにはたまらない胸像と石碑だと思いました。

近藤勇胸像

続く
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本宿城と本宿界隈(1) 岡崎市

2022年04月24日 14時38分47秒 | 岡崎市
松平記(21)の記事の中に山中城のことが書かれていました。
「其年三州山中城落申候、岡崎衆攻落し、松平権兵衛没落也」
天文17年、山中城を陥落させ、城主松平権兵衛が没落したという記事です。早速行ってみました。

本宿の交差点

現地に近づくと「本宿町城屋敷」という、いかにも「ここにお城がありました」という交差点がありました。

さて「富田病院」の敷地内だと思いますが、ここは、看板に「旧代官屋敷」と案内されている場所です。そこに資料館がありました。「郷土史資料展示室」と言います。中に入ると、「富田群蔵翁」の資料が展示されていました。富田群蔵とは、この本宿村の代官だったようです。「富田病院」のご先祖様のようです。

郷土史資料展示室の中

① 代官屋敷跡
看板に出ていた「代官屋敷跡」は、資料室の隣にあったレストランのことでした。「Yughino Yugo」という横文字のレストランです。なんか違和感が感じられますが、12時オープンだったので、早すぎて入れませんでした。

旧代官屋敷跡、レストラン「Yughino Yugo」


旧東海道

高速道路、国道1号線のすぐ南に旧東海道が走っていました。道幅は今の感覚では市道ぐらいです。今の感覚では、江戸、京都を結ぶ幹線道路とはとても思えませんが、当時としては広い道幅でここを籠や馬、旅人たちが往来していたんだろうなあと想像してみました。今みたいにトラックや自動車はないので、これくらいがちょうどよかったのかも知れません。

② 本宿古城
さて、本題の「山中城」です。


国道一号線側から見た本宿古城

現在は畑で私有地になっています。周囲を鉢地川が取り囲み、ちょうど堀のようになっていました。この川を渡る橋がありました。なんと、「ふるしろはし」です。ちゃんとこの地に城があったことを伝えているように見えました。

ふるしろはし

ぐるっと川を回っていますと、何やら土塁の跡みたいなものがありました。多分違うと思いますが、雰囲気がありました。

土塁跡のようなもの

続く
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松平記(23) 松平記

2022年04月23日 08時37分04秒 | 松平記
蔵人信孝、討死す

松平記p23

翻刻
成、町の両方より散々に射たりしかハ、いかがしたりけん
蔵人殿左の脇を射られ痛手なれば、馬より落て討れ給ふ
天文十七年四月十五日也。か様に両人大勢をかけ破り蔵人
殿を討取申事高名比類なし、痛ハしや蔵人殿心から起ら
さる敵に成て、御討死是非なしと廣忠も大になけき給ひ
し也
一 蔵人殿御討死有しかハ、三河衆大かた御手に入ける、明年
天文十八年駿河今川殿より被仰るハ、何とぞ安定の城を攻落
し、三河一国平均に治めらるへしとて雪斎和尚大将にて
安定を攻らるる、岡の城をは、早々明渡し、安定にハ織田三

現代語
(大久保五郎右衛門、石川新九郎の両人は両方から二手に)なり、明大寺の町の両側からさんざんに矢を射ったので、どうしたものか蔵人信孝殿の左の脇にあたり、深手を負い、馬より落ちて討たれてしまった。天文17年(1548)4月15日のことであった。このように、大久保五郎右衛門と石川新九郎の両人が大勢の敵を打ち破り、蔵人信孝殿を討ち取ったのは、高名この上ないことであった。いたわしいのは蔵人信孝殿で、心ならずも敵になり、討死をしてしまったのはどうしようもなかったことだと廣忠もおおいに嘆かれた。
一 蔵人信孝殿が討死をしたので、三河衆は大方手に入った。明年天文18年(1549)駿河今川殿が仰せられる事には、「なんとかして安城の城を攻め落とし、三河一国を支配する」と。そのため太原雪斎和尚を大将として、安城を攻めてきた。岡の城を早々に明け渡した。安城には織田三(郎五郎)殿が立て籠もっていた。

コメント
ついに蔵人信孝は、討死をしてしまいました。大久保五郎右衛門も石川新九郎も詳しいことは分かりませんが、松平廣忠の家臣であると思いますので、ある意味これは仲間内の戦いであるともいえます。戦国時代の小豪族では、まわりの大大名の影響を受け、松平氏のように、一方で今川派、他方で織田派といった内部分裂が起こり、どちらに付くかという抗争が起こっています。今川と織田からの調略活動もあり、なかなか大変です。よく松平家は滅びずに残ったなあと思います。
後半部分は、いわゆる安城合戦です。これを読むと蔵人信孝が討死したことが安城合戦の契機になっているようです。織田はこの時安城を取っていましたので、松平としては、親忠、長親、信忠と3代続いた安城松平の城でもあるので、取り返したいという気持ちもあったと思います。

岡城の土塁
愛知の史跡めぐり「岡城址 岡崎市」より

ここで「岡の城」が出てきます。この城は岡崎城の南東約3キロの乙川(菅生川)沿いにあります。この時点では、織田方になっていたのでしょう。それを今川方がまず、攻め落としたわけです。このブログ「松平記(22)」で、<通説では、「小豆坂合戦時、山中城は、岡城、生田城と共に今川軍の重要拠点」となっていたとあります。(ウィキペディア)>とウィキペディアの記事を紹介しましたが、めまぐるしく織田方、今川方の取り合いがあったようです。
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松平記(22) 松平記

2022年04月15日 08時47分52秒 | 松平記
松平蔵人信孝、明大寺を攻める

松平記p22

翻刻
給う者なから一手にて成とも、岡崎をとらんとて五百余
人明大寺表に出張の間、酒井雅楽助石川安芸守馳向て対
陣可有候とて出勢す、されとも味方小人数、敵大勢なれハ
謀をめぐらし敵を退治せんと評議有処に大久保五郎右
衛門、石川新九郎両人御意を伺ひ罷、射手七十人をえらひ
藪陰小塚の間に伏かくれ侍ける程に、蔵人殿ハ明大寺を
出てかふと山に御出之時分、七十余人一同におめいて懸け
り、一矢射と明大寺の町へ入、菅生の河原へ切ぬけ、又取て
返す、蔵人殿追懸給うか、町に火をかけ引取候ハバ苦しか
るましきに、町に備てのき給ハす、両人両方より二わけに

現代語
(松平蔵人信孝殿は尾州衆が打ち負けて力を落し)給うものながら、自分一人になっても岡崎を攻め落とそうと五百余人で明大寺方面に進出してきたので、酒井雅楽助、石川安芸守が駆けて向かい、蔵人と対陣しようとした。しかしながら味方は少人数、敵は大勢なので、作戦を練って敵を退治しようと話し合っているところに、大久保五郎右衛門、石川新九郎の両人が(廣忠の)命令を受けて、射手七十人を選び、藪陰・小塚の間に伏して隠れていると、蔵人信孝殿は明大寺を出て、かぶと山に現れたときで、七十余人が一同にわめきながら一矢うたんと明大寺の町へ入った。菅生の河原へぬけ、また取って返した。蔵人信孝殿は追いかけたが、町に火をかけ、引き返せばいいものを町から退くことをしなかった。大久保五郎右衛門、石川新九郎両人は二手に分かれ、・・・・

コメント
今回は、松平信孝が主人公です。松平信孝は阿部大蔵が嫌いで、彼への恨みが謀反の一つの原因になっていると思いますが、その阿部大蔵はもう出て来ません。信孝は、ただ松平に反対するだけの人のようになっています。いろんな人が登場しています。酒井雅楽助、石川安芸守は駿河に呼び出されたとき、信孝の横領について主張し、信孝を追放した家臣団の一人です。(第12回)大久保五郎衛門は大久保忠俊、石川新九郎は、石川正綱というそうですが、それ以上分かりません。
ここで不思議なことは、信孝が明大寺を出て、いきなりかぶと山に行ってしまうところです。「蔵人殿ハ明大寺を出てかふと山に御出之時分」のところです。「明大寺」「かぶと山」「菅生川」位置関係は図のようになり、信孝がかぶと山に行くには菅生川を渡らなければなりません。少し無理な気がします。

「かぶと山」「菅生川」「明大寺」の位置関係
(グーグル地図を加工)

また、弓矢隊が明大寺に入り、菅生川まで行ったと思ったら、また引き返すという奇妙な行動をしています。

明大寺は元々岡崎城があったところで、それなりに町として発展していたところだったのかも知れません。岡崎城は松平清康の時に明大寺から現在の菅生川北岸に移動したようです。
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