愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平城山城見学会

2023年03月28日 10時16分36秒 | 愛教労 城の会
松平城山城見学会のお知らせ

日  時 5月7日(日)午後1時
集合場所 豊田市豊松町榎ヶ入歌石、歌石駐車場(そのまんま公園駐車場)

知る人ぞ知る、知らない人は知らない「松平城山城」を見学します。別名大田城とも言います。西三河では規模の点で一、二を争う大きなお城だそうです。一緒に見学を希望される方は、下記まで連絡を
電話 080-3612-0027(南)
メール mseijyun@gmail.com

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沓掛城見学会 豊明市

2023年03月20日 07時46分55秒 | 豊明市
新説沓掛城は本当か
報告が遅くなりました。3月5日(日)愛教労城の会で沓掛城を見学しました。参加者は全部で15人と結構多い人数となりました。

駐車場にて

沓掛城は平城で、現在は本丸とその周りの堀跡、諏訪曲輪、二の丸の一部が残っています。

沓掛城の案内図(現地掲示板)

鬼門除けは古地図に
諏訪曲輪の説明で、北東方向(鬼門)が欠けているのは、鬼門除けのためと言いましたが、古地図を見ると、北東の方向に堀と土塁が窪んでいるところがあります。ここが鬼門除けではないかという事でした。それで、諏訪曲輪の北東部分の遺構は謎のままになりました。

古地図にみえる鬼門除け


諏訪曲輪の見学

本丸、堀跡、土橋、二の丸と見学をし、いよいよ新説沓掛城の場所へと移動です。新説沓掛城は、近くの曹洞宗寺聖應寺の裏山です。

この堀は城の堀か

新説沓掛城の堀跡を見る

確かに立派な堀の跡のように見えますが、やはり狭すぎること、古地図と照応していないこと、鳴海方向まで見通せないことなどから違うのではないかと思いました。

実はこの裏山は新しい道で東西に分断されており、見学したのは東半分でした。そこで、西の方も見て、本当に鳴海方面が見えるのか確かめようということになり、藪の中を進み西半分の裏山に行きましたが、やはり鳴海までは見えませんでした。残念。
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松平記(45) 松平記

2023年03月08日 08時10分37秒 | 松平記

松平記p45

翻刻
高政其比浪人して居たりしが、譜代の士紀伊国湯川と云
者、根来衆土橋などと云者共を催し、飯盛の城へ押寄、向城
を取せめけるに三好物外軒実休是を聞、飯盛後詰として
阿波国の軍勢齋藤福良等引率して馳向ひ、合戦を初めけ
る処に根来衆の中にくっきゃうの鉄砲の名人有之ける
が三好実休をねらひ打落す、依之阿波衆皆敗北す
一 松永弾正修理大夫に申けるハ物外軒豊前守殿御討死被
成候間、謀を廻し士卒に力を付可申候由申、三好聞て萬事
汝がとひたるべきとて中々出張すべきやうなし、松永時
分にてハ三好殿ハ出らるまじとて、松永城を出て方々の

現代語
(畠山)高政はその頃浪人していたが、譜代の侍紀伊国湯川という者や根来衆土橋などという者どもを促し、飯盛の城へ押し寄せ、向かいの城を取り攻め立てた。三好物外軒実休がこれを聞き、飯盛城の後詰として、阿波国の軍勢斉藤福良等を引率して駆けつけ合戦となった。そこへ根来衆のくっきょうの鉄炮名人が三好実休を狙い、撃ち落としてしまった。これによって阿波の軍勢は皆敗北を喫した。
一 松永弾正久秀が三好修理大夫長慶に言うには、三好物外軒豊前守実休が討死なされたので、謀を廻らし家臣たちの中に力をつけるものがいると。三好長慶はこれを聞いて、すべてあなた(松永久秀)が対応すべきことであるとして、なかなか出陣なさるようなことがなかった。松永久秀は、この様子で三好長慶殿は出陣することはないとみて、城を出て方々の(一揆などを招き寄せ)

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波乱万丈、戦国時代を象徴する畠山高政の生涯
ここで、畠山高政という人物が登場します。畠山と言えば、私には2つ思い浮かびます。1つは、石川県能登地方の畠山氏。七尾城を築き栄華を誇った畠山氏です。もう一つは、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した畠山氏です。中川大志さん演じるかっこいいい「坂東武士の鏡」、畠山重忠です。しかし、ここで登場する畠山氏は、また別の畠山氏のようです。(関係はあると思いますが)ウィキペディア等で畠山高政について調べました。
<畠山高政>
1527年(大永7)生まれ。織田信長が1534年(天文3)生まれなので、信長より7つ年上です。どこで生まれたか分かりません。父は、畠山政国といいます。ただ、この時父政国は紀伊に遁世しており、河内国の実権は守護代の遊佐長教だったそうです。紀伊で生まれたのかも知れません。
1552年(天文2)家督を相続します。25歳。同年三好長慶と将軍足利義輝の争いがおこり、高政、遊佐長教は三好長慶側につきます。
1558年(永禄元)家臣である安見宗房と対立し、居城である高屋城から酒井、紀伊へ逃れます。31歳。この時までに高屋城に住んでいたようです。

高屋城の位置(ウィキペディア)

1559年(永禄2)高屋城に復帰。どうやって戻ったのかは分かりません。32歳。
1560年(永禄3)三好氏の侵攻を受ける。33歳。三好長慶と敵対関係になっているようです。高政はまた堺へ退去します。この年は桶狭間の戦いの年です。
1561年(永禄4)根来衆と共に紀伊から和泉に進軍。34歳。根来衆を味方に付けて、河内の方に復帰しようと試みています。
1562年(永禄5)3月、和泉・久米田の戦い。35歳。三好長慶の弟三好実休を討ち取る。高屋城を奪還。この戦いのあたりが「松平記」に記事として掲載されているようです。
同年5月、河内教興寺の戦いで三好長慶に敗れる。高政はまた紀伊へ逃れる。
1565年(永禄8)家督を弟の畠山秋高に譲る。38歳。(この年、将軍足利義輝、三好三人衆に討たれる)
1568年(永禄11)41歳。織田信長が将軍足利義昭を奉じて室町幕府を再興。この時、畠山高政・秋高が幕府に出仕。高屋城に復帰します。
1573年(天正元)46歳。弟の畠山秋高が家臣の遊佐信教に殺害されます。
1575年(天正3)48歳。織田信長と戦い、高屋城を破却される。(高屋城の戦い)
1576年(天正4)49歳。死去。

なんと波乱万丈の生涯です。
家臣・守護代との争い、三好長慶との争い、織田信長との争いなど戦いに明け暮れた戦国時代を象徴するような一生です。
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古城 西尾市岩瀬文庫

2023年03月05日 05時15分36秒 | 西尾市
古文書の会の方から、「岩瀬文庫で山城の企画をやってるよ」という情報を得て、さっそく行ってきました。

企画の案内チラシ

絵図や古文書に残る古城の記録を展示するものです。

西尾市岩瀬文庫(2013年撮影)

江戸時代の古城に関する情報は、尾張地方は天野信景ほか「尾州古城志」(18世紀初め)、三河地方は佐野知堯ほか「三河国二葉松」(18世紀中葉)をネットで検索していました。また、絵図は、浅野文庫「諸国古城之図」の冊子(公益財団法人、広島城発行)を利用していました。この企画では、岩瀬文庫が持っている文献や取り寄せた文献などが紹介されていました。

写真撮影がOKでしたので、気に入ったものを紹介します。

諏訪原城

こちらは、広島城「諸国古城之図」の諏訪原城です。


微妙に違っています。

鳴海城です

「尾州鳴海古城之図」
パンフレットの解説文によれば、「斜面が茶色に塗られている。城の左上が北。所々に間数を注記する。南側の曲輪から伸びた道の先に家の屋根が連なって描かれているのは、東海道と鳴海宿であろう。」

この図を基にもう一度鳴海城を見てみる必要があると思いました。
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