愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

加藤嘉明生誕の地(2) 安城市

2020年05月19日 09時07分46秒 | 安城市
加藤嘉明出生の地には異説があります。安城市の岩根城という所です。桶狭間の戦いの今川義元討死の場所が二つあったのと似ています。
参河国二葉松の記載
「参河国二葉松」には碧海郡の中に「岩根村古城」としてコメントされています。「所不祥加藤掃部(かもん)助正成明応年間始テ謁長親而有君臣〇」「岩根城の所在はよく分からない。加藤掃部助正成が明応年間(1492~1501)に松平長親に謁見し、家臣になった」という意味でしょうか。松平長親は、安城城に拠点を置く安城松平氏の2代目です。つまり、加藤家は元々松平氏の家臣であったわけです。これは、先の永良城の話(松平の家臣だったが、一向一揆で一揆側に与した)と符合しています。

松平家系図

でも、問題は加藤正成という人物です。リニュアルされた安城市教育委員会の看板では「(加藤嘉明が)この岩根の生まれとする資料も残されています」とし、以前の「加藤正成の子孫」という説明と微妙に言い方が変わってきています。
寛政重修諸家譜の記載
「寛政諸家譜」の加藤嘉明の項の前に「某」として加藤三之亟教明の説明をしています。「先祖より三河国永良に住し、のちゆえありて三河をさり、諸国を武者修行し、其後豊臣太閤につかへ、近江国矢島のうちにをいて三百石を知行し、同国に住す。」とあります。「ゆえありて」とは三河一向一揆を指すと思います。つまり、「寛政諸家譜」では、加藤嘉明の先祖はずっと三河国永良に住していたことになっているのです。また、加藤正成との関係にも触れていません。寛政諸家譜と永良神社の伝承を信じれば、加藤嘉明は永良の生まれということになります。
安城市教育委員会の言う「資料」とはどんな資料なのか、興味が湧きました。

岩根城現地案内板

調査地はちびっこ広場
さて、岩根城の案内板をよく見ると、現地、調査地、大手の推定地などが記載されていました。看板の地籍図の現在地は岩根公民館です。そこを南に行くと「調査地」という所があります。平成25年度に発掘調査をしたそうです。安城市のホームページにその結果が簡単に報告されています。

発掘された堀跡(安城市HPより)

出土品(上2段が江戸時代、最下段は戦国時代のものだそうです)安城市HPより

現場に行くと児童公園になっていました。

発掘現場(今は岩根ちびっこ広場)

しかし、ここが史跡であるということをしっかりアピールしていました。すごい!

岩根ちびっこ広場の看板

さらに地籍図にそって南側の「大手」のあたりに行きますと、曲がった道がありました。

大手の曲がった道

ここに枡形の門があったのでしょう。曲がった道はその名残だと思われます。

現在の道に痕跡を見ることができました。
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加藤嘉明生誕の地(1) 西尾市

2020年05月18日 09時18分31秒 | 西尾市
「参河国二葉松」幡豆郡を読み進めていきますと、「永良村(ながらむら)古屋敷」とあります。コメントは「加藤三之亟息左馬助嘉明出生加藤主殿同心也」とあります。

加藤嘉明の父、三之亟教明
加藤嘉明の父は三之亟(教明)と言います。ウィキペディアによれば、徳川家康の家臣でしたが、永禄6年(1563)の三河一向一揆で一揆側についたため子の嘉明ともども流浪の身となりました。

秀吉に拾われる 松山城を築城
しかし、近江の国で豊臣秀吉に拾われ、家臣になったようです。(はじめは豊臣秀勝の近習だったようです)以下秀吉に従軍し、たくさんの手柄を立てます。特に賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳七本槍」の一人として有名になります。その後は秀吉に従軍して大きな手柄を立て、伊予の国の大名になります。そして、あの松山城を築城します。

加藤嘉明像(松山城にて)2015年11月撮影


松山城(2015年8月撮影)中央は松山城マスコットキャラクターの「よしあきくん」

その加藤嘉明が三河国で生まれたということです。場所は現在の西尾市上永良町です。そして、代表して宮東の神明社に「生誕の地」の石碑が建てられています。

加藤嘉明生誕の地石碑

国の天然記念物 大きな椎の木
この神社には他に面白いことが二つありました。一つは、大きな椎の木があるということです。案内板によりますと、樹高8m、根回り20m、樹齢1000年で県下最大の古木だそうです。昭和7年に国の天然記念物となっています。

大椎の木

広田川に向いている神社
もう一つは、常夜灯が川の近くにあるということです。

神明社、常夜灯、広田川の位置関係(グーグル地図より作成)

神明社の建物と2つの常夜灯の真ん中を結ぶと川に行きあたってしまいます。だいたい常夜灯は神社の入口近くか本殿の近くにあります。つまり、2つの常夜灯に照らされて、本殿に進み、お参りをするというわけです。この神社の常夜灯が川の近くにあるということは、川の方から本殿に進むということになります。鳥居は、常夜灯や本殿の向きとは全然違った道路沿いにあります。
本殿が南東の方を向いているので、それに合わせて常夜灯を置いたように思います。では、なぜ神明社が南東の方、つまり広田川の方を向いているのでしょう?なにか向きに理由があるのかも知れません。とても不思議でした。
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正法寺古墳 西尾市

2020年05月15日 14時54分40秒 | 西尾市
正法寺古墳
幡豆にまで来たついでに気になっていた古墳を見ることにしました。正法寺(しょうぼうじ)古墳です。全長約94mの西三河最大の前方後円墳で、古墳時代中期初頭(5世紀初頭)に築かれたと推定されています。国の史跡に指定されています。平成13・14年の発掘調査によって三段の階段状の葺石や島状遺構が確認され、円筒埴輪のほか、家や蓋(きぬがさ)などの形象埴輪が出土したそうです。さきの中之郷古墳もそうでしたが、被葬者は伊勢湾の海上交通をつかさどった人物だと考えられています。

正法寺古墳の形・大きさ(ウィキペディアより)

この図でも明らかなように主軸線と前方部の端の線が直行しないのがこの古墳の特徴です。また、「島状遺構」というものが発見されています。

正法寺
現在この地は古墳公園になっています。古墳の名前の元になったお寺正法寺もすぐ横にあります。

正法寺

しかし、これ自身が一つの史跡のようになっていました。曹洞宗のお寺のようですが、つっかい棒があり、今にも倒れそうな感じでした。このお寺の横が古墳公園になってました。

古墳

古墳公園入口 
公園は、草が生え、歩きにくい状態になっていました。これから草刈り等が予定されているのでしょう。


正法寺古墳全景
古墳は海の方が前方部、北の方が後円部になっていました。


前方部から見た後円部 
登ってみると、結構高いことが分かりました。それにとても大きく感じました。西三河一ということが実感できました。

海と古墳

古墳から海を臨む

また、古墳からは海が見えました。向こうに島が見えました。佐久島でしょうか。ここから海が見えるということは、海からもこの古墳が見えていたということです。昔この辺りは海で、この古墳は半島状の地形に築かれていたそうです。

正法寺古墳の位置(地理院地図の陰影起伏図で作成しました)

今の一色、吉良、幡豆のあたりは海で、その海に東の方から半島状に山が突き出しています。その突き出した半島のちょうど先端のあたりに、島に浮かぶように正法寺古墳があります。古代の人はこの古墳を見て、目を見張り「大きな力を持った王がいる」と思ったに違いありません。
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中之郷古墳 西尾市

2020年05月13日 15時15分12秒 | 西尾市
幡豆の小笠原家
三河の南に一色町、吉良町、幡豆町という3つの町がありました。今は西尾市に合併してしまいましたが、それぞれ歴史のある町でした。その中の幡豆町に戦国時代、小笠原氏が住んでいました。幡豆小笠原氏というそうです。幡豆小笠原氏は2系統ありました。

幡豆小笠原氏
小笠原安芸守(寺部城) 定正-広政-重広-信元-信重・・・
小笠原摂津守(欠城)  安元-安次-広勝・・・

この小笠原氏は、はじめ今川氏についていましたが、桶狭間の戦い(永禄3年1560)の後、徳川氏につくようになりました。永禄6年(1563)の三河一向一揆では家康側に付いて戦います。永禄7年から11年(1564~68)にかけては、今川氏に対抗するために遠江との国境の船形山城を守ります。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは小笠原安元の弟と孫の安広が戦死し、三男の安勝も歩行困難になる重傷を負うなど小笠原氏は大きな被害を被ります。その後小笠原家は家康に従い、子孫は関東で旗本になっています。

欠城
さて、寺部城は城跡としてしっかり残っていて、見学にも行きましたが、「欠城」にはまだ行っていません。そこで、行ってみることにしました。なお、欠城は「参河国二葉松」では「寺部掛村古城」として記載されていました。最初は違う城かと思いましたが、「かけ」が同じ発音なので同じ城だと分かりました。しかし、現在は「中野郷」「市場」「貝吹」などの地名になっていて「掛村」に関係する地名は残っていないようです。

参考 ネット「みかわこまち」より「小笠原広重と小笠原安元」
  本ブログ「幡豆寺部城(1) 西尾市」「船形山城跡 豊橋市」

中之郷古墳
現地には「穴観音」と呼ばれるお社がありました。この観音のあたり一帯が欠城のあった場所だそうです。

穴観音

穴観音とは、この墳丘が「中之郷古墳」と言われる古墳であり、その石室の中に観音様をお祀りしたので、穴の中の観音様、穴観音と呼ばれるようになったのだと思います。

中之郷古墳の説明版

説明板によれば、被葬者は、「海上交通を掌握し、近畿や九州地方とも交流を持った人物」と考えられるそうです。ネットでは「奈良朝時代の豪士三宅民部足信盛を安置奉った」と古人の言い伝えがあるとの情報もありました。
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散歩

2020年05月08日 06時30分28秒 | 日記


コロナで、外出自粛です。
近くの公園を散歩しました。
鳥の声がさわやかだったので、思わず録画してしまいました。
よく聞いていると、カエル(ウシガエル?)の声も聞こえます。
子どもの声は、休校になって行くところがなく公園で遊ぶ子たちの声です。
遠くに見える桜の木の向こうに広場があります。

池に生えているのは、ススキです。人影はあまりありませんでした。
午後4時ごろです。
癒されました。
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