愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

長浜城 滋賀県(長浜市)

2013年03月30日 10時26分17秒 | 滋賀県
3月28日(木)長浜城に行きました。

長浜城とは
長浜城は、豊臣秀吉が1573年(天正元年)に築城したお城です。当時は、羽柴秀吉と名乗っていました。また、長浜という地名も、元は今浜といい秀吉が信長の「長」をもらって長浜としたらしいです。
秀吉の後は、山内一豊などが城主となっています。
1615年に廃城となっています。

車で始めて長浜城が見えたときの印象は、「ちゃっちい。」

 お城のミニチュアのような建物に見えて、豊田市にある「かに本家」のお城を思い出してしまいました。
 しかし、間近に行くと大きくてやっぱり「長浜城」だなあと思えました。たぶん天守閣の最上階が小さいのでそう思えたのだと思います。

長浜城 石垣出土地
 長浜城内に教育委員会による案内板がありました。








「従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。
昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められることになった。
同年11月下旬から約1ヶ月間、水底の発掘調査をしたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長約30メートルにわたり整然と列をなしていることがわかった。
よって、ここに標石を設けて長浜城遺構の一端をしのび、郷土史研究の参考に供するものである。」

と書いてありました。
 今公園となっているところは、40年ぐらい前は湖の底だったのです。もちろん写真に見えるようなお城もなかったのです。
 また「石垣の根石」とは、石垣の最下層の石のことらしいので、長浜城は建てられた後に琵琶湖の中に水没したか、もともと湖の中に石垣を作ったということになります。

太閤井戸
お城の建物の西側琵琶湖のほとりに「太閤井戸の跡」の石碑がありました。琵琶湖は淡水湖なので、そこから直接水を取ればいいと思うのですが、わざわざ湖の近くに井戸を掘って水を取るのはどうしてか、不思議に思いました。やはり飲料水としては湖の水はふさわしくなかったのでしょうか。
 石碑の「太閤井」までは読めるのですが最後の文字がなんと書いてあるのか分かりませんでした。


天守閣跡地
 お城の建物の後ろ側に「天守閣跡地」がありました。そこには豊臣秀吉の石造や案内板がありました。



 この「豊臣秀吉像」は、羽柴秀吉時代の服装ではないと思いました。まだ信長の家来だったので、このように立派なまるで公家のような服装はしていなかったと思います。

長浜城縄張り図(想像図)
 
 この縄張り図によれば、お城は水に囲まれていて攻めるのには難しいと思いました。いわゆるお堀がそのまま琵琶湖を使っているので、うまいこと考えたなあという感想です。
 天守閣の奥(琵琶湖側)のある建物は、なんだろうと思いました。

「おかねさん」の碑

 碑文には、以下のような文が書かれていました。

「長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
天正2年(1574)ごろ、長浜城が築かれることになりました。
強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。

平成16年3月吉日」

 昔福井県の丸岡城について、似たような話を聞いたことがあります。
 何度建ててもくずれてしまうために人柱をして作ったというのです。人柱になったのはやはり女性でした。その女性の霊を鎮めるために立てられたのが近くにある「稲荷神社」だそうです。


長浜領境界の碑

「これより南長浜領」と書いてあるのが分かりました。

 その横に案内板がありました。
「長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた。
この特権は徳川幕府にも認められ、他地域とくぎるための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに三十数本建てられたといわれる。
しかし今は、わずかに十余本を数えるだけで、そのうちもとの位置にあるものは数本である。
この境界碑は、秀吉のもうけた長浜の年貢免除の範囲を知る上で貴重な資料といえる。
なおこの境界碑は「これより東 長浜領・これより南・長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。

市立長浜城歴史博物館」

ということで、秀吉はこの長浜の領内で年貢免除を行っていたことがわかりました。信長の楽市楽座を真似たものでしょうか。長浜が商業の都市として栄えたことがうかがわれました。

2014年 NHK大河ドラマは「軍師官兵衛」

 「八重の桜」が始まったばかりだというのに、はやばやと2014年度の大河ドラマの宣伝をしていました。秀吉の参謀黒田官兵衛が主役のようです。ただ、長浜城と黒田官兵衛との接点ははっきり分かりません。官兵衛が秀吉の参謀だったこと、秀吉が長浜に数年住んでいたことしか分かりません。

吉田城 豊橋市

2013年03月25日 16時39分54秒 | 豊橋市
3月24日(日)吉田城に行きました。
瓜郷遺跡に行った日とと同じ日です。
要するに、豊橋市に用事があったのです。


さて、吉田城はもう桜が咲いていました。2,3分といったところでしょうか。
吉田城は、吉田公園とも言って市民の憩いの場でもあります。
早くもお花見に訪れている方も多数見えました。

吉田城とは
住所:豊橋市今橋町(市役所の隣です)
築城:牧野古白という武将が、今川氏親の命令で建てたようです。1505年(永正2年)です。
城主:めまぐるしく変わっています。主な武将を挙げれば
   牧野古白(こはく)(築城者)
   戸田憲光(東三河の武将、今川氏の家臣のようです)
   酒井忠次(松平家康の家臣)
   池田輝政(豊臣秀吉の家臣、当時は照政といっていた。後に姫路城を建てた人)
吉田城の地図


鉄(くろがね)櫓に入れた

鉄櫓は5階建てでした。中にはいろんなものが展示されていました。


1階に鎧の展示がありました。誰のか確認できませんでした。


本丸の復元模型がありました。今は、広い原っぱのようになっていますが、ここに江戸時代まで本丸御殿があったそうです。地震で壊れ、そのまま建て直さなかったようです。


お城の全体の復元模型がありました。写真では白っぽくて見にくいですが、全体の様子がよく分かりました。

瓜郷遺跡 豊橋市

2013年03月24日 19時04分52秒 | 豊橋市
瓜郷遺跡

瓜郷遺跡全容

 2013年3月24日(日)豊橋市の瓜郷遺跡に行きました。
 瓜郷遺跡は、弥生時代の遺跡です。弥生時代の中期から後期にかけての遺跡です。遺跡は豊川の自然堤防に立地していて、瓜郷地域の北西は湿地だったようです。水田の跡は見つかっていませんが、ここで稲作が行われていたようです。パンフレットには稲の炭化したものが紹介されていました。また、大きな集落だったようで、瓜郷地域全体が一つの集落だったようです。


近くにサークルKがあったので、車はそこに止めさせていただきました。
江川

 サークルKを出るとすぐ川が流れていました。小さな川で、「江川」というそうです。発掘の時にはこの川をせきとめて、川底を掘って遺跡を調べたようです。

 5分もかからずに、瓜郷遺跡に着きました。小さな場所で、住居の復元されたものとミニチュアの高床式倉庫がありました。

ミニチュア高床式倉庫、この中にパンフレットが入っていました

住居の中

 住居の復元建造物は立派でした。よく見ると左右に膨らんでいました。中の方を見ると、丸ではなく楕円のようになっていました。丸みを帯びていた方がしっかりした構造になるのかなと思いました。

柱の様子がちがう?

 案内板には発掘当時の住居跡の柱の穴の写真がありました。丸くくぼんでいるのが柱の穴の跡だと思うのですが、復元住居の中の柱と若干異なるなあと思いました。

史跡境界

周りの道を散策していると「史跡境界」という標柱がありました。

佐和山城址見学会その2(佐和山城) 滋賀県

2013年03月20日 15時43分58秒 | 滋賀県
見学コース

龍譚寺見学の後昼食をとり、いよいよ佐和山の「登山」です。佐和山は海抜233メートルですが、龍譚寺駐車場との高低差は、およそ130メートルぐらいです。たいしたことはない、と登る前は思っていましたが、いざ登ってみるとかなり急な斜面があり、つらかったです。
この地図は、ウェブで見つけたものですが、コースとしては右上の<龍譚寺>を出発点として、<塩硝やぐら><本丸><千貫井><太鼓丸><千畳敷>と進み、同じコースを戻るという順路でした。

塩硝やぐら址

塩硝やぐら址の案内です。大きな穴がありました。

塩硝やぐらから本丸をのぞむ

この塩硝やぐらの先から見た本丸方面の様子です。かなり急な斜面になっており、ここから本丸を攻略することは困難だなあと感じました。

西の丸址

しばらく歩くと「西の丸址」の案内板がありました。

空堀の址

堀と思われるものです。山の斜面にいくつかこのように堀のようなものを作り、敵の侵入を防いだのだと思われます。

本丸址
やっと本丸址に着きました。本丸址からは、彦根城が見えました。ただし春霞なのか、黄砂なのか、PM2.5なのか霞がかかっていて、ぼんやりしか見えませんでした。

彦根城の遠景

彦根城アップ

佐和山城址の案内標識

本丸址の案内板

石垣の址
本丸址で、記念撮影をしたあと、今度は南の方に降りていきました。まずは、石垣の址を見に行きました。佐和山城の石垣は、彦根城を作った際にほとんどが運ばれてしまったために、ほとんど残っていません。わずかばかりが残っているだけです。


千貫井
 次は、千貫井です。佐和山城のライフラインです。ここから水を取っていたようです。湧き水なので、今でも水がありました。ただ、この井戸は、発見されたときに発見者によって埋まっていた土砂などと一緒に掘り返したために、原型をとどめていないといわれています。


太鼓丸・千畳敷
 太鼓丸から千畳敷を見ました。今は木が生えていて、草ぼうぼうです。昔は、太鼓丸の当たりには建物があったそうです。また千畳敷はどうしてこんな広いのか尋ねたところ、「ここに兵が集まった、兵隊のたまりだった。」ということでした。

太鼓丸址への案内

太鼓丸から千畳敷を見る

おまけ 石田三成は善人?
 石田三成は悪人のように描かれることが多いのですが、善人という話もあります。豊臣秀吉がバテレン禁止令でキリスト教の信者を取り締まっていたときに、哀れに思った三成は、キリスト教信者の数を実際の人数より少なくして報告したという話もあります。「石田三成公顕彰会」は、そんな三成を顕彰するための会ではないかと思います。