愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

加納城 岐阜県

2023年01月30日 19時42分06秒 | 岐阜県
立派な土塁と石垣に囲まれた加納城
今日は久しぶりに「教育ところがない」(今日行くところがない)「教養がない」(今日用がない)日でした。しかも空は晴天。よし、山城に行こうと決心し、向かった先は「片山城」です。岐阜県揖斐郡池田町です。
高速に乗ったばかりでは空は晴天。しかし、目的地が近づいてくると空の様子が怪しくなり、木曽三川を越えたあたりで養老付近を見ると、真っ白!伊吹山が見えない。養老山系が見えない!
養老JCTで進路を変え、大垣方面へ向かうと、雪が降り出しました。しかも雨交じりの重たい奴です。べちゃ、べちゃという感じで振り出しました。「せっかく来たから、これくらいの雪は何だ」と目的に行くと、なんと雪が積もっていました。
「靴が・・・・」やはり雪が積もっていては、しかも普通の靴だったので危険です。断念せざるを得ませんでした。
これからは、行く前に天候や特に積雪についてはしっかり調べて行こうと思いました。

しかし、このまま帰宅しては高速代がもったいない、ガソリン代もばかにならない、どっかへ行かなければと、あわてて探したのが加納城でした。加納城ごめんなさい、今度はしっかり下調べをしてまた来るからね。


本丸北側の石垣


本丸北側の石垣の東端


本丸南側にあった説明版


本丸東の外枡形

本丸を囲む土塁と石垣がしっかり残っていて、とても立派なお城でした。
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松平記(44) 松平記

2023年01月15日 05時44分11秒 | 松平記

松平記p44

翻刻
様、管領と申ハ名のミ計にて権勢ハ双なし。永禄五年の春
彼三好殿の家老松永弾正、三好殿弟安宅摂津守冬泰と不
和の間、冬泰逆心被成候由申けれども、三好殿更に臆し給
ハず、其時松永謀をめぐらし安宅殿右筆の侍浪人して居
たりしを頼ミ、むほんの廻状を作り謀判を致し数十通取
出し三好殿にひそかに見せ奉る間、其時三好驚給淡洲よ
り冬泰を呼越て道にて松永衆生害しける事誠にむざん
の次第也
一 其時分より三好一家衆のかまへをし、三好殿居城の河内飯
盛の城中殊外さハく、其由を伺ひ候て、河内国の坂主畠山
(高政、其比浪人して居たりしが…)

現代語
公方様(将軍)や管領といっても名目ばかりで、権勢は並ぶべくもなかった。永禄5年(1562)の春、かの三好殿の家老松永弾正久秀が、三好長慶殿の弟安宅摂津守冬康と仲が悪かったので、冬康が謀叛を企んでいるということを長慶に申したが、長慶はいっこうに気にしなかった。そこで、松永弾正久秀は謀を廻らし、浪人をしている安宅摂津守冬康の右筆に頼み、偽の謀反の廻し状を数十通作らせ、三好長慶殿に密かに見せた。すると長慶は驚き、淡路より冬康を呼び寄せ、道にて松永によって殺害されてしまった。まことに無残なことである。
一 その頃より、三好一家衆として守りを固め、三好長慶の居城飯盛山城の城中は殊の外騒がしく、そのことを聞いた河内国の坊主畠山高政という人が浪人していたが、

コメント
戦国のヒール?松永弾正
前回よりいきなり畿内の情勢の話になります。直接家康と関係がありません。何のために書かれているのか、ちょっと分かりません。今川義元が桶狭間で討死をしたころ畿内はどうなっていたかということでしょうか。
とりあえず、三好長慶、松永弾正久秀の話が展開されます。松永弾正は戦国のヒールとして有名です。

太平記英勇伝で描かれた松永弾正(ウィキペディア)、悪の権化のように描かれている

しかし、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で吉田鋼太郎さんが演じましたが、なかなかの好演でとてもヒールには見えませんでした。

この「松平記」では三好長慶の弟冬康を謀略で以て殺害しています。偽の文書を作らせ、兄の長慶に殺害させるというかなりあくどいやり方です。おそらく松平記の作者が人から聞いた話を元にしていると思われますが、松永=悪人のイメージがこの頃既にあったのかも知れません。
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あけましておめでとうございます

2023年01月14日 09時38分05秒 | 日記
あけましておめでとうございます
2023年もよろしくお願いします

「どうする家康」を見ました。
令和の世の中でしかやれないことだとびっくりです。
東照大権現、神君家康公を「弱虫で泣き虫」と。ままごとばかりしている。大高城ではひとり逃亡を図ろうとする。
ありえないです。江戸時代にこんなことを書いたら、市中引き回し、獄門縛り首、さらし首です。
私は、家康に対して特に思い入れはないので、別にどうでもいいのですが、「桶狭間の戦い」については、ちょっと思うところがありました。
①兵糧入れを5月19日とし、同時に丸根砦への攻撃を行っています。しかし、兵粮入れと丸根攻めは同時ではないようです。
「信長公記」では、「今川義元討死の事」の項において、
「今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、」
「案の如く、夜明けがたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。」
「辰の刻に源太夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上がり候。」
「天文21年5月19日、午の刻(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を焼き、御辛労なされたるに依って、人馬の息を休め、大高に居陣なり。」

つまり、18日に兵糧入れは終わり、19日は早朝に丸根砦を攻撃し、朝8時ごろには丸根砦は落ち、お昼ごろに家康は大高城で休息をしていたことになります。
ただし、「信長公記」にいう、先に兵糧を入れて後で丸根を攻めたというのは現実的ではなく、ドラマのように、先に丸根を落してから兵糧入れをした方が合理的です。

②甲冑を金色にしていましたが、上記にあるように家康は「朱武者」だったので、金色の甲冑ではないと思います。
③雨ののさなかに義元の討死が大高城に知らされていますが、雨は一時のものだったように思います。
「(信長の軍が)山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。(中略)空晴るるを御覧じ、信長槍をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かかれ、かかれと仰せられ、(後略)」

つまり、義元は空が晴れてから討ち取られているのです。

以上、視聴者の方に誤解があるといけないので、十分検討してほしいと思いました。
しかし、大高城の堀の描写は素晴らしくて、現地を見ていると思いました。

大高城の堀跡
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