愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(59) 松平記

2024年01月26日 08時08分06秒 | 松平記

松平記p59

翻刻
当て野寺、佐々木、桜井とも間一里有、北面にハ上野城有、其
間一里半有、東ハ長澤より駿河迄敵也、野寺より一揆は起
りしかとも、是ハ岡崎より遠かりし間、其間に佐々木、桜井
を隔たり、大津半右衛門、犬塚甚左衛門、同八兵衛、同又内、同
善兵衛、五味三右衛門、中川太左衛門、牧吉蔵、倉地平右衛門、
小谷甚左衛門、太田善太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左
衛門、太田弥大夫、同彦六郎、安藤治右衛門、矢田作十郎、戸田
三郎右衛門、其外侍百余騎、佐々木、野寺の寺内に籠る。但戸
田三郎右衛門、心ならず家康の御勘気をかうふりし間、一
揆共に催されしが、家康へ返忠を致し、寺内を焼たてて家
(康衆を引き入んと相図をしけるが・・・)

現代語
野寺本證寺、佐々木上宮寺、桜井松平家次とも間は約4㎞ある。北の方には上野城酒井忠尚があり、その間は約6㎞、東の方は長澤松平より向こうは駿河まで敵である。野寺本證寺より一揆は起こったのだけれども、そこは岡崎より遠かったので、その間に佐々木上宮寺、桜井松平家次が敵になった。大津半右衛門、犬塚甚左衛門、同八兵衛、同又内、同善兵衛、五味三右衛門、中川太左衛門、牧吉蔵、倉地平右衛門、小谷甚左衛門、太田善太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左衛門、太田弥大夫、同彦六郎、安藤治右衛門、矢田作十郎、戸田三郎右衛門らその他百騎以上が佐々木上宮寺、野寺本證寺に立て籠もった。ただし、戸田三郎右衛門は、家康への忠節はありながら家康の機嫌を損ね、一揆共に誘われたのであるが、一揆共にそむき、上宮寺の寺内を焼き、(家康の兵を引き入れようと合図をしたが・・・・)

コメント
本證寺、上宮寺、桜井松平家の位置関係については、前回の地図を参照してください。
一揆側に加勢した武将が列記してあります。一応ネットでどんな武将なのか調べてみました。しかし、ヒットしない武将も多々ありました。これを御覧になった方で、情報をお持ちの方は、教えてください。

大津半右衛門
 「松平伊忠」の項目で、「(伊忠が)三河一向一揆では、一揆方として深溝城近郷の野羽城(六栗城との説も)に籠る大津半右衛門、乙部八兵衛、夏目吉信を攻略、乙部八兵衛を内応させて夏目吉信を生け捕りにした。」(ウィキペディア)
犬塚甚左衛門 ヒットせず。
犬塚八兵衛 ヒットせず
犬塚又内
 前橋城酒井雅楽守家の用人で、姫路への移転を密かに工作していた武士としてヒットしました。姫路への移転は成功したのですが、姫路で台風の被害に遭い、結局別の家老川合定恒に殺害されてしまいました。「姫路物語」という文書になって残っているそうです。しかし、話は寛延2年(1749年)のことなので、三河一向一揆(1563年)から186年先のことです。犬塚又内は別人です。(ウィキペディア)
犬塚善兵衛 ヒットせず
五味三右衛門 ヒットせず
中川太左衛門 ヒットせず
牧吉蔵
 「三河牧氏」の項目に突然、「幡豆郡志古屋村の地侍に牧吉蔵あり。」と出てきます。(ウィキペディア)また、「城郭写真記録・愛知の城館」というサイトで、「三河 志子屋砦」の項目に、「築城年、築城者は定かではない。荒川城の支城として味崎砦、志篭谷砦が築かれ、牧野〔牧〕吉蔵が護ったと云う。1563~1564年「三河一向一揆」の際、本証寺に拠って家康と戦っている。牧野氏は信州から三河へ移り、大郷山の林間に居を構えていたが、1185年牧野権之丞が志籠谷に移住したことに始まる。弟の権右衛門は碧海郡井ヶ谷へ、更にその子孫は碧海郡下青野へ移り住んだと云う。」
倉地平右衛門
 「倉地平左衛門 永禄6年(1563年)三河一向一揆が蜂起すると平左衛門は一揆方に与し、戸田忠次・矢田作十郎らとともに佐々木上宮寺に入って松平氏に反した。天正3年(1575年)岡崎城士・大賀弥四郎らの武田氏内通が発覚したが、平左衛門は首謀者の一人だった。この謀反が露見するや平左衛門は逃走したが、今村勝長・大岡清勝によって討ち取られた。」(ウィキペディア)

続きは、次回以降に

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松平記(58) 松平記 | トップ | 松平記(59)その2 松平記 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

松平記」カテゴリの最新記事