愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

岩略寺城見学会の案内

2021年02月28日 08時17分31秒 | 愛教労 城の会
コロナ感染がすごいことになっていますが、おさまることを願い、城めぐりの計画を立てました。
参加希望の方は、下記メールでお知らせください。
mseijyun@gmail.com

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豊川海軍工廠(公園の周辺)2 豊川市

2021年02月23日 07時10分33秒 | 豊川市

第3火薬庫 第2火薬庫より小さく、部屋が一つしかないそうです。こちらを向いているのは学芸員


爆弾破裂の際の破片が当たった跡


原料置き場 イギリス式の煉瓦で積み上げられた上にコンクリートで表面を覆っています。これも爆弾によって破壊されていました。


B29による爆弾投下の跡、2mぐらいの深さがありました。


トイレの跡 男子トイレです。「水洗式」で、浄化はしませんがそのまま三河湾に流していたそうです。便器の下には、太いパイプが巡っていました。


倉庫の周りを囲む土塁と入口 入口の脇にはかつて石垣が組まれていたそうですが、爆撃で崩壊したそうです。


防空壕跡 この防空壕は被弾していないそうです。他の防空壕で被弾したものは、つぶれて生き埋めになった場合が多かったそうです。大変悲しい話でした。

以上、写真とその説明のみの報告でした。
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豊川海軍工廠(公園の周辺)1 豊川市

2021年02月22日 09時35分22秒 | 豊川市
豊川海軍工廠の周辺の遺跡について、冬場を選んで見学できるよう企画されています。公園内の見学は、毎日のように行われていますが、公園周辺の見学は、年4回しか行われません。21日(日)は、その最終日でした。

案内をしていただいた学芸員


公園の柵から外へ出る見学者


街灯の跡(矢印)この街灯の間が当時の道幅。右横の白い柵は公園の柵


防火水槽 近くに火薬倉庫がありました。


第2火薬庫 公園内の第1火薬庫の続きで建っていました。


名大の施設宇宙アンテナ これで太陽系を調べているそうです。

つづく
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田代城 豊田市(下山地区)

2021年02月17日 11時47分13秒 | 豊田市
「日本城郭体系」9を読んでいましたら、まだ行っていない田代城がありました。所在地は額田郡です。ネットで田代城を調べると、豊田市下山地区の田代城が出てきました。比べると、豊田市の方に遺構がよく残っていそうなので、豊田市の田代城に行くことにしました。


田代城全景

この城の詳しい情報は、あまり分かっていないようなので、現地案内板の文を掲載します。

現地案内板

田代城跡
所在地 下山村大字田代字入北切
遺構 曲輪、土塁、堀切
規模 総面積 約3740㎡、東西約170m、南北約60m

田代城は、通称「京ヶ峰」と呼ぶ山の西麓にあって、近くの大沼城とともに足助七城のひとつに数えられていました。
 遺構は、本曲輪・曲輪・堀切などが、山の斜面に沿って階段状に分布していますが、古い田代城城絵図によると、これらは居館跡で、戦時の拠点は京ヶ峰の山頂にあったことがわかります。また、居館の南西300mの尾根の先端には、出曲輪の跡があります。
 城の歴史に関する詳細は不明ですが、「三河国二葉松」には、城主として森外記、松平主税或甚五左衛門の名が挙げられています。
 この田代城も、大沼城と同様に天正2年4月(1574)(元亀2年(1571)とする説もある)、甲斐の武田軍に攻め落とされました。
 また、それ以前の天文・永禄年間(1550年ごろ)のこととして、「東照軍艦」には、駿河の今川氏が、竹千代(家康)などを田代城へ出兵させ、松平道久を攻め降したことが記されています。
 なお、付近には「お城下」「お屋敷」など、田代城に関連のある地名が今も残っています。
平成4年12月26日 下山村教育委員会


田代城の案内板から現地まで、道案内の標識があり、迷わずに城まで行くことができました。


田代城イメージ図

さて、現地に行くと、先ず立派な堀切が目に飛び込んできました。イメージ図の中央部の堀切です。

一番西の堀切
人の身長より深く、2mぐらいの深さがあったと思われます。

これはすごいと思って、堀切を降りてさらに奥の方に行くと、二つ目の堀切がありました。イメージ図の真ん中の堀切です。

真ん中の堀切

さらに奥に行くと、3つ目の堀切がありました。

3つ目の堀切
大変見ごたえのある堀切でした。堀切の間はおそらく曲輪で、一番西の曲輪には土塁のような跡も見受けられました。

この田代城には、東に300mほど行くと出曲輪の跡があります。出曲輪は、東側に土塁の跡が残っていました。

東側の土塁跡
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名古屋城天守閣復元問題 名古屋市中区

2021年02月14日 11時04分02秒 | 名古屋市中区

名古屋城天守閣(2015年12月撮影、今は工事中で見ることができません)

少し前のことですが、名古屋市が名古屋城天守閣復元問題で市民説明会を行いました。そこでの説明について報告します。現在名古屋市は、文化庁に対して調査結果を提出し、現天守の解体の許可を待っている状況です。

名古屋城天守閣の木造復元は、河村市長によって2009年ごろから言われだし、2015年には「オリンピックのある2020年までに完成させる」「工費は400億円」という話になりました。
しかし、専門部会である石垣部会が「石垣保全が不十分」という指摘をしたり、文化庁から「現状変更」(現天守閣の解体)の許可が出なかったりで、結局2020年完成は破綻し、2022年に延期しましたが、それも破綻し、今では2028年(リニア開通予定の年)に延期されています。
1月22日、市民向け説明会があり、それに参加しました。この説明会は、はじめに学芸員の講演が1時間ぐらいあり、そのあと、ユーチューブで公開している説明をそっくりそのままプロジェクターで流しました。説明は名古屋城の武将隊の一人である「徳川家康」が行いましたが、「でござる」とか「拙者」「その方」など、わざとらしいしゃべり方で、聞いていて市民を馬鹿にしているのかとも思いまた。

その後で、河村市長が参加して、質疑応答が行われました。
「復元事業の進捗状況」ということで、下記の4点が話されました。

復元事業の進捗状況

1の「き損事故への対応」と言うのは、2020年3月に、本丸の工事中、地下に埋蔵していた江戸時代の蔵跡(礎石)を破損したという事故です。学芸員の立ち合いのない中で、工事が行われたようです。

2の「文化庁からの指摘事項への対応と今後の流れ」については、2019年9月に文化庁から「指摘事項」という形で、名古屋市に対して注文がなされました。要約すれば、本丸の堀や、天守台の石垣等をしっかり調査(発掘を含む)しなさい、また、天守閣解体と言うが、耐震対策のためか、木造復元のためか考えをまとめなさいということです。

文化庁からの指摘事項への対応と今後の流れ

これを聞いてびっくり。「えっ、まだ文化庁の許可が出てないの?木材はもう買っているって聞いたけど?」今年4月に指摘事項の回答を提出するそうです。

3の「木材の調達及び保管状況」で、なんと2071本の木を買い、5つの県で保管していることが分かりました。

木材の調達及び保管状況

しかし、2018年の議会決議には、「木造復元の見通しが立った時に」という付帯事項があり、まだ見通しの立たない段階で購入したのはどういうわけだとの質問が出されました。また、いくらか言いませんでしたが、共産党の資料によると725本で約22億円です。単純計算で約62億7000万円がかかっていることになります。

4の「バリアフリーの検討」では、史実に忠実であることと誰でも天守に登れるためのバリアフリーの両立をめざすという考えだけが述べられました。しかし、具体的な方法は一切語られませんでした。

5の「機運醸成」では、後からの質問への回答で分かったことですが、天守閣の金シャチをおろし、それに触るというイベントを計画しているようです。コロナ禍の中、触るイベントはいかがなものかという意見が出されました。
ということで、現在の復元事業には、やはり無理がありすぎると感じました。

なお、名古屋市の説明動画はここをクリックしてください
コメント (1)
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