愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

前野家文書 「武功夜話」

2014年04月28日 18時44分08秒 | 歴史史料
小牧長久手の戦いと民衆
 愛知の歴史を民衆の立場で書かれた本があります。

「愛知民衆運動の歴史」という本です。著者の伊藤英一氏は高校の社会科の教師です。発行が昭和62年(1987年)なので、もう27年も前です。そのときに新聞でも取り上げられたようです。


小牧長久手の戦いを民衆の目線で
 この本から、私もたくさんのことを学びましたので、紹介しておきます。特に、「小牧長久手の戦い」については、当時新しい史料として話題を呼んだ「前野家文書」(「武功夜話」として新人物往来社から発行されています。その史的価値については諸説があります。)を取り入れて、この戦いが民衆にとってどういうものだったかを述べています。

それによると、小牧長久手の戦いは、以下のようだったようです。

領内困窮の様体切々申し聞かされ候
 春越方よりおびただしき軍馬の往来、春よりの作毛相立たず困窮甚だしく、あまつさえ在郷諸村の究竟なる者戦場に罷り出て手不足もこれあり。なお連日の長雨のため、田畑に砂入り民家を押し流し、馬・人ともに水死その数を知らずなり。西部(中島郡)の牧馬は、高水のため大河その流れを変え数か村は流失、川底に相成り、馬の殖も払底、容易に入手致し難く候なり。
 先日小折村生駒八右衛門、三輪兵部の御両所罷り越し、領内困窮の様体切々申し聞かされ候。聞き及ぶところへ「勢州は桑名郡の一郡を残すのみ、ことごとく筑前守取り抱え候由。犬山を始めとして川筋竹ヶ鼻、加賀の井、下の郡まで、上郡(丹羽郡)は半部取り抱え、御領地半分は敵方の手に陥り、御家来衆食邑を失い、日増しに困窮、兵糧にも事欠く次第。なおこの上合戦延引候哉。領内百姓ども飢渇窮亡、為に家を捨て逃散の者多く、田畑は荒廃籾種を失い、田の植え付けも成らず、このままに打ち過ぎ候哉。下々の者家抱えがたく、それがしども爰かしこ駆け廻し、兵糧・御馬・雑手の調達に苦心候なり」と申されるなり。(武功夜話)


 小牧長久手の戦いのとき、加賀野井城から長島城に入った小坂孫七郎に、6月7日、織田信雄から桑名浜田城への出陣命令が出ました。しかし、出陣の準備が整わないので、小坂孫七郎は息子の助六を使って前野喜左衛門に馬の調達を依頼しました。そのときに、依頼された前野喜左衛門が、使いの助六に語ったという内容です。

また、誰は語ったものか分かりませんが、以下のようにも書かれているそうです。

苅田取りの責め合いに候
「今度の取り合いは戦場の決戦にあらず、苅田取りの責め合いに候」(武功夜話)

「上方勢、余勢をもって押し出し来たり、夜中を厭わず苅田掠め取る事おびただしく罷り出で、追い散らせども雑人ども手当たり次第に放火狼藉の限りを尽くし、百姓ども安堵の色を失い難渋に陥り候。」(武功夜話)


 信雄側の計算で丹羽郡の地で約3000石の米が秀吉勢に掠め取られた、と筆者の伊藤氏は述べています。

 さらに、この年の9月、濃尾一帯は暴風雨に襲われたそうです。

「真桑は風のために破損、蚕子も掃き立たず、大豆等の小物も不作、茶は少々拵え候も商人来たらず。この年はまことに不運の歳、在々村々は困窮に罷り在り候。」(武功夜話)

 つまり、小牧長久手の戦いによって在地の耕作者(百姓、農民??)は、暴風雨の影響もあり、困窮を究めたと言うのです。秀吉が勝った、家康が勝ったという武将の目線だけで戦いは考えてはいけないことが分かります。
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長久手古戦場(5) 犬山市

2014年04月27日 09時57分54秒 | 犬山市
小牧長久手の戦いの経過
小牧長久手の戦いの経過をまとめると、以下のようになります。<Wikipedia参照>

天正12年(1584年)

小牧の戦い
3月13日 池田恒興、秀吉軍に寝返り、犬山城を占拠
3月17日 秀吉軍、森長可、尾藤知宣と家康軍、酒井忠次、榊原康政が戦う。(羽黒の戦い又は八幡林の戦い)秀吉軍が敗北する。
3月18日 家康、小牧城を占拠し、周囲に砦、土塁を築く。
4月5日  秀吉、楽田城に着陣する。

長久手の戦い
4月6日 秀吉軍(池田恒興、元助、森長可ら)三河岡崎を目指して出撃(中入)
4月9日 秀吉軍(池田恒興ら)、岩崎城(丹羽氏重ら)を攻める。(岩崎城の戦い)秀吉軍の勝利。
    家康軍(水野正重、榊原康政ら)、白山林で休息している秀吉軍(羽柴秀次ら)を奇襲す。秀吉軍の敗走。(白山林の戦い
    秀吉軍(堀秀政ら)、桧ヶ根で家康軍と戦う。(桧ヶ根の戦い
    家康、色金山に着陣。御旗山あたりに約9000人の陣を敷く。(家康、井伊直政、織田信雄ら)
    秀吉軍、長久手あたりに約9000人の陣を敷く。(池田恒興、森長可、池田元助、池田輝政ら)
    長久手の戦い又は仏ヶ根の戦い。森長可討死、池田恒興討死、池田元助討死、家康軍の勝利。
5月1日 秀吉、大坂に帰還。

竹ヶ鼻城の戦い
5月6日 秀吉、信雄側の武将、不破広綱(竹ヶ鼻城)を攻める。(竹ヶ鼻城の水攻め)家康、信雄が出陣してこないため、命を助けることを条件に開城させる。

蟹江城の戦い
6月   蟹江城の戦い。家康・信雄軍の勝利。

末森城の戦い
9月   末森城の戦い 家康側武将佐々成政(越中国)が、秀吉側武将前田利家(加賀、能登国)を攻める。末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)で戦う。前田が佐々を撃退する。
11月11日 秀吉と信雄が和睦

羽黒の戦い

 上記の年表ように、3月17日秀吉軍森長可らが、家康軍と戦った戦です。古戦場跡の案内は、名鉄羽黒駅の近くにありました。羽黒小学校の南東側に羽黒八幡宮という神社があり、その辺が戦いの中心だったようです。


羽黒の戦い(八幡林の戦い)を伝える案内板。羽黒八幡の竹林の北にありました。

この戦いで、森長可は敗戦し、家臣の野呂助左衛門・助三父子を戦死させてしまいました。その碑が名鉄の東側に建てられていました。

野呂父子の石碑(大正7年羽黒青年会によって建てられた)
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二子古墳 安城市

2014年04月26日 08時54分02秒 | 安城市
安城市にもあった「二子」古墳
 二子古墳と言うのは、尾張にもありました。春日井市の「二子山古墳」です。他にもありそうです。というのは、「二子」とは、前方後円墳などのようにお山が二つある古墳のことを言うと思うからです。円墳や方墳などお山が一つしかなければ、二子と言う名前は残らなかったのではないかと思います。


二子古墳 東側から見た写真

二子古墳とは
 二子古墳は、前方後方墳です。前方後円墳はよく聞きますが、前方後方墳は、めずらしいです。全長約68メートル、高さ(後方部)約7メートル、幅約36メートルで、矢作川流域では2番目に大きいそうです。3世紀後半から4世紀初頭のものだそうです。


二子古墳 地形測量図(安城市ホームページより)

 古墳はほぼ南北に伸びていて、南側が前方部で、北側が後方部だそうです。前方部はなだらかな丘になっていました。後方部は、高くなっていて、頂上にはお寺の跡がありました。


前方部から、後方部を見る


後方部の頂上には「桜井天神社古址」の石碑がありました

 南の3面に周溝の跡がありました。

南西の周溝跡。少し浅くなっていて、雑草が生い茂っていました。周溝の更に西側は道路です。

「境内」とかかれた石?
 ぐるっとまわっていると、「境内」と書かれた石がありました。もしかしてこの古墳全体が「桜井天神社」の境内で、そのことを示す石?でも、どうしてぽつんと残っているのだろうと思いました。


「境内」とかかれた石

二タ子遺跡

 上記の安城市の地形測量図によりますと、二子古墳の東側は、「ニ夕子(ふたご)遺跡」となっています。写真の左側に看板が見えますが、それが「二夕子遺跡」の案内板です。案内板によれば、ここに弥生時代から古墳時代にかけて大集落があったということです。新幹線(写真奥の高架)建設にさいして、発掘が行われ、住居址、土器、木製品や銅鏃などが見つかったそうです。しかし、現在は麦畑が広がっていました。
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長久手古戦場(4) 長久手市

2014年04月21日 07時49分40秒 | 長久手市
血の池公園
 すごい名前の公園です。遺跡の一角によくこういう地名の場所がありますが、そのまま一つの公園の名前になっているのはめずらしいかなと思いました。


血の池公園は、現地の案内板によると

家康方の渡辺半蔵などの武将が、血鑓や刀剣を洗ったことからその呼び名がついたと言われています。毎年合戦の行われた頃になると、池の水が血の色に赤く染まって漂ったと言い伝えられており、名松鑓掛けの松とともに永く人々の心に語り継がれてきました。

池の水が赤くなるという話は、以前紹介した美浜町、野間大坊の血の池(源義朝の首を洗ったという池)がそうでした。もし本当だったらすごいですね。でも、現地には池はなく普通の公園があるだけでした。


渡辺半蔵とは
渡辺半蔵といえば、三河一向一揆で一揆側につき、勝鬘寺に立て籠もった武将の一人です。三河一向一揆での家康側との戦いで父渡辺高綱を殺されています。しかし一揆が収束した後に半蔵は許されて家康の家臣となっています。ここでは立派な家康側の武将として登場してきます。
 父の敵である家康の家臣になるというのは、どういう心持ちなのか現代からははかることはできません。

郷土史研究会
 ここで、史跡によくある「のぼり」に「長久手市郷土史研究会」と書いてあることに気付きました。ネットを検索しましたら、ちゃんとホームページがあり2014年4月に更新されていました。桶狭間の古戦場もそうでしたが、有名な史跡のあるところにはそういう会があるものだと思いました。
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縄文の家を作ろう 東栄町

2014年04月20日 00時47分03秒 | 東栄町
新聞の記事です。
4月19日(土)中日新聞に東栄町の取り組みが掲載されていました。


縄文の家を作ろうという取り組みです。
町が職員の手でやれば、もっと簡単にできたのだろうと思いますが、町民の力で縄文の家を復原しようとする試みです。
歴史への関心を高める取り組みとしては、いいと思いました。

東栄町とは

愛知県でも東の方の山間の町です。
コメント (2)
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