愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

金ヶ崎城 福井県敦賀市

2022年09月16日 14時41分32秒 | 福井県
9月10日(土)福井県敦賀市金ヶ崎城に行きました。県内の市町や観光協会などでつくる「ふくい城巡りプロジェクト」実行委員会の主催で、「若越城の会」でお世話になった方が案内人を務めるということなので、私も参加させていただくことにしました。見学会には30人程の参加者があり、なかには子どもさん連れで参加されている方も複数見られました。

見学会の様子

 案内の方によりますと、金ヶ崎城は月見御殿と木戸跡(堀切)、それに最近確認された畝状竪堀などがあり、遺構が少ない城のように思われているが、そうではなく、いくつもの遺構が残る大変重要な城跡だと力説をしておられました。

金ヶ崎城の案内図(見学会資料より)

 まず、金ヶ崎神宮に着いたところで、神宮の宮司さんからお話がありました。印象的だった話は、神宮に井戸があり、海から来た船の人に水をあげることができたということです。金ヶ崎が今は陸地の上に小山の様な地形になっていますが、戦国時代は三方を海に囲まれていたということです。

金ヶ崎神宮の宮司さん

次に「鷗ヶ崎」という所へ行きました。突端が平地になっていて、その一つ奥も階段状に平地になっていました。江戸末期にここに砲台があったそうですが、「もともと平だったので、砲台にできたのだと思います。つまり、もともと曲輪だった可能性があります」ということでした。
 次は「尊良親皇御陵墓」です。この奥に「食い違い虎口」があるということで、目を凝らしてみてみましたが、よく分かりませんでした。

尊良親皇御陵墓(2015年8月撮影)

 さらに「月見御殿」の方に登りました。一般にこの月見御殿辺りが金ヶ崎城の本丸と考えられ、この御殿跡に「金ヶ崎城」の石碑がありました。しかし、本丸は別にあり、ここは物見を兼ねた月見のための展望所だったのではないかと言う事でした。特に月見御殿の平坦地が狭いことを問題にし、「実はこの辺りは石灰岩の岩でできていて、近代になってセメントを作るために削られたのではないかと考えられます」とのことでした。
 また、月見御殿に登る道の西側には段曲輪跡とみられる平地がいくつも見られました。
 圧巻は二の木戸の北側にある畝状竪堀です。図には12条の竪堀が記載されていますが、これは北から侵入してくる敵に対する防御の為に作られています。北からの侵入とは、すなわち船による進入です。金ヶ崎は三方を海に囲まれているため、北からの侵入も想定しなければいけませんでした。また、二の木戸(実は二重堀切)や畝状竪堀によって厳重に守られていることから、このすぐ近くに本丸があったと考えられるとのことでした。(金ヶ崎神宮あたりか?)

一行はそのあと、足早に手筒山に登り、古墳や手筒山城の遺構を確認して下山しました。
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吉田城 豊橋市

2022年09月07日 07時06分07秒 | 豊橋市
久しぶりに行きました。
本ブログ「吉田城 豊橋市」2013年3月15日
なんと、9年ぶりです。といってもブログにアップしたのが9年前で、吉田城には豊橋市役所に行くついでに何度か訪れています。

戦跡としての吉田城
今回は、豊橋の吉田城が実は戦争遺跡でもあることを紹介します。

歩兵第18連隊遺跡図

歩兵第18連隊とは、旧日本陸軍の軍隊です。戦前にここ吉田城内に駐屯していました。その跡が残されています。

弾薬倉庫跡
吉田城で言えば、三の丸にあたりますが、そのなかに弾薬倉庫の跡がありました。


西門門柱跡
もともとは正門で、国道1号線の工事に伴い移動したそうです。豊橋市役所のちょうど西の端に保存されています。
他にも記念の石碑などが多数あり、戦争を考えるうえでとても大事な遺跡だと思いました。

つぎに吉田城についてですが、鉄(くろがね)櫓の中に入れるようになりました。以前は週に1回日曜日にしか見れませんでしたが、今は月曜日を除く毎日入れるようになったそうです。

鉄櫓

石垣の修復を早急に
本丸は、石垣の修理のため、南半分が立入禁止となっていました。
そこで川の方に降りて、石垣を拝見することにしました。すると、恐ろしいことが起こっていました。
鉄櫓の石垣、かの池田輝政が造ったという石垣が雑草に覆われていました。とても由々しき事態です。雑草を放置しておくと、石垣を損傷させると聞いたことがあります。

鉄櫓の石垣

また、すでに工事に取り掛かっていますが、石垣の孕みがいたる所で見られ、これも危険な状態です。

孕みの激しい石垣を告げる囲み


その他孕みが見られる石垣

豊橋市においては、早急に石垣の修復工事に取り掛かり、吉田城を守ってほしいと思いました。
コメント (2)
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牛久保城 豊川市

2022年09月06日 18時16分34秒 | 豊川市
8月に牛久保城、吉田城に行きました。
牛久保城は現在のJR牛久保駅の辺りです。

牛久保駅

牛久保駅から線路をまたいで、すぐ左手に牛久保城の看板がありました。

牛久保城の看板

説明の文章は以下の通りです。

この地にあった牛久保城は、享禄2年(1529)一色城主牧野成勝が今橋城主(のちの吉田城主)の信成の命を受けて築城したといわれています。扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。城に向かって真っすぐに入る道はなく、すべての道が曲尺手になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。のちに、牛久保は天領となり、元禄13年(1700)廃城になりました。いまは、昔の面影はなく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名がわずかに昔を偲ばせています。豊川市教育委員会


牛久保城の古絵図も看板に描かれていました。

牛久保城古絵図

この看板の奥に石碑が立てられていました。

牛久保城跡碑

この石碑のある所から、南東を見ると低くなっていて、城のある場所が高くなっていることが分かりました。説明文で言う「扇状台地」になっていました。「国土院地図」の「陰影起伏図」で見ますと、牛久保城が河岸段丘の端に造られていることがよくわかります。


国土院地図・陰影起伏図より

説明文の「城跡」「城下」は運転しながら見つけることができました。(運転中で撮影はできませんでした。残念)「中屋敷」という交差点があり、関係あるのかも知れないと思いました。

グーグルストリートビユーより「中屋敷」交差点
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