3月28日(木)長浜城に行きました。
長浜城とは
長浜城は、豊臣秀吉が1573年(天正元年)に築城したお城です。当時は、羽柴秀吉と名乗っていました。また、長浜という地名も、元は今浜といい秀吉が信長の「長」をもらって長浜としたらしいです。
秀吉の後は、山内一豊などが城主となっています。
1615年に廃城となっています。
車で始めて長浜城が見えたときの印象は、「ちゃっちい。」
お城のミニチュアのような建物に見えて、豊田市にある「かに本家」のお城を思い出してしまいました。
しかし、間近に行くと大きくてやっぱり「長浜城」だなあと思えました。たぶん天守閣の最上階が小さいのでそう思えたのだと思います。
長浜城 石垣出土地
長浜城内に教育委員会による案内板がありました。
「従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。
昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められることになった。
同年11月下旬から約1ヶ月間、水底の発掘調査をしたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長約30メートルにわたり整然と列をなしていることがわかった。
よって、ここに標石を設けて長浜城遺構の一端をしのび、郷土史研究の参考に供するものである。」
と書いてありました。
今公園となっているところは、40年ぐらい前は湖の底だったのです。もちろん写真に見えるようなお城もなかったのです。
また「石垣の根石」とは、石垣の最下層の石のことらしいので、長浜城は建てられた後に琵琶湖の中に水没したか、もともと湖の中に石垣を作ったということになります。
太閤井戸
お城の建物の西側琵琶湖のほとりに「太閤井戸の跡」の石碑がありました。琵琶湖は淡水湖なので、そこから直接水を取ればいいと思うのですが、わざわざ湖の近くに井戸を掘って水を取るのはどうしてか、不思議に思いました。やはり飲料水としては湖の水はふさわしくなかったのでしょうか。
石碑の「太閤井」までは読めるのですが最後の文字がなんと書いてあるのか分かりませんでした。
天守閣跡地
お城の建物の後ろ側に「天守閣跡地」がありました。そこには豊臣秀吉の石造や案内板がありました。
この「豊臣秀吉像」は、羽柴秀吉時代の服装ではないと思いました。まだ信長の家来だったので、このように立派なまるで公家のような服装はしていなかったと思います。
長浜城縄張り図(想像図)
この縄張り図によれば、お城は水に囲まれていて攻めるのには難しいと思いました。いわゆるお堀がそのまま琵琶湖を使っているので、うまいこと考えたなあという感想です。
天守閣の奥(琵琶湖側)のある建物は、なんだろうと思いました。
「おかねさん」の碑
碑文には、以下のような文が書かれていました。
「長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
天正2年(1574)ごろ、長浜城が築かれることになりました。
強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。
平成16年3月吉日」
昔福井県の丸岡城について、似たような話を聞いたことがあります。
何度建ててもくずれてしまうために人柱をして作ったというのです。人柱になったのはやはり女性でした。その女性の霊を鎮めるために立てられたのが近くにある「稲荷神社」だそうです。
長浜領境界の碑
「これより南長浜領」と書いてあるのが分かりました。
その横に案内板がありました。
「長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた。
この特権は徳川幕府にも認められ、他地域とくぎるための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに三十数本建てられたといわれる。
しかし今は、わずかに十余本を数えるだけで、そのうちもとの位置にあるものは数本である。
この境界碑は、秀吉のもうけた長浜の年貢免除の範囲を知る上で貴重な資料といえる。
なおこの境界碑は「これより東 長浜領・これより南・長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。
市立長浜城歴史博物館」
ということで、秀吉はこの長浜の領内で年貢免除を行っていたことがわかりました。信長の楽市楽座を真似たものでしょうか。長浜が商業の都市として栄えたことがうかがわれました。
2014年 NHK大河ドラマは「軍師官兵衛」
「八重の桜」が始まったばかりだというのに、はやばやと2014年度の大河ドラマの宣伝をしていました。秀吉の参謀黒田官兵衛が主役のようです。ただ、長浜城と黒田官兵衛との接点ははっきり分かりません。官兵衛が秀吉の参謀だったこと、秀吉が長浜に数年住んでいたことしか分かりません。
長浜城とは
長浜城は、豊臣秀吉が1573年(天正元年)に築城したお城です。当時は、羽柴秀吉と名乗っていました。また、長浜という地名も、元は今浜といい秀吉が信長の「長」をもらって長浜としたらしいです。
秀吉の後は、山内一豊などが城主となっています。
1615年に廃城となっています。
車で始めて長浜城が見えたときの印象は、「ちゃっちい。」
お城のミニチュアのような建物に見えて、豊田市にある「かに本家」のお城を思い出してしまいました。
しかし、間近に行くと大きくてやっぱり「長浜城」だなあと思えました。たぶん天守閣の最上階が小さいのでそう思えたのだと思います。
長浜城 石垣出土地
長浜城内に教育委員会による案内板がありました。
「従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。
昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められることになった。
同年11月下旬から約1ヶ月間、水底の発掘調査をしたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長約30メートルにわたり整然と列をなしていることがわかった。
よって、ここに標石を設けて長浜城遺構の一端をしのび、郷土史研究の参考に供するものである。」
と書いてありました。
今公園となっているところは、40年ぐらい前は湖の底だったのです。もちろん写真に見えるようなお城もなかったのです。
また「石垣の根石」とは、石垣の最下層の石のことらしいので、長浜城は建てられた後に琵琶湖の中に水没したか、もともと湖の中に石垣を作ったということになります。
太閤井戸
お城の建物の西側琵琶湖のほとりに「太閤井戸の跡」の石碑がありました。琵琶湖は淡水湖なので、そこから直接水を取ればいいと思うのですが、わざわざ湖の近くに井戸を掘って水を取るのはどうしてか、不思議に思いました。やはり飲料水としては湖の水はふさわしくなかったのでしょうか。
石碑の「太閤井」までは読めるのですが最後の文字がなんと書いてあるのか分かりませんでした。
天守閣跡地
お城の建物の後ろ側に「天守閣跡地」がありました。そこには豊臣秀吉の石造や案内板がありました。
この「豊臣秀吉像」は、羽柴秀吉時代の服装ではないと思いました。まだ信長の家来だったので、このように立派なまるで公家のような服装はしていなかったと思います。
長浜城縄張り図(想像図)
この縄張り図によれば、お城は水に囲まれていて攻めるのには難しいと思いました。いわゆるお堀がそのまま琵琶湖を使っているので、うまいこと考えたなあという感想です。
天守閣の奥(琵琶湖側)のある建物は、なんだろうと思いました。
「おかねさん」の碑
碑文には、以下のような文が書かれていました。
「長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
天正2年(1574)ごろ、長浜城が築かれることになりました。
強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。
平成16年3月吉日」
昔福井県の丸岡城について、似たような話を聞いたことがあります。
何度建ててもくずれてしまうために人柱をして作ったというのです。人柱になったのはやはり女性でした。その女性の霊を鎮めるために立てられたのが近くにある「稲荷神社」だそうです。
長浜領境界の碑
「これより南長浜領」と書いてあるのが分かりました。
その横に案内板がありました。
「長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた。
この特権は徳川幕府にも認められ、他地域とくぎるための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに三十数本建てられたといわれる。
しかし今は、わずかに十余本を数えるだけで、そのうちもとの位置にあるものは数本である。
この境界碑は、秀吉のもうけた長浜の年貢免除の範囲を知る上で貴重な資料といえる。
なおこの境界碑は「これより東 長浜領・これより南・長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。
市立長浜城歴史博物館」
ということで、秀吉はこの長浜の領内で年貢免除を行っていたことがわかりました。信長の楽市楽座を真似たものでしょうか。長浜が商業の都市として栄えたことがうかがわれました。
2014年 NHK大河ドラマは「軍師官兵衛」
「八重の桜」が始まったばかりだというのに、はやばやと2014年度の大河ドラマの宣伝をしていました。秀吉の参謀黒田官兵衛が主役のようです。ただ、長浜城と黒田官兵衛との接点ははっきり分かりません。官兵衛が秀吉の参謀だったこと、秀吉が長浜に数年住んでいたことしか分かりません。